詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

浜田知章「日本の哲学者について」、鈴木志郎康「極私的ラディカリズム」

2009-01-01 00:01:00 | 詩集
浜田知章「日本の哲学者について」、鈴木志郎康「極私的ラディカリズム」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 浜田知章「日本の哲学者について」の初出紙誌は『海のスフインクス』(2008年05月)。
 西田幾太郎「善の研究」について書いたものである。

私が小学六年生の時
初めて日本の哲学者を知ったのである
主観といい客観といい ものの考え方を
その時知った
それはやや宗教的なにおいがしたが
かえって神道的なものに対する批判が重なり合っていた
いくたびか日本の青年はこの哲学者を愛したことであろうか
時には戦争の中で思索し
時にはクリークの中で思索したであろう
しかしその青年たちは幸せだったんだ

 「幸せ」ということばに、不思議な清潔さを感じた。あ、そうなのだ。ことばを読む。ことばを追いかける。いままで知らなかったことをことばでつかみ取る。ことばは知らないものを自分の肉体に取り込むためのものなのだ。自分の肉体に取り込むために「思索」するためにことばがあるのだ。そして、そのために他人のことばと真剣に向き合うことを「愛する」という。
 そういう時間をしっかりと持ちたいと思う。

*

 鈴木志郎康「極私的ラディカリズム」の初出紙誌は『声の生地』(2008年04月)。
 鈴木は、こたばを独特な使い方で追いつめている。常に「身体」にひきつけている。(私は「肉体」ということばをつかうが、鈴木の「身体」ということばに影響を受けている。)
 「極私的ラディカリズム」の部分。

わたしという存在の根元は、子宮から引き出されて、
身体にあるっていうことですね。

わたしが身体と付き合っている間は、
わたしでいられる。

 この「身体」を鈴木は次のように言い換えている。

最近はカボチャを煮てます。
牛蒡と一緒に。
とろりっとして、ごりざくっ。
これが気に入って、
時にはグリンピースも入れる。

煮掛かったところで、
気を逸らして
焦がしてしまったこと数回。

 「身体」とは「暮らし」とともにある「いのち」のことである。「暮らし」から逸脱せず、「暮らし」の内部へ侵入していく。そうすると、どうしても自分自身のことばでないと言えないものが出てくる。「とろりっとして、ごりざくっ。/これが気に入って、」。これは、単に、カボチャ、牛蒡の歯触り、舌触りのことではない。その感触を、そのことばでいうこと。そういうことが、実は鈴木の「気に入って」いることなのである。そして、その「気」と一緒に、ことばが「肉体」になる。鈴木の用語で言えば「身体」になる。「身体」はそれからゆっくり、そのことばを通って「暮らし」に拡大してゆく。
 こうしたことばはいつでも私には非情に安心感がある。「肉体」はけっして人間を裏切らない。「わたしが身体と付き合っている間は、/わたしでいられる。」ほんとうにそう思う。鈴木のことばほど、裏切りから遠いものはない。
 こういうことばをとおして人間を、現在を見つめ直すことができるのは、やはり「幸せ」なことである。

声の生地
鈴木 志郎康
書肆山田

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リッツォス「反復(1968)」より(3)中井久夫訳

2009-01-01 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
それらを語ること    リッツォス(中井久夫訳)

われわれ、ことば、観念は没落した。その仕方を見ると、愚痴は言えない。古い学説にも、比較的新しい学生にも、アリスティデスの伝記にも。われわれの一人が二百人か三百人を思い出せば、立ちどころに残りの者があざけりながら切り捨てる。少なくとも懐疑的になる。しかし、時には、今日のような時だ、からりと晴れた日曜日、ユーカリの樹の下に坐ってこの容赦のない烈しい光の中にいると、古い栄光へのひそやかな憧憬が人を圧倒する。安っぽいなどと言っても無駄だ。夜明けに行列が出発し、先頭にはラッパ手、それに続いてミルテの枝や花綵を満載した戦車、次には黒い牛、灌●に用いる美しい油と香水の壜と葡萄酒と牛乳を捧げる人々。しかし、いちばん目を奪うものは行列の最後尾を歩む、全身を紫の衣に包んだプライタイアイのアルコンである。この一日以外は鉄に触れてはならず、身を白衣に包む者--それが今紫衣を全身にまとい、長剣を捧げ、威風あたりを払って街を横切り、英雄たちの墓に向かう。国立器具場よりの壺を捧げて墓石を洗い、豪勢に犠牲を捧げてから、アルコンは葡萄酒の杯を挙げて墓に注ぎつつ高々と朗誦する。「この杯をギリシャの自由のために倒れたる勇敢きわまりなき人々に捧ぐ」。近くの橄欖の林を戦慄が走り抜ける。その戦慄は今もこのユーカリの葉を翻し、この継ぎはぎの衣服、吊るして陽に乾かしている、ありとあらゆる色の旗を通り抜けて、そよがせている。
                        (●は「酋」の下に「大」の文字)

*

 この作品もことばが非常に多い。ギリシアの歴史を題材にした詩はカヴァフィスも書いている。カヴァフィスの方はもっと個人の肉体に入り込んだ詩だ。リッツォスは孤独を愛するせいか、他人の肉体に入り込んだことばが少ない。この作品の書き出しが、とても特徴的である。
われわれ、ことば、観念は没落した。
 ここには「肉体」がない。「頭」がことばをかき集めている。したがって、それにつづくことばは、数こそ多いが、何かつよい結束感がない。肉体を通りゆけたとき必然的に帯びる一種の「熱」というか、「汚れ」がない。
 ことばの清潔さはリッツォスの詩の特徴だが、こうした「歴史」を題材にした作品では、人間臭さが欠落しているように感じられ、あまりおもしろくない。


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