監督 ジョン・クローリー 出演 アンドリュー・ガーフィールド、ピーター・ミュラン
主演のアンドリュー・ガーフィールドの表情がとてもいい。かたまっていない。はっきりとした顔になっていない。揺れている。それは、自分をまだ持っていないということである。自分を探している顔である。まだ、どんな顔をしていいのか、わからないのである。
理由はある。彼は10歳のとき犯罪を犯した。更生施設に長い間入っていた。そして、出所してきた。過去を隠したまま(偽りの過去を作って)、誰も知らない土地で新しく生きはじめる。どんな顔をしていいか、わからない。どんな人間でも、無意識に自分の顔を持っているが、彼には自分で作り上げた顔がない。「犯罪者」の顔は、彼を裁いたひとが作り上げた顔、押しつけた顔である。それは「他人の顔」なのである。彼自身の気持ちとは無関係の「他人の顔」なのである。
その他人が作り上げた顔からようやく解放されて、自分の顔を探さなければならない。だが、どうしていいか、わからない。「いま」の顔は、「過去」を隠しているがゆえに、「自分の顔」ではないのだ。「他人の顔」でもないけれど、「自分の顔」でもない。半分、いや、これまでの人生そのものとは、やはり「無関係」の顔なのである。
仕事を持ち、恋人ができ、人生が豊かになればなるほど「自分の顔」が必要なのに、永遠に「自分ではない顔」を生きなければならない。「関係」が明確な「顔」が必要なのに、どうしても「無関係」を含んでしまう。そのことが、彼にとっては、激しい苦痛である。
こういうとき、「顔」にあらわれるのは、「ひとがら」である。「関係」をすべて取り去って、「無」になる。そのとき、あらわれるのは「ひとがら」である。
アンドリュー・ガーフィールドの演じている青年は、ひとに支えられているとき、生きているという感覚がもてる「ひとがら」である。自分がだれかのために何かをするというよりは、ひとに支えられて、そのひとといっしょに生きていくという「ひとがら」である。自己主張よりも、他人の気持ちを優先させる「ひとがら」である。そして、相手の気持ちにあわせることで、自分のすべてを受け入れてもらいたいと思うのだ。
そういう「ひとがら」であるがゆえに、他人の視線が気になるのだ。「殺人者」であると知ったら、相手はいい気持ちはしない。絶対に、受け入れてくれない。他人が受け入れてくれなくても、自分自身で生きていくという「ひとがら」ではないのである。
そういう彼が一度だけ、自分の「顔」をはっきりと打ち出す。それは交通事故を目撃したときだ。そこには大怪我をした少女がいる。彼女には「意識」がない。瀕死であるから、彼を「受け入れる」「受け入れない」という判断のしようがない。そういう絶対的な弱者の前で、彼ははじめて「顔」を持つ。ひとを助けるとき、助ける側には「顔」は必要はないのだが、そういう必要のないとき、はっきりと「顔」があらわれる。無意識の「顔」があらわれる。「ひとがら」のいちばんいい部分があらわれる。
けれど、その「顔」は持続できない。
社会は、「新しい顔」よりも、「過去の顔」を「アイデンティティー」として押しつける。「新しい顔」を支えてくれるのは(受け入れてくれるのは)、その「顔」によって直接助けられた少女だけなのである。ひとりでもそういう人間が存在するのは希望になるといえば希望になるかもしれないが、逆に、絶望をより強くうかび上がらせることにもなる。この少女しか、自分を受け入れてくれない。
そして、最後に青年が手に入れるのは、「絶望」の「顔」なのである。「過去」が知れ渡り、やっと築き上げてきたと思った「関係」が次々に否定される。「関係がなかった」ということにしてくれ、と「無関係」をつきつけられる。「無関係」はいつでも「絶望」とのみ結びついてしまう。
この、「顔」の変遷を、アンドリュー・ガーフィールドは、「個性」ではなく、「ひとがら」として演じている。これには、ほんとうにびっくりする。引き込まれてしまう。
一方、アンドリュー・ガーフィールドを支える保護司を演じたピーター・ミュランの顔も非常によかった。アンドリュー・ガーフィールドが「無関係」のなかで揺れる表情を生きているのに対し、ピーター・ミュランの顔はしっかりかたまっている。動揺しない。「関係」をはっきり自覚し、その「関係」にふさわしい顔を作り上げている。いつでも同じ「顔」でアンドリュー・ガーフィールドに向き合う。
しかし、その顔も、あるとき揺らぐ。ほんとうの自分の息子との「関係」のなかで揺らぐ。「顔」はいつでも、なにかしら無理をしているのである。ひとは状況にあわせて「複数の顔」を生きるということはできないらしい。
たぶん、この映画は、そういうことを静かに語りかける。もし、ひとが状況に応じて「複数の顔」を持つことができたなら、アンドリュー・ガーフィールドは「殺人事件」に巻き込まれなかった。「殺人者」にはならなかっただろう。
これは逆の視点から見れば、この映画が告発している問題に通じる。ひとは(社会は)だれかが「複数の顔」を持つことを許さない。「殺人者」はどんなに更生しても「天使の顔」を持つことを許さない。「殺人者の顔」を生きることを押しつけてしまう。
この映画は、どちらが正しいとは言わない。ただ「顔」を固定化する動きが悲劇を生み出している、とだけ告げる。とても考えさせられる映画である。
主演のアンドリュー・ガーフィールドの表情がとてもいい。かたまっていない。はっきりとした顔になっていない。揺れている。それは、自分をまだ持っていないということである。自分を探している顔である。まだ、どんな顔をしていいのか、わからないのである。
理由はある。彼は10歳のとき犯罪を犯した。更生施設に長い間入っていた。そして、出所してきた。過去を隠したまま(偽りの過去を作って)、誰も知らない土地で新しく生きはじめる。どんな顔をしていいか、わからない。どんな人間でも、無意識に自分の顔を持っているが、彼には自分で作り上げた顔がない。「犯罪者」の顔は、彼を裁いたひとが作り上げた顔、押しつけた顔である。それは「他人の顔」なのである。彼自身の気持ちとは無関係の「他人の顔」なのである。
その他人が作り上げた顔からようやく解放されて、自分の顔を探さなければならない。だが、どうしていいか、わからない。「いま」の顔は、「過去」を隠しているがゆえに、「自分の顔」ではないのだ。「他人の顔」でもないけれど、「自分の顔」でもない。半分、いや、これまでの人生そのものとは、やはり「無関係」の顔なのである。
仕事を持ち、恋人ができ、人生が豊かになればなるほど「自分の顔」が必要なのに、永遠に「自分ではない顔」を生きなければならない。「関係」が明確な「顔」が必要なのに、どうしても「無関係」を含んでしまう。そのことが、彼にとっては、激しい苦痛である。
こういうとき、「顔」にあらわれるのは、「ひとがら」である。「関係」をすべて取り去って、「無」になる。そのとき、あらわれるのは「ひとがら」である。
アンドリュー・ガーフィールドの演じている青年は、ひとに支えられているとき、生きているという感覚がもてる「ひとがら」である。自分がだれかのために何かをするというよりは、ひとに支えられて、そのひとといっしょに生きていくという「ひとがら」である。自己主張よりも、他人の気持ちを優先させる「ひとがら」である。そして、相手の気持ちにあわせることで、自分のすべてを受け入れてもらいたいと思うのだ。
そういう「ひとがら」であるがゆえに、他人の視線が気になるのだ。「殺人者」であると知ったら、相手はいい気持ちはしない。絶対に、受け入れてくれない。他人が受け入れてくれなくても、自分自身で生きていくという「ひとがら」ではないのである。
そういう彼が一度だけ、自分の「顔」をはっきりと打ち出す。それは交通事故を目撃したときだ。そこには大怪我をした少女がいる。彼女には「意識」がない。瀕死であるから、彼を「受け入れる」「受け入れない」という判断のしようがない。そういう絶対的な弱者の前で、彼ははじめて「顔」を持つ。ひとを助けるとき、助ける側には「顔」は必要はないのだが、そういう必要のないとき、はっきりと「顔」があらわれる。無意識の「顔」があらわれる。「ひとがら」のいちばんいい部分があらわれる。
けれど、その「顔」は持続できない。
社会は、「新しい顔」よりも、「過去の顔」を「アイデンティティー」として押しつける。「新しい顔」を支えてくれるのは(受け入れてくれるのは)、その「顔」によって直接助けられた少女だけなのである。ひとりでもそういう人間が存在するのは希望になるといえば希望になるかもしれないが、逆に、絶望をより強くうかび上がらせることにもなる。この少女しか、自分を受け入れてくれない。
そして、最後に青年が手に入れるのは、「絶望」の「顔」なのである。「過去」が知れ渡り、やっと築き上げてきたと思った「関係」が次々に否定される。「関係がなかった」ということにしてくれ、と「無関係」をつきつけられる。「無関係」はいつでも「絶望」とのみ結びついてしまう。
この、「顔」の変遷を、アンドリュー・ガーフィールドは、「個性」ではなく、「ひとがら」として演じている。これには、ほんとうにびっくりする。引き込まれてしまう。
一方、アンドリュー・ガーフィールドを支える保護司を演じたピーター・ミュランの顔も非常によかった。アンドリュー・ガーフィールドが「無関係」のなかで揺れる表情を生きているのに対し、ピーター・ミュランの顔はしっかりかたまっている。動揺しない。「関係」をはっきり自覚し、その「関係」にふさわしい顔を作り上げている。いつでも同じ「顔」でアンドリュー・ガーフィールドに向き合う。
しかし、その顔も、あるとき揺らぐ。ほんとうの自分の息子との「関係」のなかで揺らぐ。「顔」はいつでも、なにかしら無理をしているのである。ひとは状況にあわせて「複数の顔」を生きるということはできないらしい。
たぶん、この映画は、そういうことを静かに語りかける。もし、ひとが状況に応じて「複数の顔」を持つことができたなら、アンドリュー・ガーフィールドは「殺人事件」に巻き込まれなかった。「殺人者」にはならなかっただろう。
これは逆の視点から見れば、この映画が告発している問題に通じる。ひとは(社会は)だれかが「複数の顔」を持つことを許さない。「殺人者」はどんなに更生しても「天使の顔」を持つことを許さない。「殺人者の顔」を生きることを押しつけてしまう。
この映画は、どちらが正しいとは言わない。ただ「顔」を固定化する動きが悲劇を生み出している、とだけ告げる。とても考えさせられる映画である。