山田まゆみ「履歴」(「ガニメデ」41、2007年12月01日発行)
山田まゆみの「履歴」の書き出しの2連は衝撃的である。
こんなふうに抒情詩が成立することが、私にとっては衝撃的であった。「中天」に「ひとつの黒い影」として存在する鳥--それはどんな鳥かは名前が明らかにされていないが、どんな鳥でもいいのである。抽象としての鳥である。いわば象徴である。こういう存在は肉眼で見えていても、実は肉眼でとらえているわけではない。「頭」でとらえている。だからこそ、肉眼では見えないものが、その鳥の本質として提示される。
遠い中天の黒い影にすぎない鳥の「胸毛」とはどんなふうに見えるのか。見えはしない。地上からは見えはしない。それでもそう書くのは、実は山田が鳥を見ていないからである。もとより抽象の鳥である。見えなくてもかまわない。
見るかわりに何をするか。山田は鳥になってしまうのである。鳥になる夢を見るのである。それも楽しい夢ではなく、切ない夢を。
山田の哀しみがとても濃度の高いものであり、それが山田の胸のあたりまでこみ上げてくれば山田は鳥になって空に止まっていることができる。激しい哀しみがあれば、そしてそれが胸までたまってくれば、こころはその哀しみを土台にして中天に存在することができるのである。
鳥は雀でもツバメでも鳩でもワシでもタカでもない。鳥である。鳥という抽象である。抽象であるからこそ、それは山田のこころを矛盾なく吸収し、純粋になる。そうして純粋なものは、どんな矛盾(?)というか、かけ離れたものでも平然と結びつけることができる。
いま、そこにないものを引き寄せ、抽象のなかで、かけ離れたものと結びつくことで、いまという場と時間を超える。そして、感情になる。中天、その高み。海、その深み。その高みと深みを結んで広がる哀しみ。それが一瞬、鳥に結晶する。鳥の「胸毛のあたり」に結晶する。
一方で山田は「日々のうた」で結晶化を拒んだ哀しみも描いている。
「ここ」さえも失って、山田は鳥の「胸毛のあたり」という他人のやってこない場所で哀しみを結晶化させる--そういう抒情を生きている、生きようとしているということかもしれない。
山田まゆみの「履歴」の書き出しの2連は衝撃的である。
激しい嘆きは嬉々とした心の跳躍に変わることを鳥は知っている
ここから見上げると中天にひとつの黒い影
鳥があのようにいつまでも高みにいられるのは
密度の濃い哀しみの堆積があの鳥の胸毛あたりまでせりあがっているからです
海のように深い空をこわくないのは悲哀が満ち満ちているからです
こんなふうに抒情詩が成立することが、私にとっては衝撃的であった。「中天」に「ひとつの黒い影」として存在する鳥--それはどんな鳥かは名前が明らかにされていないが、どんな鳥でもいいのである。抽象としての鳥である。いわば象徴である。こういう存在は肉眼で見えていても、実は肉眼でとらえているわけではない。「頭」でとらえている。だからこそ、肉眼では見えないものが、その鳥の本質として提示される。
密度の濃い哀しみの堆積があの鳥の胸毛あたりまでせりあがっている
遠い中天の黒い影にすぎない鳥の「胸毛」とはどんなふうに見えるのか。見えはしない。地上からは見えはしない。それでもそう書くのは、実は山田が鳥を見ていないからである。もとより抽象の鳥である。見えなくてもかまわない。
見るかわりに何をするか。山田は鳥になってしまうのである。鳥になる夢を見るのである。それも楽しい夢ではなく、切ない夢を。
山田の哀しみがとても濃度の高いものであり、それが山田の胸のあたりまでこみ上げてくれば山田は鳥になって空に止まっていることができる。激しい哀しみがあれば、そしてそれが胸までたまってくれば、こころはその哀しみを土台にして中天に存在することができるのである。
鳥は雀でもツバメでも鳩でもワシでもタカでもない。鳥である。鳥という抽象である。抽象であるからこそ、それは山田のこころを矛盾なく吸収し、純粋になる。そうして純粋なものは、どんな矛盾(?)というか、かけ離れたものでも平然と結びつけることができる。
海のように深い空
いま、そこにないものを引き寄せ、抽象のなかで、かけ離れたものと結びつくことで、いまという場と時間を超える。そして、感情になる。中天、その高み。海、その深み。その高みと深みを結んで広がる哀しみ。それが一瞬、鳥に結晶する。鳥の「胸毛のあたり」に結晶する。
一方で山田は「日々のうた」で結晶化を拒んだ哀しみも描いている。
何度も追いやられてここにたどりついた
わたしをここへ追いやったあの人は
こうすることで自分自身の辻褄を合わせたのでしょう
わたしの知らないところで
耐えきれない思いに耐えてきたからにちがいありません
もう行くところはないけれど
もしふたたびあの人が望むならここもあけわたすでしょう
「ここ」さえも失って、山田は鳥の「胸毛のあたり」という他人のやってこない場所で哀しみを結晶化させる--そういう抒情を生きている、生きようとしているということかもしれない。