森川雅美「(いくつもの名づけえぬ橋の先端に)」ほか(「詩誌酒乱」2、2008年12月10日発行)
森川雅美「(いくつもの名づけえぬ橋の先端に)」の出だしはとても快調である。ことばが疾走していく。意味を拒絶している。意味を否定することは詩になることだ。とてもいい。
「主語」は何? 「主語」はどれ? わかりません。わからなくしたまま、ことばが動いていく。わざと「わからない」ようにことばをかき混ぜている。いいなあ、この体力、と思う。
しかし、私は7行読んで、実は、いやな感じがしたのだ。3行目「小さな雫にも似た」、7行目「粉にも似た」。あ、もう体力がつきかけている。「冷静に推測する」の「冷静に」にも、その体力の消耗はあらわれていて、ちょっとつまらない。「冷静な判断」「冷静な推測」「冷静な思考」。なんでもいいのだけれど、「冷静な」は「頭の働き」を修飾するときにしばしばつかわれる。常套句だ。そういうものがまじりはじめると、もうことばを動かしているのは「肉体」ではなくなる。「頭」になってしまう。
そして、8行目。
「逢う魔が時」って、何? せっかく、それまで「肉体」で強引にことばとことばの「逢う」瞬間の、「間」が「魔」にかわる楽しさを書いてきているのに、こういうことばがでてきては、もうそこから先は「肉体」が動いていかない。「頭」が動いていくだけである。
ことばはたくさん出てくる。けれども、それは「融合」しない。ただデジタルにことばとことばが出会いつづけるだけであって、そこにある変化は「頭」で把握した変化でしかない。ようするに「うるさい」という感じが私にはしてしまう。
*
鈴木啓之「池」は「頭」が「肉体」になっている。「肉体」で書こうとしないことが、逆に「頭」を「肉体」にしている。その感じが好きだ。
とてもいい。「古地図の中で水が落ちる音がする」ということは、現実にはありえない。(なんとなく、「古池や蛙とびこむ水の音」を思い出してしまう。)それは「頭」でつくりあげた世界である。鈴木は、「頭」を意識している。意識すると、「頭」は肉体になる。「古地図」のなかを歩きはじめている。池を見つける。そして立ち止まる。その瞬間「瞬間もまた濡れている」。この「瞬間」というのは「頭」のなかにあらわれた「瞬間」であるはずなのに、「頭」のなかをはみだしている。「水の落ちる音」は「聴覚」だけの世界ではなく「濡れる」という「触覚」の世界にまで広がっている。こういう感覚の越境は「肉体」の領域に属することがらである。「頭」のなかでは、感覚の越境、感覚の融合というのは起きない。「頭」はあるまで感覚をそれぞれに分離し、デジタルに観察するものである。
ここから、さらに鈴木のことばは動く。
(という訳ではないのだが)という括弧のなかに入ったことばがおもしろい。「頭」の論理「だから」に対して、「頭」のなかの「頭」が(という訳ではないのだが)と、ちょっと考え直している。「頭」が「頭」を少しだけ否定している。「頭」が分裂している。そのとき「頭」は「肉体」なのである。
1連目で聴覚と触覚は融合したが、2連目で「論理」が分裂・対立する。感覚は融合するものであるが、論理は分裂・対立するものなのである。分裂することを許容できるのは、実は「頭」が「肉体」になっている、「ひとつ」になっているからである。これが大切なのだ。
「頭」はどんなことでも、いくつのことでもばらばらに存在させることができる。それを同じ「頭」のなかの現象として誰かに(読者に)提出できるのは、そのとき「頭」が「肉体」として「ひとつ」だからである。「頭」が「ひとつ」になっていないときは、それは鈴木一人のことばではなく、鈴木とまた別の誰かのことばというときである。
「頭」の考えることは、分裂する。対立する。けれど、それが「肉体」であるときは、それが「共存」になる。その「共存」の仕方が(共存のさせ方)が「個性」というものだろうと思う。
途中を省略して、
もう一度(訳ではないのだが)が出てくる。笑ってしまう。とても愉快な気持ちになる。
*
廿楽順治「化城」にも複数のことばの動きが出てくる。
廿楽の場合「頭」というより、「声」という感じがする。もう「肉体」になってしまっているのだ。「思い」が複数あるということが。複数の「思い」を受け入れるのが「肉体」であることを知ってる。そして、それを生きている。
こういう「生き方」は安心する。信じることができる。「思い」うひとつにしようとする無理やりさがない。無理やり「思考」をつくろうとはしない。複数を受け入れ、複数であることを許容する。そういうものに触れたとき、あ、こういう「思想」(肉体)なら、自分のことも受け入れてもらえるんじゃないかなあ、と安心するのである。
別な言い方をすると、廿楽のことばのなかでなら、遊ぶことができるな、と思うのである。好き勝手がいえるな、と思うのである。わざとちょっかいをだしてみたり、ちゃちゃをいれたりできるな、と勝手に私は思うのである。
私は、そういうことができる詩が好きだ。
森川雅美「(いくつもの名づけえぬ橋の先端に)」の出だしはとても快調である。ことばが疾走していく。意味を拒絶している。意味を否定することは詩になることだ。とてもいい。
いくつもの名づけえぬ橋の先端にあらわれる不意の海馬に
流木が現れてはスローモーションで落下しもう一度の目からの
細い糸の延長線上に小さな雫にも似た針が深く地面に突き刺さり
誰もいない水面にはたぶんそっくりな誰かの臨終の顔が
看取られることもかなわずに浮かび計測される肺胞に
繁殖する緑黴びが間歇に訪れる数度のくしゃみとして吐き出され
冷静に推測する霊の息継ぎであるなら粉にも似た鳥の羽ばたきが
「主語」は何? 「主語」はどれ? わかりません。わからなくしたまま、ことばが動いていく。わざと「わからない」ようにことばをかき混ぜている。いいなあ、この体力、と思う。
しかし、私は7行読んで、実は、いやな感じがしたのだ。3行目「小さな雫にも似た」、7行目「粉にも似た」。あ、もう体力がつきかけている。「冷静に推測する」の「冷静に」にも、その体力の消耗はあらわれていて、ちょっとつまらない。「冷静な判断」「冷静な推測」「冷静な思考」。なんでもいいのだけれど、「冷静な」は「頭の働き」を修飾するときにしばしばつかわれる。常套句だ。そういうものがまじりはじめると、もうことばを動かしているのは「肉体」ではなくなる。「頭」になってしまう。
そして、8行目。
逢う魔が時に響き結晶するもうひとつの眼の方角に凍結する
「逢う魔が時」って、何? せっかく、それまで「肉体」で強引にことばとことばの「逢う」瞬間の、「間」が「魔」にかわる楽しさを書いてきているのに、こういうことばがでてきては、もうそこから先は「肉体」が動いていかない。「頭」が動いていくだけである。
ことばはたくさん出てくる。けれども、それは「融合」しない。ただデジタルにことばとことばが出会いつづけるだけであって、そこにある変化は「頭」で把握した変化でしかない。ようするに「うるさい」という感じが私にはしてしまう。
*
鈴木啓之「池」は「頭」が「肉体」になっている。「肉体」で書こうとしないことが、逆に「頭」を「肉体」にしている。その感じが好きだ。
古地図の中で水が落ちる音がする
不意に立ち止まってみると
瞬間もまた濡れている
とてもいい。「古地図の中で水が落ちる音がする」ということは、現実にはありえない。(なんとなく、「古池や蛙とびこむ水の音」を思い出してしまう。)それは「頭」でつくりあげた世界である。鈴木は、「頭」を意識している。意識すると、「頭」は肉体になる。「古地図」のなかを歩きはじめている。池を見つける。そして立ち止まる。その瞬間「瞬間もまた濡れている」。この「瞬間」というのは「頭」のなかにあらわれた「瞬間」であるはずなのに、「頭」のなかをはみだしている。「水の落ちる音」は「聴覚」だけの世界ではなく「濡れる」という「触覚」の世界にまで広がっている。こういう感覚の越境は「肉体」の領域に属することがらである。「頭」のなかでは、感覚の越境、感覚の融合というのは起きない。「頭」はあるまで感覚をそれぞれに分離し、デジタルに観察するものである。
ここから、さらに鈴木のことばは動く。
だから(という訳ではないのだが)
アパートの狭いベランダを池にする計画を
話し合いたい
(という訳ではないのだが)という括弧のなかに入ったことばがおもしろい。「頭」の論理「だから」に対して、「頭」のなかの「頭」が(という訳ではないのだが)と、ちょっと考え直している。「頭」が「頭」を少しだけ否定している。「頭」が分裂している。そのとき「頭」は「肉体」なのである。
1連目で聴覚と触覚は融合したが、2連目で「論理」が分裂・対立する。感覚は融合するものであるが、論理は分裂・対立するものなのである。分裂することを許容できるのは、実は「頭」が「肉体」になっている、「ひとつ」になっているからである。これが大切なのだ。
「頭」はどんなことでも、いくつのことでもばらばらに存在させることができる。それを同じ「頭」のなかの現象として誰かに(読者に)提出できるのは、そのとき「頭」が「肉体」として「ひとつ」だからである。「頭」が「ひとつ」になっていないときは、それは鈴木一人のことばではなく、鈴木とまた別の誰かのことばというときである。
「頭」の考えることは、分裂する。対立する。けれど、それが「肉体」であるときは、それが「共存」になる。その「共存」の仕方が(共存のさせ方)が「個性」というものだろうと思う。
途中を省略して、
そんな無造作な午後は
狭い路地をやたら急いで駆け回る
誰かの自転車のせいで不安定に(いつでもという訳ではないのだが)崩れさる
もう一度(訳ではないのだが)が出てくる。笑ってしまう。とても愉快な気持ちになる。
*
廿楽順治「化城」にも複数のことばの動きが出てくる。
あんなあほうに
おれのいたましい遠近感がわかってたまるか
青春がぬれちゃって
ひとのはげ頭に貼りつていている
かぞえきれない金色のはだかがきみがわるい
(汗までかいてるよ)
廿楽の場合「頭」というより、「声」という感じがする。もう「肉体」になってしまっているのだ。「思い」が複数あるということが。複数の「思い」を受け入れるのが「肉体」であることを知ってる。そして、それを生きている。
こういう「生き方」は安心する。信じることができる。「思い」うひとつにしようとする無理やりさがない。無理やり「思考」をつくろうとはしない。複数を受け入れ、複数であることを許容する。そういうものに触れたとき、あ、こういう「思想」(肉体)なら、自分のことも受け入れてもらえるんじゃないかなあ、と安心するのである。
別な言い方をすると、廿楽のことばのなかでなら、遊ぶことができるな、と思うのである。好き勝手がいえるな、と思うのである。わざとちょっかいをだしてみたり、ちゃちゃをいれたりできるな、と勝手に私は思うのである。
私は、そういうことができる詩が好きだ。
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