豊原清明「月の音符を身にまとう」(「火曜日」92、2007年11月30日発行)
豊原のことばは、ときどき私を、私の生まれた家へつれてゆく。たとえば、「月の音符を身にまとう」。
私の家には柿の木があった。私はその木を見ている。月の光を浴びて白い。しかし見ているうちに、枝の先、幹の陰、ゆがんだこぶの周囲--さまざまな形のさまざまな部分で色が目を覚ましはじめる。白の中にあるさまざまな色が、夜の闇にひそむ力によって引き出されるのか、あるいは夜の黒のなかにひそむさまざまなものが白い光に吸いよせられて化学反応を起こすのか。それとも、単に私が現実を正確に見ることができないだけなのか。現実をゆがめてみているだけなのか。その瞬間、私は不安と、一種の恍惚とした喜びも感じている。木がそんなふうに見えることの不安と喜び。それを感じている。
清原の場合は、どうだろうか。
この3行に、私は吸いよせられてしまう。引きつけられてしまう。そして、ふいに2行目を思い出すのだ。「月の音符を浴びている。」ふいに聞こえない音楽が聞こえるのである。聞くことのできない音楽が聞こえてくのである。つまり、沈黙が。
完全な断絶が。
それがとてつもなく美しい。
詩は事実ではない。そして、事実ではないが、事実を含んでいる。社会生活をするすべての人が共有することによって社会関係を機能させるのに役立つ「事実」を詩はもっていないが、そのかわり社会生活とは関係のない個人的な事実を含んでいる。社会的な事実と個人的な事実のあいだには、どうすることもできない断絶がある。
そういうものが断絶となって、すっと走ることがある。沈黙となって走ることがある。--それと共振する。共鳴する。そして何かがかわる。
そのとき、私はたとえば「火曜日」という詩誌を読んでいない。パソコンに向かってもいない。生まれ故郷家にいて、夜中、月の光で白くなっている柿の木を見ている。
豊原のことばは、ときどき私を、私の生まれた家へつれてゆく。たとえば、「月の音符を身にまとう」。
白くなった木は
月の音符を浴びている。
どもう月には異星人がいて、
人にはきこえぬ音を立て、
木を黄色くし、紫にし、
真っ赤にする。
血しぶきをあげて
きえゆく人の、人の、
青臭い思い出。
僕は青をすべて削除できた。
この不安は青ではなく、
白である。
私の家には柿の木があった。私はその木を見ている。月の光を浴びて白い。しかし見ているうちに、枝の先、幹の陰、ゆがんだこぶの周囲--さまざまな形のさまざまな部分で色が目を覚ましはじめる。白の中にあるさまざまな色が、夜の闇にひそむ力によって引き出されるのか、あるいは夜の黒のなかにひそむさまざまなものが白い光に吸いよせられて化学反応を起こすのか。それとも、単に私が現実を正確に見ることができないだけなのか。現実をゆがめてみているだけなのか。その瞬間、私は不安と、一種の恍惚とした喜びも感じている。木がそんなふうに見えることの不安と喜び。それを感じている。
清原の場合は、どうだろうか。
僕は青をすべて削除できた。
この不安は青ではなく、
白である。
この3行に、私は吸いよせられてしまう。引きつけられてしまう。そして、ふいに2行目を思い出すのだ。「月の音符を浴びている。」ふいに聞こえない音楽が聞こえるのである。聞くことのできない音楽が聞こえてくのである。つまり、沈黙が。
完全な断絶が。
それがとてつもなく美しい。
詩は事実ではない。そして、事実ではないが、事実を含んでいる。社会生活をするすべての人が共有することによって社会関係を機能させるのに役立つ「事実」を詩はもっていないが、そのかわり社会生活とは関係のない個人的な事実を含んでいる。社会的な事実と個人的な事実のあいだには、どうすることもできない断絶がある。
そういうものが断絶となって、すっと走ることがある。沈黙となって走ることがある。--それと共振する。共鳴する。そして何かがかわる。
そのとき、私はたとえば「火曜日」という詩誌を読んでいない。パソコンに向かってもいない。生まれ故郷家にいて、夜中、月の光で白くなっている柿の木を見ている。