野木京子「繊維草、えのころくさ」(「現代詩手帖」2007年12月号、初出「スーハー!」創刊号、2007年03月)
この6行のうちの、「私は足を水辺に濡らしたのです」を私は、実は
と読んでいた。引用するまで、ずーっと、そう読み続けていた。そして間違えたまま、
感想を書きたいと思い続けていた。
「私は足に水辺を濡らした」は文法的におかしい。そんなことはあり得ない。そうわかっているのに、私はそう読み続けたのである。
なぜか。
野木の「私は足を水辺に濡らしたのです」ということばの動かし方は私の動かし方からすると乱れている。私なら、こういう書き方はしない。「私は水辺で足を濡らした」になる。「てにをは」が違う。「足」という目的語(?)の位置が違う。そのために、とんでもない具合に「てにをは」が動いてしまって、私の意識のなかで
ということばの動きになったのである。
だが、この乱れゆえに、乱れを引き起こす力ゆえに、実は私は野木の詩が好きなのである。
私の意識のなかで動いたことばほどではないが、野木のことばにも乱れはあるのだと思う。「私は水辺で足を濡らした」ではなく「私は足を水辺に濡らしたのです」と書くときの乱れ。野木は「私は水辺で足を濡らした」とはそうは書かない。そして、そう書かないのは書かないだけの理由があるのだ。その、ことばにはならないような理由がこの1行に含まれている、と私は感じる。
ことばにならない何かがあるということを明らかにするために、野木はわざと乱れた文体を採用している。--私は、そんなふうに思い、その書かれていないものに惹かれるのかもしれない。
この3行にも類似のものがある。
矛盾がここにはある。空がないのに、空が割れたとことばにする矛盾がある。しかも、そのことばを発するのはここにはいないとも、ここにいるとも断言できる「私のなかの幼い舌」である。
「私のなか」と「私」が入り乱れて揺れている。そして、そういう乱れのなかに巻き込まれてゆくとき、何かが見える感じがする。私が見えると感じたものは野木の書いているものとは無関係かもしれない。それでも私は、そういう錯覚が好きなのだ。他人のことばをとおって、いままでの自分のことばで花たどり着けない場所をいってしまうことが好きなのだ。その瞬間に、詩を感じるのだ。
「私のなかの幼い舌」も刺激的だ。 「私のなか」と「私」が入り乱れて揺れているとき、「幼い」時代の舌なのか、それとも本当は幼くないのだが「幼さ」を残している今の舌なのか。どちらともとれる。どちらともとれることが、詩を誘うのだ。
そして、ここまで書いて、私は、「私は足を水辺に濡らしたのです」を「私は足に水辺を濡らした」と読み違えた理由に出会う。そのとき「足」と「水」は区別がないのだ。一体になっているのだ。だから、「足を水辺に濡らす」も「足に水辺を濡らす」も同じなのだ。足と水とが一体になる瞬間にかわりがないのだ。
ある存在と別の存在が出会い、その瞬間に二つの存在の区別がなくなる。どちらともとれる状態になる。そして何かが動き始める。まだことばにならない何かが動きだす。
詩は、そういうところにあるのだと思う。
私は足を水辺に濡らしたのです
(渡り切ることなどできないのにね)
小さな妖鬼が赤い実をぶら下げたまま、くくうとあざける
空が割れているよ、空が割れたよ
私のなかの幼い舌がそうささやいたのに
ここには空なんかないよ
この6行のうちの、「私は足を水辺に濡らしたのです」を私は、実は
私は足に水辺を濡らした
と読んでいた。引用するまで、ずーっと、そう読み続けていた。そして間違えたまま、
感想を書きたいと思い続けていた。
「私は足に水辺を濡らした」は文法的におかしい。そんなことはあり得ない。そうわかっているのに、私はそう読み続けたのである。
なぜか。
野木の「私は足を水辺に濡らしたのです」ということばの動かし方は私の動かし方からすると乱れている。私なら、こういう書き方はしない。「私は水辺で足を濡らした」になる。「てにをは」が違う。「足」という目的語(?)の位置が違う。そのために、とんでもない具合に「てにをは」が動いてしまって、私の意識のなかで
私は足に水辺を濡らした
ということばの動きになったのである。
だが、この乱れゆえに、乱れを引き起こす力ゆえに、実は私は野木の詩が好きなのである。
私の意識のなかで動いたことばほどではないが、野木のことばにも乱れはあるのだと思う。「私は水辺で足を濡らした」ではなく「私は足を水辺に濡らしたのです」と書くときの乱れ。野木は「私は水辺で足を濡らした」とはそうは書かない。そして、そう書かないのは書かないだけの理由があるのだ。その、ことばにはならないような理由がこの1行に含まれている、と私は感じる。
ことばにならない何かがあるということを明らかにするために、野木はわざと乱れた文体を採用している。--私は、そんなふうに思い、その書かれていないものに惹かれるのかもしれない。
空が割れているよ、空が割れたよ
私のなかの幼い舌がそうささやいたのに
ここには空なんかないよ
この3行にも類似のものがある。
矛盾がここにはある。空がないのに、空が割れたとことばにする矛盾がある。しかも、そのことばを発するのはここにはいないとも、ここにいるとも断言できる「私のなかの幼い舌」である。
「私のなか」と「私」が入り乱れて揺れている。そして、そういう乱れのなかに巻き込まれてゆくとき、何かが見える感じがする。私が見えると感じたものは野木の書いているものとは無関係かもしれない。それでも私は、そういう錯覚が好きなのだ。他人のことばをとおって、いままでの自分のことばで花たどり着けない場所をいってしまうことが好きなのだ。その瞬間に、詩を感じるのだ。
「私のなかの幼い舌」も刺激的だ。 「私のなか」と「私」が入り乱れて揺れているとき、「幼い」時代の舌なのか、それとも本当は幼くないのだが「幼さ」を残している今の舌なのか。どちらともとれる。どちらともとれることが、詩を誘うのだ。
そして、ここまで書いて、私は、「私は足を水辺に濡らしたのです」を「私は足に水辺を濡らした」と読み違えた理由に出会う。そのとき「足」と「水」は区別がないのだ。一体になっているのだ。だから、「足を水辺に濡らす」も「足に水辺を濡らす」も同じなのだ。足と水とが一体になる瞬間にかわりがないのだ。
ある存在と別の存在が出会い、その瞬間に二つの存在の区別がなくなる。どちらともとれる状態になる。そして何かが動き始める。まだことばにならない何かが動きだす。
詩は、そういうところにあるのだと思う。