建畠晢「葉桜の街」(「現代詩手帖」2007年12月号、初出「文藝春秋」2007年07月号) 木坂涼の「止まる」を読んだあと、この建畠の作品が急に気になりはじめた。
木坂の作品は、世界が一点に集約し、その一点を木坂自身が通り抜けると、その瞬間に宇宙があらわれる。一点への凝縮と瞬間的な宇宙へのひろがり。そういうものをやわらかな感性のなかでつたえるのが木坂の詩である。
建畠の詩は、木坂とは逆である。
畳屋の二階で、鳥が殺されました
その時、窓の外では葉桜が我関せずと春風に揺れ
緩やかにカーブする道では
何も知らない家族のワゴン車が行き交っていました
公園の斜面を連なって降りる幼児たちの沈黙
そして木立の中に集う麻服の老女たちの嬌声
ささやかな集団は、それぞれに音を立て、また立てない
大小の陶器もまた我関せずと木漏れ日の市に並び
葉桜は柔らかな風に揺れ
ああその時、畳屋の二階では、鳥が殺されたのです
鳥が殺された。そこから出発し、建畠の世界は拡散して行く。凝縮を拒む。葉桜。道。ワゴン車。幼児。老女。陶器。それらはすべて「我関せず」(何も知らない)という意識で存在している。併存している。何の脈絡もない。どんなにていねいに描写しても、たとえば、道を「緩やかに」「カーブする」と修飾語を重ねてみても、意識はその修飾語へ集中するのではなく、ただ上滑りにすべり、道は主役の座を「ワゴン車」に譲るのだが、その「ワゴン車」も「何も知らない」「家族」の特定されながら、何の意味も持たないまま「行き交っていました」と修飾語があろうがなかろうがかわらない述語を割り当てられるだけである。ここではなにも起きない。
幼児と老女が並列して存在し、音を立てるものと立てないものも、無関係に並列して存在する。「それぞれに音を立て、また立てない」ということばに含まれる「また」ということばが非常に印象的なのは、そのことば「また」が建畠の描く世界を象徴しているからだろう。
世界は「また」を繰り返しながら広がり続ける。建畠は10行で詩を閉じているが、実際は、世界は「また」を繰り返しながら延々と広がっている。ともどもない。書こうと思えばどこまでも延々と描写は続くのである。
そうした世界のなかで、建畠は「ああ」と声を洩らす。(最終行)
ここにこの作品の「詩」がある。
世界が拡散する。建畠のことばにのって、上滑りしながら、「また」を省略したまま、永遠に広がり続ける。ことばはそんなふうに延々と広がり続けながら、建畠へとは帰って来ない。ただ建畠だけが取り残される。「一点」が取り残される。何にも出会えない。ただ自分の感情とだけ出会う。それが「ああ」という詠嘆である。他人を無視して自分とだけ出会う。それが「ああ」である。
そうではなく、建畠は「鳥」と出会っている、という読み方もあるかもしれない。しかし、もしほんとうに出会っているなら(一期一会と呼べる瞬間がそこにあるなら)、世界は「また」を繰り返し中らばらばらに拡散はしない。「我関せず」「何も知らない」ではなく、強い関係で緊密につながって広がる。新しい連続の糸が複数の存在を貫き直すのが「出会い」というものである。
世界を仮に閉じる形をとって、建畠は最終行で、書き出しに戻っているかのように見えるが、それは「ああ」というために戻ってきたにすぎない。何もかわってはいない。建畠は「鳥」とは出会わないのだ。何とも出会わず、ただ拡散するのである。タイトルが「鳥」でもなければ世界の象徴としての「街」でもなく「葉桜の」という修飾語つきの「街」であることも、建畠のこの作品自体を象徴している。常に何かの修飾、飾りたてるものが必要なのである。なぜ飾りたてる必要があるか。飾りたてるという行為をとおしてしかことばが動いてゆかないからである。
「ああ」は、そうした修飾語のように、建畠自身を飾りたてる。自分の感情を自分のことばで飾りたてることを、私は「センチメンタル」と定義している。
建畠の書いている「ああ」は古い「ああ」である。センチメンタルな「ああ」である。詩の全体のことばの動き自体もなにかしら古いものを感じさせるが、2007年に、この古い「ああ」を書く--。それは、これまでの建畠の詩からすると、やはり「わざと」書かれたものであり、そうした点からも、「ああ」にこそ建畠の「詩」があるのだと言える。ここには選びとられたセンチメンタルがある。酔っていない。酔っているふりをして見せる冷静な知の運動の健全さが、この作品でも、きっちりとあらわれている。
木坂の詩は感性を開放し、世界とまるごと重なる。一点と重なることで宇宙と重なる。建畠は知性を守り、世界と重なることを拒絶しながら世界を回る。「ああ」などと世界と自己の断絶のなかで自己自身にだけ向き合っているふりをしながら世界を見据える。重なり合わないことでしかとらえられない世界というものを描く。センチメンタルが「わざとの装い」であるがゆえに、すべての行が感情に汚れず美しく屹立する。