詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「密言」

2007-12-23 14:26:08 | 詩(雑誌・同人誌)
 池井昌樹「密言」(「現代詩手帖」2007年12月号、初出「歴程」2007年08月号)
 池井の詩は、とつぜん「うた」ではじまる。「こえ」ではじまる、と言い換えてもいいかもしれない。「意味」からはじまらない。「意味」を語ろうとはしない。

だれもいない……なつやすみ
まだあさにちかいおひるまえ
ミルクのような陽があたり
ぼくはこの世にひとりいた

 ただ「こえ」が出て、「うた」になる。「うた」といっても、最初は、ただの音のゆらぎである。何かいいたいことがあって「こえ」を出しているのではない。赤ん坊のばぶばぶという「こえ」よりも、池井の「こえ」の方がしまつがわるい。赤ん坊は「こえ」を出すことは自然に身につけているが、まだことばを具体的に言うことろまで肉体が発達していないし、「意味」も知らない。ところが池井はちゃんとことばを発音することも知っていれば「意味」も知っている。知っていながら、「意味」を捨て去って、「こえ」そのものになろうとする。

まだあさにちかいおひるまえ

 ここには「意味」はない。「こえ」のよろこびだけがある。実際に発音してみるとわかる。「まだあさにちかい」には「あ」と「い」のうねりがあるだけである。「おひるまえ」には「あいうえお」の音がある。池井の肉体は自然にこういうことをやってのける。「意味」を捨て、肉体そのものになることで、「意味」以前のものと共感するのである。感覚を開放し、肉体そのものをも池井ではないだれかと共有するのである。

押入れのあかずのとびら
あかずのとびらのむこうには
ぼくのしらないおお祖母が
いきたえたままいきていて

 「押入れのあかずのとびらのむこうには」ではなく、「あかずのとびら/あかずのとびらのむこうには」と「おと」を繰り返す。そのリズムにのって、「意味」を超える。超越する。「ぼくのしらないおお祖母が/いきたえたままいきていて」という「意味」を超越した世界へ入って行く。そのために「おと」が必要なのである。「おと」によって肉体を酔わせる。肉体そのものをも忘れさせる。「おと」の愉悦が肉体の愉悦と重なり合って、肉体の輪郭、肉体にも及んできている「意味」を超越する。

だれもいない…なつやすみ
まだあさにちかいおひるまえ
万象はみなぼくをゆびさし
ささやきかける……なにごとか

くちぐちに……ささやきかわす
ミルクのような陽のなかで
ぼくはだれかの名を呼びかけて
………………その名をわすれた

 池井の肉体は、ここにはない。消えてしまっている。「万象はみなぼくをゆびさし」ているのは、「ぼく」が「万象」そのものだからである。「池井」という枠が消え、あらゆる存在としてそこに存在する。どこを指差しても「ぼく」をゆびさすことになるのである。
 こういう状態、世界と一体となり、どこに存在するのか、その一点を指し示すことができない状態を「放心」という。「心」はあらゆる「場」に放たれて、そのときそのとき、自在に形をとるのである。
 そこで池井は「なにごとか」を聞く。「なにごとか」としか言えないのは、そこには「意味」がないからだ。ただ、放心する、そのときに、あらゆるものの「こえ」が聞こえる。「あらゆる」というのは、もちろんそのなかに「池井」自身も含まれるからである。「万象」が「池井」の分身である。「万象」がささやくのは「池井」の「こえ」でもある。
 「ぼくはだれかの名を呼びかけて/………………その名をわすれた」と池井は書くが忘れたのではなく、名前など存在しないのだ。どう名づけてもいいのだ。名前を超越してしまうのだ。

 池井は「こえ」を出した瞬間から、それが「詩」へとむかってゆらめき、「こえ」は詩をつかんでくる。池井の「こえ」は「詩」しかつかめない。「こえ」は「詩」になってしまう。
 詩しか書けない人間がいる、というのは、驚愕すべきことである。

コメント
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