詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鶴見俊介「自由はゆっくりと来る」

2007-12-25 14:13:18 | 詩集
詩と自由―恋と革命 (詩の森文庫)
鶴見 俊輔
思潮社

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2007年12月25日(火曜日)

 鶴見俊介「自由はゆっくりと来る」(「現代詩手帖」2007年12月号、初出『詩と自由』2007年01月)
 鶴見俊介の詩は初めて読んだ。(本屋で詩集を立ち読みしたが、それは眺めた、という程度のものであり、特に感想を書こうとも思わなかった。)「アンソロジー」に選ばれているは次の詩である。

知っている多くの人に
心を分かとう。
千々にくだいて。
それが冷たくとも
なにかのしるしになるだろう。

人が死んで行くごとに
おれは自分から自由になり
静かに薄れてゆく。

 こうした詩は1篇だから読むことができる。2篇までも大丈夫かもしれない。しかし3篇以上続くとたぶん私は読むのをやめてしまう。感想を書こうという気持ちにもならない。
 なぜか。
 「意味」があるからだ。
 鶴見が誰かと知り合いになる。その知り合いの中で「鶴見像」というものができあがる。それは「親切な鶴見」「勤勉な鶴見」だけではなく、「冷たい鶴見」であるかもしれない。(「それが冷たくとも」と鶴見はきちんと書いている。)それがどんなものであれ、鶴見が生きている「しるし」である。それが社会に広がり、少しずつ鶴見という人間をしばる。「鶴見はこうした人間だ」という声が鶴見をしばる。その声に合わせるにしろ、あるいは逆にその声を裏切るにしろ、一種の拘束として鶴見には感じられる。だが、その知人たちが死んでゆくと、知人たちの「鶴見像」も一緒に消えてゆく。そして、鶴見は「鶴見像」から自由になり、同時に自由になること存在の厚みを失って「薄く」なってゆく。
 こんな「意味」を追いながらことばを読むのは楽しくない。楽しくなければ、詩ではない。

 また、ここに書かれているセンチメンタルも私にはとても気持ちが悪い。そういう意味でも、楽しくない。(詩には、気持ちが悪くても、何度でも読みたいものもある。)
 だいたい人間関係のなかでさまざまな「自画像」があふれ、それが知人の死によって消えてゆくことが「自画像」の全体量が減り、自己が薄れてゆくという「算数」がナルシスティックである。今、鶴見が何歳か知らないし、この詩を書いたのが何歳のときか知らないが、いわば「おとな」がこんな「算数」に酔いしれて、「算数」をわざわざ発見であるかのように書いて、鶴見自身で楽しかったのだろうか。
 だいたい、「鶴見像」は「知人」の中だけで存在するのだろうか。
 私は鶴見とは何の面識もない。知人ではない。けれども「鶴見像」というものを持っている。(面倒だから、ここでは、この詩にあらわれた鶴見とは違っている、とだけ書いておく。)そういう人は無数にいる。そしてまた、たとえ鶴見が死んだとしても、多くの人は鶴見の残した文章を読み、「鶴見像」をつくりあげる。そういう人(簡単に言えば、鶴見よりも若い人)は今後もどんどん増えるだろう。鶴見が死んだとしても、「鶴見像」は減りはしないのである。死んでしまえば、鶴見が反論できない「鶴見像」があふれ、その「鶴見像」の行き違いで、鶴見とは無関係な人々が「本当の鶴見はこれだ」と言い合うようなことだって起きるのである。「古典」の作家はみな、そうである。たとえばプラトンはプラトンの実際の知人よりもはるかに多くの人に知られ、その「プラトン像」はプラトンが生きていた時代よりはるかに多い。プラトンは、他人がつくりあげる「プラトン像」からは永遠に自由にはなれない。
 鶴見もそういう「古典」につらなる一人である。(詩人としてではないかもしれないが……)--と、ここまで書いてきて、あれ、鶴見は、こういう感想、「鶴見は古典につらなるひとりであるから、死後もその存在は薄れはしない」という文章を求めて、こんな詩を書いたのかなあ、となんだかわびしい気持ちにもさせられた。ふいに、わびしさが込み上げてきた。知人が死んで「鶴見像」が消えるよりも、何かをきっかけに「鶴見像」そのものが読者のなかで変わってしまう(時には消えてしまう)ということの方が、ホラーなのだが、鶴見はそういうことは考えないのかもしれない。生きている人のなかでも「鶴見像」は消える。そのことをちょっと思い出してもらいたい。

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