詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川田絢音「カサブランカ」、須藤洋平「孤独とじゃれあえ!」

2007-12-18 11:47:34 | 詩集
それは消える字
川田 絢音
ミッドナイト・プレス

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 川田絢音「カサブランカ」、須藤洋平「孤独とじゃれあえ!」(「現代詩手帖」2007年12月号)
 川田絢音「カサブランカ」の初出は『消える字』(2007年04月発行)。異国で「詩」について語る、というより、「詩」ということばが引き起こす衝撃を書いている。

詩と言うだけで
激情のように
なにかを破る
読まれていないのに
詩が
伝わることがあって
手に入れることのできない現実のものを
獲たような思いがした

 詩として書かれたものではなく「詩」ということばがもっているものが他者と共有される。ことばにはそれぞれの定義というか、文脈があって、そのなかでことばの意味が確定されるのだけれど、ことばの通じない異国で、「詩」ということばだけが独立して流通する。そのときの不思議な幸福。
 美しいことばがある。

なにかを破る

 詩は何かを破ることで誕生する。何かを破らないと、つまり、日常の文脈を破り、日常の生活を破り、いままで存在しなかったものを破壊しないことには誕生しない。何かを破壊し、同時に生まれてくるものが詩である。
 川田はここでは詩を定義しているのだ。
 そして、もう一行。念を押すように。

読まれていないのに

 詩は読まれる必要はない。何かを破ればそれでいいのである。これは、詩は理解できなくていい、という定義の裏返しである。詩は理解できないものなのである。なぜならそれはそれまでの流通している文体を破るものである。そこに書かれていることばは、それまでの日常の文体では把握できない。「意味」がわからない。「詩はわからない」とよくいわれるが、わからないから詩なのである。「意味」がわかれば詩ではない。
 ただし、何かを破っている、という印象を引き起こさないと詩ではない。

 詩ということばには、それだけで現実を破る何かがある。詩は、その全体が読まれなくても、詩ということばだけで、詩が好きな人には、すでに現実を破っていると感じられるのである。
 川田は詩を愛するひとと異国であったのだ。詩ということばだけで、現実を破る何かを感じるひと、それほどまでに詩を愛するひとに出会ったのである。
 それは確かに、たとえば日本では「手に入れることのできない」ものかもしれない。



みちのく鉄砲店
須藤 洋平
青土社

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 詩は現実を破るもの。それはことばという形をとらずに肉体そのものの運動、行為としてあらわれることもある。そうした行動・行為を詩と定義することはむずかしいかもしれない。しかし、一方で、行動を、肉体の欲求、動きを詩と定義して、そこにいのちのよりどころを見出し、そこからことばを再獲得する詩人もいる。須藤洋平である。
 「孤独とじゃれあえ!」(初出『みちのく鉄砲店』、2007年04月発行)のなかほど。

家を飛び出し、堤防から海に飛び込んだ。

夢中になって小さな岩場まで泳ぐと仁王立ち、まわりを見渡すと何もない黒い海にぽつんと「障害」という孤独が際立った。

芸術なんだ!僕の身体は芸術なんだ!

 「障害」ということばを「芸術」ということばで破る。そして、そのことばをよりどころに、いのちを現実のなかへ、その奥へ奥へと侵入させてゆく。「孤独」が叫び声を上げはじめる。その叫び声を須藤は叫びと自覚して、さらに叫ぶのである。
 詩が、現実と向き合いながら、ことばの鋭さを磨きはじめる。

芸術なんだ!僕の身体は芸術なんだ!
それがその時の僕の唯一の逃げ場だった
「いきるという事は恐ろしいね」
祖母が畑にはびこる雑草を見て言っていた事を同時に思い出していた。
岸に戻り砂浜に寝転んでいると急に腹痛に見舞われた。薄暗い便所のなかで脂汗を流しながらしゃがんでいると、様々な落書きが目に入る。そのなかに一際大きく、力強く書かれているものがある。
「今は孤独とじゃれあえ!」
それは間違いなく中学の頃、僕が書いてものであった……
僕は便器を舐めながら誓った。
いつだってしぶとく生き抜いてやろうと。

コメント
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