羅喜徳(ナ・ヒドク)「あの水玉たちは」(「something 」8、2008年12月24日発行)
「something 」には韓国の詩人の詩がハングル文字とともに紹介されている。いつも、韓国の詩人の詩にひかれる。今回紹介されているのは羅喜徳(ナ・ヒドク)の作品。訳は、韓成礼(ハン・ソンレ)。どの作品も魅力的だ。そのなかの「あの水玉たち」。
描かれる対象がとても美しい。「水垢」さえもが美しい。そこには生活が蓄積している。生きてきた時間がきちんと定着している。生活というのはある意味で少しずつずれていく。思いのままにならないものが出てくる。たとえば、ここに描かれている「水玉」たちのように、どんなにしっかり生活していても、どこからともなく何かが漏れてしまう。それはただ単にそのままにしておけばだらしないだけのことだが、そこにそういうものがあるとしっかり認識するときから、さびしい美しさになる。そこから時間が見えてくる。そして、そこから「水垢」ということばもみえてくる。「水垢」ということばは、生活をきちんとしようとする意志がないとみえてこないものである。きちんとしようとすると、あ、この「水垢」もきれいにしなければ、という意識とともに浮かび上がるのだ。「水垢」は生活を邪魔する物だが、そういうものがみえてくるということは、生活をきちんとしようとする意識があるからである。その意識が美しいのである。さびしいのである。
羅が描いているのは「時間」である。私たちのあらゆる一瞬は「時間」を、過去を持っている。過去とは暮らしであり、いのちのことである。そのいのちが、懸命に、いまという一瞬に、姿をととのえようとする。過去と今をつなぎ、一瞬を、すこしでも幅の広いものにしようとする。
たとえば、3連目。
ここに登場する「水」と「乾いた木」、そして「根」。これは草木を育てたことのある人間の意識である。乾いた草木は水を求める。その「根」は土の中に隠れているが、草木を育てたことがあるひとなら、その「根」を人間の「のど」のように感じる。自分の肉体の一部として感じる。その「肉体」としての「共感」が、たんに「根」→「のど」でとどまるのではなく、さらに「耳」に拡大していく。この拡大、自然に広がってしまう感覚のなかに、暮らしがあり、過去があり、いのちがある。
こういう「共感」を、自分の「肉体」そのものとしていきるとき、羅は、人間であり、同時に一本の木なのだ。だから、4連目には自然に「鳥」が登場する。「木」には「鳥」がやってくる。「渇き」→「根」(のど)→「耳」という動きの中で、人間と木がいったいになり、「木」→「鳥」と、世界が広がっていく。
この広がりを、羅は感謝の気持ちで受け入れる。いのちがあること、いのちは、さまざまな存在といっしょにあること。そのことを羅は感謝の気持ちで受け止める。
詩はつづいてゆく。
「来てくれた」--このことばの、深い感謝。いのりのような、つぶやき。思わず涙が出る。
あらゆるものが「来てくれる」。喜びも、悲しみも、絶望も。それが積み重なって、生活になる。暮らしになる。いのちになる。いきてきたことの、ひとつひとつの時間が、しっかりと「ことば」になる。「ことば」をとおして、羅はあらゆる存在と羅自身の「心臓」をひとつのものにする。その心臓が鼓動を打つたびに、過去が、暮らしが、いのちが、そっとひろがり、羅をつつつむのだ。
「something 」には韓国の詩人の詩がハングル文字とともに紹介されている。いつも、韓国の詩人の詩にひかれる。今回紹介されているのは羅喜徳(ナ・ヒドク)の作品。訳は、韓成礼(ハン・ソンレ)。どの作品も魅力的だ。そのなかの「あの水玉たち」。
彼が消えると
四方から水音が聞こえ始める
蛇口をいくら強く閉めても
水垢のついた古いキッチンの上に
ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ……
休む間もなく落ちる水玉たち
生の漏水を知らせる信号の音に
乾いた木の根をつけるように耳を傾ける
ドアをたたく音のようでもあり
足音のようでもあり
ときどき鳥がさえずる声のようでもあった
描かれる対象がとても美しい。「水垢」さえもが美しい。そこには生活が蓄積している。生きてきた時間がきちんと定着している。生活というのはある意味で少しずつずれていく。思いのままにならないものが出てくる。たとえば、ここに描かれている「水玉」たちのように、どんなにしっかり生活していても、どこからともなく何かが漏れてしまう。それはただ単にそのままにしておけばだらしないだけのことだが、そこにそういうものがあるとしっかり認識するときから、さびしい美しさになる。そこから時間が見えてくる。そして、そこから「水垢」ということばもみえてくる。「水垢」ということばは、生活をきちんとしようとする意志がないとみえてこないものである。きちんとしようとすると、あ、この「水垢」もきれいにしなければ、という意識とともに浮かび上がるのだ。「水垢」は生活を邪魔する物だが、そういうものがみえてくるということは、生活をきちんとしようとする意識があるからである。その意識が美しいのである。さびしいのである。
羅が描いているのは「時間」である。私たちのあらゆる一瞬は「時間」を、過去を持っている。過去とは暮らしであり、いのちのことである。そのいのちが、懸命に、いまという一瞬に、姿をととのえようとする。過去と今をつなぎ、一瞬を、すこしでも幅の広いものにしようとする。
たとえば、3連目。
生の漏水を知らせる信号の音に
乾いた木の根をつけるように耳を傾ける
ここに登場する「水」と「乾いた木」、そして「根」。これは草木を育てたことのある人間の意識である。乾いた草木は水を求める。その「根」は土の中に隠れているが、草木を育てたことがあるひとなら、その「根」を人間の「のど」のように感じる。自分の肉体の一部として感じる。その「肉体」としての「共感」が、たんに「根」→「のど」でとどまるのではなく、さらに「耳」に拡大していく。この拡大、自然に広がってしまう感覚のなかに、暮らしがあり、過去があり、いのちがある。
こういう「共感」を、自分の「肉体」そのものとしていきるとき、羅は、人間であり、同時に一本の木なのだ。だから、4連目には自然に「鳥」が登場する。「木」には「鳥」がやってくる。「渇き」→「根」(のど)→「耳」という動きの中で、人間と木がいったいになり、「木」→「鳥」と、世界が広がっていく。
この広がりを、羅は感謝の気持ちで受け入れる。いのちがあること、いのちは、さまざまな存在といっしょにあること。そのことを羅は感謝の気持ちで受け止める。
詩はつづいてゆく。
あ、あの水玉たちは
私と切らすために来てくれたようだ
水玉の中で子供が一人泣き
水玉の中であじさいが咲き
水玉の中ですぐに金魚が死に
水玉の中で器が割れ
水玉の中で頃雪が降り
水玉の中でリンゴが熟し
水玉の中で歌声が聞こえ
遠くから水管に乗って上り
空き部屋の沈黙を濡らす水玉たちは
涙ぐんだ瞳で揺りかごの中の私を揺らす
私の心臓も水玉に似て
逆流する悲しみも忘れたまま眠りに入る
「来てくれた」--このことばの、深い感謝。いのりのような、つぶやき。思わず涙が出る。
あらゆるものが「来てくれる」。喜びも、悲しみも、絶望も。それが積み重なって、生活になる。暮らしになる。いのちになる。いきてきたことの、ひとつひとつの時間が、しっかりと「ことば」になる。「ことば」をとおして、羅はあらゆる存在と羅自身の「心臓」をひとつのものにする。その心臓が鼓動を打つたびに、過去が、暮らしが、いのちが、そっとひろがり、羅をつつつむのだ。