詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

司茜「若狭 小浜公園展望台にて」

2007-12-05 11:59:14 | 詩(雑誌・同人誌)
 司茜「若狭 小浜公園展望台にて」(「楽市」61、2007年12月01日発行)
 地村保志さん、濱本富貴恵さん(「富」は正確には「ワ」冠)のことを描いている。そのなかほど。

先生は縦け
私は横やで
富貴ちゃんが言うたんや

子宮筋腫の手術の後の傷の話やけんど
それを聞いた時 泣けたで
わけのわからへん国に二十四年もおって
どんな苦労したんんやろ
まだまだ話されへんこといっぱいお腹に持って
ほんまに小さい頃から不憫な子や
もう何にも思い出さんでええ
静かにしとったってほしいんや
しあわせになってほしいんや

 こうしたことばに出会った時、私は不思議な気持ちになる。「先生は縦け」の「け」は疑問の「か」が訛ったものである。方言である。口語である。それは、たとえば西脇がいったような「わざと」を含まないことばである。「わざと」いうのではなく、ほんとうに思っていることを思っているままに書いているのである。特に、それまでの標準語から方言(口語)まじりになった部分(引用部分)は思っていることをそのまま書いたことばである。思っていることを「わざと」そのまま書くことによって、思っているということを強調しているといえば言えるのだけれど、その「わざと」は、「思っていないこと」を書くときの「わざと」ではない。それがちょっといやなのである。

もう何にも思い出さんでええ

 この深々としたことば、それが「わざと」書かれたものならばいいけれど、「わざと」ではないと思う。それがちょっといやなのである。



 きのう取り上げた古賀忠昭の『血のたらちね』の全編は「わざと」書かれている。そこに書かれている「母」や「父」は「わざと」書かれたものである。繰り返し繰り返し繰り返し同じことを書く。「わざと」書く。そんなふうに「わざと」書かなければ、書くことによってことばを延々と積み重ねなければたどりつけないものがあるからである。繰り返される同じことばを次々に削除して行けば簡便なストーリーが浮かび上がるが、その簡略化したストーリーは古賀が書きたいものではない。古賀はそこで語られている特異な「内容」をつたえたくて書いているのではない。「内容」ではなく、その「内容」(意味)のまわりにうごめていいるつかみきれない黒々としたもの(ときには黒光りさえするもの)を、うごめきのまま、そしてその力強さのままとらえようとして「わざと」読みにくく書いているのである。
 読みにくく書くことのなかに、古賀の詩がある。そしてそれが「現代詩」とつながる。
 私の書いていることは、たぶん司には伝わらないかもしれない。

 --これは、雨意味で、古賀の詩の魅力を補足するために書いた文章である。司の詩を利用して申し訳なかったかもしれない。

コメント
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