倉橋健一「足裏に汗が」(「現代詩手帖」2007年12月号、初出「PO」126、2007年08月)
「夢」を描いた詩を最近多く読むようになった気がする。夢をひとはどうやってみるのか。「映像」で見るのか。「ことば」で見るのか。「見る」ということばが「夢を見る」ということばのなかに含まれるから、視覚は含まれているのだろうけれど、どうも「映像」を見る、という感じがしないのである。「ことば」で見るのだ、という気持ちがするのである。
倉橋の作品を読みながら、その思いをいっそう強くした。倉橋の詩は「飯だ」と呼ぶ声にさそわれて「厨」へゆく夢を描いている。その前の方の部分。
いちばん夢らしいのは「箸が木に成長したら風呂に入れ」という理不尽な(?)指示だろうか。「空腹にもなり淫蕩にもなる」という突然の飛躍だろうか。どちらもとても魅力的な行であり、たしかにそこに「夢」の、「夢」でしかないものを感じる。そういう世界は「映像」ではなく「ことば」でしか再現できない。「夢」は「ことば」で見る--という理由のひとつはそこにあるのだが、そうした特異な(?)状況・状態よりも、もっと強く、「夢はことばなのだ」と思う部分がある。
「今度は」「はっきり」「といって」「相変わらず」「ただ」「いつのまにか」。このことばの一連の動き、逆説と連続を引き起こすことばの動きが「夢」なのである。違うものを意識する。そして意識したとたんに、意識は動いてしまって、それを取り込んでしまう。存在を柔らかに溶かして融合させるのではなく、存在を存在の固体のまま流動させてしまうことばの動き。
続きを読むと、さらにそういう気持ちが強くなる。
「そういえば」「気がする」。ここには「映像」は含まれない。「そういえば」や「気がする」を「映像」では伝えられない。(私は、その方法を知らない。思いつかない。)ことばだけが意識を動かしてゆき、「夢」を「つくる」のである。ことばの動きのなかで「夢」は「夢」になる。
「夢」をことばにするのは難しい。語ろうとする先から「夢」はするりと逃げていく。どうにも、さっき見た「夢」と同じものにはならない。「うまくいえない」。誰もが経験するこの感覚は、「夢」がことばでできているからにほかならない。ことばでできているからこそ、ことばが少しでも違った風に動くと違いがはっきり自覚でき、あ、いいたいことはこういうことではないのに、これは私の見た「夢」とは違っているという感じが、語る人のなかで生まれるのだろう。
「夢」はことばでできている。「夢」はことばで見るものである。だからこそ、強靱な文体を持った詩人や作家にしか「夢」は書けない。「夢」が描かれ、そしてそれがリアルに迫ってくるというのは、その詩人が強靱な文体を持っている証拠でもある。
「夢」を描いた詩を最近多く読むようになった気がする。夢をひとはどうやってみるのか。「映像」で見るのか。「ことば」で見るのか。「見る」ということばが「夢を見る」ということばのなかに含まれるから、視覚は含まれているのだろうけれど、どうも「映像」を見る、という感じがしないのである。「ことば」で見るのだ、という気持ちがするのである。
倉橋の作品を読みながら、その思いをいっそう強くした。倉橋の詩は「飯だ」と呼ぶ声にさそわれて「厨」へゆく夢を描いている。その前の方の部分。
仕方かないので膳の前に正座して
うたた寝をするふりをしていたら
箸が木に成長したら風呂に入れ
と今度ははっきり背中からおばばの声がした
といって相変わらずひと気はない
ただ滴の落ちる辺りからは
いつのまにか味噌汁の匂いがする
味噌汁の匂いがすると
空腹にもなり淫蕩にもなる
いちばん夢らしいのは「箸が木に成長したら風呂に入れ」という理不尽な(?)指示だろうか。「空腹にもなり淫蕩にもなる」という突然の飛躍だろうか。どちらもとても魅力的な行であり、たしかにそこに「夢」の、「夢」でしかないものを感じる。そういう世界は「映像」ではなく「ことば」でしか再現できない。「夢」は「ことば」で見る--という理由のひとつはそこにあるのだが、そうした特異な(?)状況・状態よりも、もっと強く、「夢はことばなのだ」と思う部分がある。
「今度は」「はっきり」「といって」「相変わらず」「ただ」「いつのまにか」。このことばの一連の動き、逆説と連続を引き起こすことばの動きが「夢」なのである。違うものを意識する。そして意識したとたんに、意識は動いてしまって、それを取り込んでしまう。存在を柔らかに溶かして融合させるのではなく、存在を存在の固体のまま流動させてしまうことばの動き。
続きを読むと、さらにそういう気持ちが強くなる。
そういえば前夜は不寝(ねず)の番で
神聖な石の周りを巡りながら
雨乞いの行(ぎょう)をしていた気がする
「そういえば」「気がする」。ここには「映像」は含まれない。「そういえば」や「気がする」を「映像」では伝えられない。(私は、その方法を知らない。思いつかない。)ことばだけが意識を動かしてゆき、「夢」を「つくる」のである。ことばの動きのなかで「夢」は「夢」になる。
「夢」をことばにするのは難しい。語ろうとする先から「夢」はするりと逃げていく。どうにも、さっき見た「夢」と同じものにはならない。「うまくいえない」。誰もが経験するこの感覚は、「夢」がことばでできているからにほかならない。ことばでできているからこそ、ことばが少しでも違った風に動くと違いがはっきり自覚でき、あ、いいたいことはこういうことではないのに、これは私の見た「夢」とは違っているという感じが、語る人のなかで生まれるのだろう。
「夢」はことばでできている。「夢」はことばで見るものである。だからこそ、強靱な文体を持った詩人や作家にしか「夢」は書けない。「夢」が描かれ、そしてそれがリアルに迫ってくるというのは、その詩人が強靱な文体を持っている証拠でもある。