詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

江知柿美『天にも地にもいます神よ』

2009-01-13 10:47:37 | 詩集
江知柿美『天にも地にもいます神よ』(書肆山田、2008年10月31日発行)

 江知柿美のことばは広がっていく。人間はだれでもひとりだが、同時に複数でもある。その複数へ、私以外の人間へ、そして「もの」へと広がっていく。そして、その広がりの中で、江知は粗素るものと交感・交流する。
 「短い道」の後半。

この道は
樹海へと通じ
あの高い頂きに通じている
そしてもっと遠いところへと
横たわると地底から山の
寝息がきこえる
燃えてくる 奥から 熱く
わたしにつながってくる
山はいつか目覚めるだろう
その肌にわたしを乗せたまま
噴き上げるだろう
烈しい溶岩がわたしの上を
流れるだろう
この道
その閑けさ
涯につながる
暖かいわたしを
感じるだろう

 2度つかわれている「つながる」。これが江知の「思想」(キーワード)である。ことばはただ「広がる」のではなく、広がって、それから「つながる」のだ。「つながる」は「通じる」とも同じ意味だ。
 「わたし」は「大地」と「つながる」。「大地」は「溶岩」と「つながる」。「つながる」とそこを「通じる」動きをするものがある。そこを通るものがいる。そして、その運動は「通じる」を超える。ときには、たとえば噴火のように、溶岩が「つながる」ものの奥から突然あふれてくる。それは大地を破壊する。「わたし」をも破壊する。
 しかし、その「涯」には、「わたし」をも「大地」をも超越した「閑けさ」があるのだ。「永遠」があるのだ。「永遠」ということばを江知はつかってはいないけれど……。

 この「つながり」、そうやってできる「道」が平坦でも単純でもないことを描いている。「何を見るだろう」の書き出し。

クレーの色の階段を昇っていくと
突然昂ってくることがある
静かなものから動的なものへと
階段の段差は等間隔とは限らない

 この部分で重要なのは「昂ってくる」ということばである。クレーの絵のグラデーションの階段。それを昇っていく、通っていくと、「昂ってくる」。つまり、自分の中で変化が起きる。感情が、精神が、いままでと違ってくる。昂った感情・精神が見るものは、それまでの江知が見ていたものとは違ってくる。どう違ってくるか。何が違ってくるか。それは、実は、わからない。わからないからこそ、人は、それに向かって進むのである。わからないものまで昇りつづけ(あるいは降りつづけ)、人は、いままで知らなかったものと「つながる」。そうして、「わたし」を超越する。それまでの「わたし」を捨てて生まれ変わる。
 芸術に触れる感動が、ここでは、そんなふうに静かに語られている。
 末尾の2行

何を見るだろう
昇るごと 降りるごと

 「ごと」ということばからわかるように、この変化は、常に動く。何かになって「完成」するということはない。感情・精神は常に生成しつづけるのである。
 だから、そこには「限定」はない。「無限」があるだけである。
 「在る処」では、その「無限」を次のように言い換えている。

わたしたち存在しているものの間に存在している
あるもの

 たとえば「わたし」と「大地の奥」の間に存在しているもの。「溶岩」。そういうものの「間」に存在しているものとは、「運動」である。「間」を行き来する「運動」である。そして、その「運動」こそが「つながる」ということでもある。
 「在る処分」には、次の行がある。

ただ一様のひろがりだ
境界線はありえない
だが目を凝らすと静かに罅割れてくる
浮かび上がってくる
沢山の
恐ろしい
懐しい
目 が光っていたりする

 「つながる」とき、そこでは「境界線」がなくなる。そこには、ただ生成があるだけである。そこからは「わたし」をのみこんでしまう「溶岩」のようなものも生まれてくるし、その「溶岩」によって「わたし」の「死」さえ生まれてくるかもしれない。
 だからときには「恐ろしい」。けれども「懐しい」。矛盾。こういう「矛盾」のなかにこそ、「思想」の意味がある。「矛盾」を超えて、「思想」は肉体になる。

 「恐ろしい」のに「懐しい」のは、それが「永遠」だからである。それが人間のかえるべき「場」であるからである。

 「永遠」が「恐ろしい」、そして「懐しい」のは、そこには生と死が同居しているからである。「永遠」という時間の中では、いつも生成がある。生成は、あるものが死に、別のものに生まれ変わることである。
 生と死は、あらゆるものの中に存在し、「わたし」を誘う。「わたし」とつながる。その「つながり」に、やがて「おわり」があると夢想するのは、死んでいくことが宿命の、人間のいのちのいのりであるかもしれない。
 「糸杉」の後半。とても美しい数行。「もの」、「いのち」は「点」ということばで表現されている。

点は次々と増し次々と重なり
繋がっていった
点はどこまでも深く掘ることができる
捉われると身動きできなくなる
どの点にも痛みがあって
穴の中に沁み込んでいく
この連鎖の終りが開放の日なのだろうか

糸杉は朱色に染まって光っている

 「開放」は「解放」かもしれない。「いのち」からの解放。それは死からの解放、死の束縛からの解放かもしれない。


 



天にも地にもいます神よ
江知 柿美
書肆山田

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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(2)中井久夫訳

2009-01-13 00:35:24 | リッツォス(中井久夫訳)
少なくとも風が    リッツォス(中井久夫訳)

夜。食堂。シャンデリアに止まった蠅。
盆に止まった蠅。パンに止まった蠅。コップに止まった蠅。
老人はがつがつ食べる。他の皿をそっと盗み見る。
テーブル・クロスは白い。まっ白である。通りを吹き過ぎる風は
街灯を吹く風である。ああ、風。ひゅうひゅうと唸り、きらきらと光る長い筒よ。
壁にこっそり挿しこまれた筒。卓子の下の、大きな寝台の発条の間の筒。
舐める蠅と紙ナプキンと眠りを通ってすぎる風。おお、風だな、と老人は言った。
老人は匙を置いた。立ち去った。われらは夜っぴて彼の帰りを待った。
時折り、小さな氷のキューブを
枕元に置く水差しに落とし込みながら--。



 5行目の風の比喩が美しい。

ひゅうひゅうと唸り、きらきらと光る長い筒よ。

 風そのものが「筒」である。「筒」はいたるところにある。壁の中に、卓子の下に、そして寝台の発条の間にも。寝台のスプリングを「筒」とたとえたとは、とてもおもしろい。完全な「筒」の形をしていなくても「筒」なのである。中に空洞があれば、中を何かが通り過ぎることができれば、「筒」なのである。
 そうであるなら、人間は、どうであろうか。人間もまたひとつの「筒」ではないのか。人間の体の中を、食べ物が通り過ぎていく。そして、それは蠅も同じことである。生きている物はみんな「筒」を体の内に持っている。
 そして。
 風が「筒」の形で通り過ぎるなら、人間も、その「筒」のまま、風になることができる。風になって、どこかへ行ってしまうことができる。
 そうなのだ。老人は、そのことに気がついた。そして、立ち去ったのである。風になって。

 まだ「筒」の自覚のない人間が、老人の帰りを待っている。帰るはずのない、人間を待っている。「水差し」に氷を落としながら。「水差し」と「筒」の違いは、「水差し」には入り口はあるが出口がない。「水差し」は不完全な「筒」なのである。
 それは、ある意味では、生きている人間の不完全さを象徴しているかもしれない。



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