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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

羅喜徳(ナ・ヒドク)「あの水玉たちは」

2009-01-16 11:37:28 | 詩(雑誌・同人誌)
羅喜徳(ナ・ヒドク)「あの水玉たちは」(「something 」8、2008年12月24日発行)

 「something 」には韓国の詩人の詩がハングル文字とともに紹介されている。いつも、韓国の詩人の詩にひかれる。今回紹介されているのは羅喜徳(ナ・ヒドク)の作品。訳は、韓成礼(ハン・ソンレ)。どの作品も魅力的だ。そのなかの「あの水玉たち」。

彼が消えると
四方から水音が聞こえ始める

蛇口をいくら強く閉めても
水垢のついた古いキッチンの上に
ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ……
休む間もなく落ちる水玉たち

生の漏水を知らせる信号の音に
乾いた木の根をつけるように耳を傾ける

ドアをたたく音のようでもあり
足音のようでもあり
ときどき鳥がさえずる声のようでもあった

 描かれる対象がとても美しい。「水垢」さえもが美しい。そこには生活が蓄積している。生きてきた時間がきちんと定着している。生活というのはある意味で少しずつずれていく。思いのままにならないものが出てくる。たとえば、ここに描かれている「水玉」たちのように、どんなにしっかり生活していても、どこからともなく何かが漏れてしまう。それはただ単にそのままにしておけばだらしないだけのことだが、そこにそういうものがあるとしっかり認識するときから、さびしい美しさになる。そこから時間が見えてくる。そして、そこから「水垢」ということばもみえてくる。「水垢」ということばは、生活をきちんとしようとする意志がないとみえてこないものである。きちんとしようとすると、あ、この「水垢」もきれいにしなければ、という意識とともに浮かび上がるのだ。「水垢」は生活を邪魔する物だが、そういうものがみえてくるということは、生活をきちんとしようとする意識があるからである。その意識が美しいのである。さびしいのである。
 羅が描いているのは「時間」である。私たちのあらゆる一瞬は「時間」を、過去を持っている。過去とは暮らしであり、いのちのことである。そのいのちが、懸命に、いまという一瞬に、姿をととのえようとする。過去と今をつなぎ、一瞬を、すこしでも幅の広いものにしようとする。
 たとえば、3連目。

生の漏水を知らせる信号の音に
乾いた木の根をつけるように耳を傾ける

 ここに登場する「水」と「乾いた木」、そして「根」。これは草木を育てたことのある人間の意識である。乾いた草木は水を求める。その「根」は土の中に隠れているが、草木を育てたことがあるひとなら、その「根」を人間の「のど」のように感じる。自分の肉体の一部として感じる。その「肉体」としての「共感」が、たんに「根」→「のど」でとどまるのではなく、さらに「耳」に拡大していく。この拡大、自然に広がってしまう感覚のなかに、暮らしがあり、過去があり、いのちがある。
 こういう「共感」を、自分の「肉体」そのものとしていきるとき、羅は、人間であり、同時に一本の木なのだ。だから、4連目には自然に「鳥」が登場する。「木」には「鳥」がやってくる。「渇き」→「根」(のど)→「耳」という動きの中で、人間と木がいったいになり、「木」→「鳥」と、世界が広がっていく。
 この広がりを、羅は感謝の気持ちで受け入れる。いのちがあること、いのちは、さまざまな存在といっしょにあること。そのことを羅は感謝の気持ちで受け止める。
 詩はつづいてゆく。

あ、あの水玉たちは
私と切らすために来てくれたようだ

水玉の中で子供が一人泣き
水玉の中であじさいが咲き
水玉の中ですぐに金魚が死に
水玉の中で器が割れ
水玉の中で頃雪が降り
水玉の中でリンゴが熟し
水玉の中で歌声が聞こえ

遠くから水管に乗って上り
空き部屋の沈黙を濡らす水玉たちは
涙ぐんだ瞳で揺りかごの中の私を揺らす
私の心臓も水玉に似て
逆流する悲しみも忘れたまま眠りに入る

 「来てくれた」--このことばの、深い感謝。いのりのような、つぶやき。思わず涙が出る。
 あらゆるものが「来てくれる」。喜びも、悲しみも、絶望も。それが積み重なって、生活になる。暮らしになる。いのちになる。いきてきたことの、ひとつひとつの時間が、しっかりと「ことば」になる。「ことば」をとおして、羅はあらゆる存在と羅自身の「心臓」をひとつのものにする。その心臓が鼓動を打つたびに、過去が、暮らしが、いのちが、そっとひろがり、羅をつつつむのだ。
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宇宿一成『光のしっぽ』

2009-01-16 01:48:50 | 詩集
宇宿一成『光のしっぽ』(土曜美術社、2008年10月10日発行)

 「牛眼は緑」という作品がすごい。死んでしまうの牛を、死ぬ前にする。その瞬間を描いている。その3連目。

父は大きな出刃包丁を
その牛の頸部に刺し込み
肩までめり込ませて心臓をついたのだ。
父の腕が牛の体から離れると
腕を伝って落ちていた血が激しく噴き出し
寝床のわらを赤黒く染めて広がり
このほうが早く楽になるのだから
そういった父の方に
大きな瞳を向けてうずくまっていた
牛の目が緑色に透き通ってゆくのを
十一歳の私は身じろぎもせずにみつめていた

 対象をしっかりみつめて、正確に書いている。正確に書こうとしている。たぶん、「正確」というのが宇宿の「人柄」なのだ。「正確」であろうとすることが。「正確」に書くことが対象に対する礼儀だと宇宿は信じている。ここでは、牛をする父への、そして殺されていく牛への礼儀だと、宇宿は信じ、それを正確にことばで報告しようとしているのだ。こういう礼儀がしずかに滲み出してくることを指して、私は「人柄」と呼びたいのである。「個性」ではなく、「人柄」と。
 宇宿のことばには「個性的」な印象はない。淡々としていて、文学というよりも科学といった印象が強いことばである。宇宿は、いわば「個性」を排除して、科学であろうとしている。そして、その科学であろうとする謙虚さのなかに、「人柄」がにじむのである。

 個性的な詩は多い。しかし、「人柄」を感じさせる詩は、そんなには多くはない。私は「人柄」が浮かび上がる詩がとても好きだ。

牛の目が緑色に透き通ってゆく

 ああ、こんなふうに見つめてくれるひとがいるから、牛は死んでゆけるのだと思う。どんな変化も「正確」に見つめ、報告してくれるひとがいるから、どんな変化も受け入れることができるのだ。死を、少年が受け止めてくれている--そういう安心のもとに、牛は死んでゆくのだ。宇宿の「人柄」にすべてをあずけて、牛は死んでゆくのだ。
 この死を、宇宿はしっかり見つめた上で、その死を「事実」から「真実」に高めていく。ことばでしかたどりつけない「思想」に高めていく。
 それが4連目。

あの緑の目は
死に臨む明るさであったろうか
意識は昏くなっていっただろうに
私たちもいつか喫する眠りなのだと
ひと仕事終えた父の銜えた煙草の煙が
呟くように空気に散っていった
動物にとって死は
唐突に訪れる一点の暗闇でしかないのか

 「死に臨む明るさ」とは、なんと美しいことばだろう。その「明るさ」は、やはり信じることがあるからこそ生まれるものなのだ。たしかに死は暗いであろう。その暗闇がたとえどんなに長いものであろうと、信じることで、それは短いものになる。一瞬になる。通過点になる。
 ああ、そうなのだ、とこころから思う。
 牛ではないが、たとえば私が死んでゆくとき、その死をしっかり見つめてくれるひとがいれば、やはり死んでゆくことが平気だろうと思う。平気というと、嘘になるかもしれないが、なんといえばいいのだろうか。何かを信じることができる気がするのだ。「正確に」見つめてくれるひとの、そのこころのなかで、自分は生きていくんだ、と思える気がする。
 死とは、肉体を失ったあと、だれかのこころの中で生きはじめることなのだろう。そのとき、「正確に」見つめてくれるひとのこころだったら、とても安心する。安らげると思うのだ。そのひとの「人柄」にすべてをあずけられると思い、安らげると思うのだ。




光のしっぽ (21世紀詩人叢書・第2期)
宇宿 一成
土曜美術社出版販売

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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(5)中井久夫訳

2009-01-16 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
枚挙    リッツォス(中井久夫訳)

街路で立ち止まってながめている人々。
扉の上の番地の意味のない表示。
釘を細長い卓子に打ち込んでいる大工。
誰かが電信柱に名前のリストを貼りつけた。
新聞紙が茨に掛かってかさこそ音を立てる。
葡萄の葉の下にいる蜘蛛。
女が一人、家から出て別の家に入った。
黄色い壁。濡れている。塗料が反り返って剥げかけてる。
カナリアの籠が死んだ男の窓に吊るされる。



 街の描写。何かが欠けている、という印象がある。ひっそりとしている。欠けている何かになることを、すべてのひとが恐れているような、はりつめた厳しさがある。「新聞紙が茨に掛かってかさこそ音を立てる。」のも、風のせいではなく、そのはりつめた厳しさのせいである、という感じがする。ふつうは聞こえないのに、みんなが耳を澄ましているから聞こえてしまう音--という感じである。

女が一人、家から出て別の家に入った。

 この1行が描く動きも、非常に緊張している。ほかの動きはいっさいなく、ただ家から家へすばやく動いて行って、扉はしっかり閉ざされている。まるで壁のように。そして、そういう印象のあとに、実際の壁が描かれる。
 いくつものものが描かれているのに、視線が自然に動くのは、いま指摘した「扉」(扉ということばは出てこないが)から「壁」への移動のように、その移動が不自然ではないからだ。移動に脈絡があるからだ。

 そして最後に、この静かな緊張が「死んだ男」に起因するらしいことがそっと語られる。
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