詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「無名の娘」

2009-01-05 22:18:42 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「無名の娘」(「現代詩手帖」2009年01月号)

 詩を書く男を題材に詩を書いている。「締め切りをひかえて詩を書く男は机の前に座った」ではじまるその作品の中で、男は「若いきれいな娘」を登場させ、車を走らせる。小説や物語のように。彼女の前には「際限なく四方へ広が」る草原の一筋の道。男は、「彼女の行く先を決めてやらねばならない」と考えている。
 その、後半。3連目。

自分は涙を流さずに彼は娘に涙を流させる
彼女の心の深みに物語が生まれようとしているが
彼は風になびく娘の髪の匂いと
男物のシャツの下の乳房のふくらみに気を取られる
どこにあるのだろう「現実」という名の幻は
四輪駆動車が土埃をあげて遠ざかって行く

 「主役」の「娘」はどこかへ消えてしまう。「娘」をどこかへ走らせようとしていたはずなのに、男はそのことを忘れてしまう。「物語」はどうでもよくなって、「娘」そのものへと関心が移っていく。「物語」から逸脱してしまう。自分でつくりだした「娘」なのに、その乳房が気になる。
 この、逸脱の瞬間が詩である、と私は思う。男は書こうとしていたことがらを忘れ、ふいに、目の前の「現実」(という名の幻、と谷川は書いているが)に、深く深くかかわってしまう。
 書くはずだった「物語」は車のようにどこかへ消え去ってしまう。そして、詩といっしょに現実に取り残された男がここにいる。「物語」から取り残され、「いま」「ここ」というものだけを見つめなければならない男がいる。そのとき、男そのものが詩になる。
 これはとても刺激的だ。

 そして最終連。

そして音楽も彼を置き去りにして消え去る
あと六行書きたいと理由もなく思うが
世界はもう物音ひとつ立てず静まりかえっている…

 「あと六行書きたいと理由もなく思うが」という1行に、私は飛び上がってしまう。こんななんでもない(?)、というか、散文にしかならないようなことばが、まぎれもなく詩そのものとしてそこにあるからだ。
 詩は、こんなところまで来てしまったのだ。
 「あと六行書きたいと理由もなく思う」のは、この詩の1、2、3連がそれぞれ6行で構成されているからだ。4連目も6行で書けば形が美しくなる。男はただその形のことを思って「あと六行」と思っているのだが、そういう「意味」が、「現実」が、それまでの詩を書くという文学的虚構を完全に破壊して、「もの」そのもののように目の前にあらわれてくる。
 「書く」という「物語」を破壊し、否定し、逸脱して、時間と空間を「いま」「ここ」そのものにかえてしまう。「物語」を逸脱していくものこそ詩なのだから、この「あと六行書きたいと理由もなく思うが」という1行は、詩と呼ぶしかないのである。

 そして(というのも、少し変な言い方だけれど、こういう傑作にあったときは、どうしたって変な言い方でしか作品の感想は書けない--まだ、こういう作品に対する感想の書き方を私は知らないから)、この「あと六行書きたいと理由もなく思うが」のなかには、詩をさらに詩にしてしまう不思議なことばがある。
 「理由もなく」
 そうなのだ。詩には「理由」などない。「理由」がないから、詩なのである。「理由」に裏打ちされているときは「散文」である。「理由」が「物語」を動かしていく。しかし、詩は「理由もなく」動いてしまう。「理由もなく」動いてしまうからこそ、詩なのである。
 それは3連目を振り返るとよくわかる。

彼は風になびく娘の髪の匂いと
男物のシャツの下の乳房のふくらみに気を取られる

 ほんとうなら書かなくていいことに「彼」は「気を取られる」。なぜ? 「理由もなく」である。「理由」はないけれど、それは、「彼」のいのちに、「肉体」に深くかかわった何事なのかなのだ。自分ではどうすることもできない「いのち」の根源的な動きなのだ。「男物のシャツの下の乳房のふくらみに気を取られる」のは。
 そして、そうであるなら、最終連の、

あと六行書きたいと理由もなく思うが

 の「理由」も、「いのち」そのものとかかわっている。ここで「あと六行書きたい」というのは、技巧の問題や形式の問題ではなく、谷川の「いのち」のありようの問題なのである。

 2009年のはじまりに、ものすごいものを読んでしまった、読まされてしまった--と感じた。この驚愕以上のものを、今年は、いつ、どこで会えるだろうか。




どきん―谷川俊太郎少年詩集 (詩の散歩道)
谷川 俊太郎
理論社

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リッツォス「棚(1969)」より(1)中井久夫訳

2009-01-05 09:51:53 | リッツォス(中井久夫訳)
安楽椅子    リッツォス(中井久夫訳)

この安楽椅子は死んだ男の座っていた椅子だ。
縁びろうどの腕は当たっていたところが光っている。
あいつが連行された後、蠅が飛んできた。静かな大きな蠅どもだった。
冬だった。
オレンジが豊作だった。オレンジの貯蔵場の垣越しに
オレンジを投げ入れてやった。
曇りでもあった。いつ暁にあったのか、わからなかった。
別の日、早朝、室内装飾屋が来て刷毛で扉を叩いた。
痩せた召使が返事した。召使は死んだ男のネクタイをやった。
淡青の、黄色の、黒のタイを。皆、召使にウインクした。
今、安楽椅子は地下室にある、鼠取りを載せて--。



 「アルゴ畝の没落」のときも書いたが、リッツォスの「もの」のとりあわせ(ことばのとりあわせ)には俳句に似たところがある。聖と俗が出会う。その瞬間の、緊張とおかしみ。遠心と求心。
 この作品では、3行目の「蠅」、そして最終行の「鼠取り」が、「俗」を強調している。
 人間のいのちは「聖」だけでは成り立っていない。「俗」を含んでいる。そういうことはだれもが知ってはいるが、いったん「聖」の意識に捕らわれると「聖」にことばがしばられてしまう。世界がひとつの方向に形成されてしまう。そういう形で、「聖」そのものを今を超える次元にまで高めていくという作品もある。(逆に、「俗」をつきつめていく作品もある。)短い作品の多いリッツォスは、そういうことはしない。精神の運動をていねいに追い、それをある高みにまで到達させるということは、他人の仕事にまかせているようだ。リッツォスは短い詩を書く。短い詩は、精神が一定の高みに到達するという運動を描くには適していないことを知っている。短い詩は、現実を切り取り、そのなかに世界の構造を浮き彫りにするのに適している。リッツォスは、そういう仕事をしている。
 世界は「聖」と「俗」とでできている。その組み合わせが私たちのいのちを活気づける。

 この詩は、男がなぜ連行されたか、どこで死んだかなどは書いていない。たぶん、連行された先で死んだのだ。安楽椅子はそれを知らずにただ男の帰りを待っていた。だが、帰って来なかった。かわりに蠅が飛んできた。そして、今は、鼠取りが座っている。--ここに、人間のいのちの淋しさがある。あらゆるものは非情である。その非情さが人間の感情をさっぱりと洗い流し、抒情を清潔にする。淋しくさせる。
 淋しい、ゆえに我あり--と西脇順三郎のように呟いてみたくなる。こういうときは。
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