詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

森川雅美「(いくつもの名づけえぬ橋の先端に)」ほか

2009-01-22 09:34:24 | 詩(雑誌・同人誌)
森川雅美「(いくつもの名づけえぬ橋の先端に)」ほか(「詩誌酒乱」2、2008年12月10日発行)

 森川雅美「(いくつもの名づけえぬ橋の先端に)」の出だしはとても快調である。ことばが疾走していく。意味を拒絶している。意味を否定することは詩になることだ。とてもいい。

いくつもの名づけえぬ橋の先端にあらわれる不意の海馬に
流木が現れてはスローモーションで落下しもう一度の目からの
細い糸の延長線上に小さな雫にも似た針が深く地面に突き刺さり
誰もいない水面にはたぶんそっくりな誰かの臨終の顔が
看取られることもかなわずに浮かび計測される肺胞に
繁殖する緑黴びが間歇に訪れる数度のくしゃみとして吐き出され
冷静に推測する霊の息継ぎであるなら粉にも似た鳥の羽ばたきが

 「主語」は何? 「主語」はどれ? わかりません。わからなくしたまま、ことばが動いていく。わざと「わからない」ようにことばをかき混ぜている。いいなあ、この体力、と思う。
 しかし、私は7行読んで、実は、いやな感じがしたのだ。3行目「小さな雫にも似た」、7行目「粉にも似た」。あ、もう体力がつきかけている。「冷静に推測する」の「冷静に」にも、その体力の消耗はあらわれていて、ちょっとつまらない。「冷静な判断」「冷静な推測」「冷静な思考」。なんでもいいのだけれど、「冷静な」は「頭の働き」を修飾するときにしばしばつかわれる。常套句だ。そういうものがまじりはじめると、もうことばを動かしているのは「肉体」ではなくなる。「頭」になってしまう。
 そして、8行目。

逢う魔が時に響き結晶するもうひとつの眼の方角に凍結する

 「逢う魔が時」って、何? せっかく、それまで「肉体」で強引にことばとことばの「逢う」瞬間の、「間」が「魔」にかわる楽しさを書いてきているのに、こういうことばがでてきては、もうそこから先は「肉体」が動いていかない。「頭」が動いていくだけである。
 ことばはたくさん出てくる。けれども、それは「融合」しない。ただデジタルにことばとことばが出会いつづけるだけであって、そこにある変化は「頭」で把握した変化でしかない。ようするに「うるさい」という感じが私にはしてしまう。



 鈴木啓之「池」は「頭」が「肉体」になっている。「肉体」で書こうとしないことが、逆に「頭」を「肉体」にしている。その感じが好きだ。

古地図の中で水が落ちる音がする
不意に立ち止まってみると
瞬間もまた濡れている

 とてもいい。「古地図の中で水が落ちる音がする」ということは、現実にはありえない。(なんとなく、「古池や蛙とびこむ水の音」を思い出してしまう。)それは「頭」でつくりあげた世界である。鈴木は、「頭」を意識している。意識すると、「頭」は肉体になる。「古地図」のなかを歩きはじめている。池を見つける。そして立ち止まる。その瞬間「瞬間もまた濡れている」。この「瞬間」というのは「頭」のなかにあらわれた「瞬間」であるはずなのに、「頭」のなかをはみだしている。「水の落ちる音」は「聴覚」だけの世界ではなく「濡れる」という「触覚」の世界にまで広がっている。こういう感覚の越境は「肉体」の領域に属することがらである。「頭」のなかでは、感覚の越境、感覚の融合というのは起きない。「頭」はあるまで感覚をそれぞれに分離し、デジタルに観察するものである。
 ここから、さらに鈴木のことばは動く。

だから(という訳ではないのだが)
アパートの狭いベランダを池にする計画を
話し合いたい

 (という訳ではないのだが)という括弧のなかに入ったことばがおもしろい。「頭」の論理「だから」に対して、「頭」のなかの「頭」が(という訳ではないのだが)と、ちょっと考え直している。「頭」が「頭」を少しだけ否定している。「頭」が分裂している。そのとき「頭」は「肉体」なのである。
 1連目で聴覚と触覚は融合したが、2連目で「論理」が分裂・対立する。感覚は融合するものであるが、論理は分裂・対立するものなのである。分裂することを許容できるのは、実は「頭」が「肉体」になっている、「ひとつ」になっているからである。これが大切なのだ。
 「頭」はどんなことでも、いくつのことでもばらばらに存在させることができる。それを同じ「頭」のなかの現象として誰かに(読者に)提出できるのは、そのとき「頭」が「肉体」として「ひとつ」だからである。「頭」が「ひとつ」になっていないときは、それは鈴木一人のことばではなく、鈴木とまた別の誰かのことばというときである。
 「頭」の考えることは、分裂する。対立する。けれど、それが「肉体」であるときは、それが「共存」になる。その「共存」の仕方が(共存のさせ方)が「個性」というものだろうと思う。
 途中を省略して、

そんな無造作な午後は
狭い路地をやたら急いで駆け回る
誰かの自転車のせいで不安定に(いつでもという訳ではないのだが)崩れさる

 もう一度(訳ではないのだが)が出てくる。笑ってしまう。とても愉快な気持ちになる。



 廿楽順治「化城」にも複数のことばの動きが出てくる。

あんなあほうに
おれのいたましい遠近感がわかってたまるか
青春がぬれちゃって
ひとのはげ頭に貼りつていている
かぞえきれない金色のはだかがきみがわるい
(汗までかいてるよ)

 廿楽の場合「頭」というより、「声」という感じがする。もう「肉体」になってしまっているのだ。「思い」が複数あるということが。複数の「思い」を受け入れるのが「肉体」であることを知ってる。そして、それを生きている。
 こういう「生き方」は安心する。信じることができる。「思い」うひとつにしようとする無理やりさがない。無理やり「思考」をつくろうとはしない。複数を受け入れ、複数であることを許容する。そういうものに触れたとき、あ、こういう「思想」(肉体)なら、自分のことも受け入れてもらえるんじゃないかなあ、と安心するのである。
 別な言い方をすると、廿楽のことばのなかでなら、遊ぶことができるな、と思うのである。好き勝手がいえるな、と思うのである。わざとちょっかいをだしてみたり、ちゃちゃをいれたりできるな、と勝手に私は思うのである。
 私は、そういうことができる詩が好きだ。




山越
森川 雅美
思潮社

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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(11)中井久夫訳

2009-01-22 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
白い風景    リッツォス(中井久夫訳)

気づかれないで彼は去った。戸のところを踏む足音も聞こえなかった。
夜中とうとう雨が降らなかった。奇蹟だ。
あくる日ははてしない冬の日射し。
それはそっくり、白い洗面所で
髭を剃ってるだれかさんに。
濡れた柔らかな紙で目に見えない手が拭いた鏡に顔を映して--。
剃刀は切れない。皮が赤くなる。髭があちこちに残る。
胸が悪くなるオー・ドゥ・コローニュの匂い。



 孤独の風景。男色のふたりの別れを描いているのだろうか。
 2行目、「夜中」は「よるじゅう」と読むのだろうか。雨が降れば「彼」は出て行けない。けれども雨が降らなかったので、濡れることなく(ためらうことなく)出ていった。そして、冬の、何もない透明な日差しだけが、その何もなさの上に降り注ぐのである。
 真っ白。
 この白から、ことばは「白い」洗面所へ動き、そこで男に髭を剃らせる。髭を見るときは鏡を見る。鏡が映し出すのは自分の姿だが、それは同時に「彼」の姿でもある。男は同じように、朝、髭を剃る。そういう「肉体」が、他人になってしまった二人の間で反復される。
 「肉体」は不思議なもので、それぞれの人間にひとつなのに、ある瞬間、共有するのだ。それは、たとえば、この詩に描かれている「髭を剃る」という行為の反復のなかで、という形をとることもあるが、もっと別なものもある。たとえば、だれかが腹を抱えるようにしてうずくまっている。それを見るとき、私たちの「肉体」は無意識にそういう姿勢を反復している。「肉体」の内部で。そして、あ、このひとは腹が痛いんだとわかる。「肉体」と「肉体」の間には「空気」があって、ふたつの「肉体」を分離しているにもかかわらず、そのとき、何かが共有される。
 そういうことが、人間にはあるのだ。(ほかの動物にもあるかもしれない。)そして、そういうことが人間と人間の結びつきをつくるのである。そして「空気」が共有される。「こころ」が浮かび上がる。「思い出」がよみがえる。「空気」を呼吸するたびに。
 「濡れた柔らかな紙で目に見えない手が拭いた鏡に顔を映して--。」というのは、「彼」は、そんなふうにして鏡の曇りを拭いていたということを思い出したのだろう。
 この思い出が、胸をかきまわす。強い匂いの「オー・ドゥ・コローニュの匂い」のように。嫌いだ。そして、その嫌いだというこころが、孤独にはせつない。



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