詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アーサー・ビナード、木坂涼「詩のジャングル」

2009-01-28 22:50:50 | 詩(雑誌・同人誌)
アーサー・ビナード、木坂涼「詩のジャングル」(「朝日新聞」2009年01月28日夕刊)

 今回、アーサー・ビナード、木坂涼が取り上げているのは、エリザベス・ロバーツの「ミルクしぼりたて」。とてもおいしそうだ。しぼりたての牛乳が飲みたくなる。前半の2連。

もうすぐ夕飯。でも、もうすぐって
いわれても、わたしは待てないの!
そんなときはマグカップもって
坂をくだって、牛のいる小屋までいくの。

牝牛(めうし)さんはその時間、トウモロコシの皮を
むしゃむしゃ、口の横からはもしゃもしゃ
こぼしてる。やさしい紫(むらさき)色の目は大きくて
いつもふわらーと全身、ミルクの匂(にお)い。

 この詩の魅力は「オノマトペ」である。英語と日本語では「オノマトペ」は同じではない。原文がどうなっているか知らないが、「オノマトペ」の翻訳はとても難しいと思う。(難解な学術語の方が定義が明確だし、用法が決まっているから、なれれば簡単だろう。)
 少女の空腹と、牛の空腹が重なり、むしゃむしゃ、もしゃもしゃという音の後、

ふわらーっと

 これは何だろう。もちろん食べる音ではない。でも、なんだか食べている感じ。何を食べる? 匂いを食べるのだ。「匂いを食べる」なんて日本語はない。「匂いにつつまれる」と「正しい日本語」は主張するだろう。でも、つつまれているだけじゃない。つつまれた瞬間から、つつまれたことを忘れ、それを自分の中に取り込んでいる。つまり「食べている」。そして、食べた幸福で、からだが「ふわらーっと」広がっていく。
 いいなあ。
 詩はこのあとも続くが、幸福なオノマトペがつづく。

 アーサー・ビナード、木坂涼は、こういう「幸福」な詩の天才である。



日本語ぽこりぽこり
アーサー・ビナード
小学館

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ファティ・アキン監督「そして、私たちは愛に帰る」(★★★★★)

2009-01-28 11:43:20 | 映画
監督 ファティ・アキン 出演 バーキ・ダヴラク、ハンナ・シグラ、ヌルセル・キョセ、トゥンジェル・クルティズ、ヌルギュル・イェシルチャイ、パトリシア・ジオクロース
 脚本がとてもすばらしい。
 ドイツに住むトルコ人とドイツ人。三つの家族が偶然関係を持ってくる。大学教授をしている息子の父は娼婦と出会う。その娼婦と暮らしているとき、ふとしたはずみで娼婦を殺してしまう。息子は、その娼婦の娘に母の死を知らせるためにトルコへ行く。一方、トルコの娘は母を探しにドイツへ来るが会えず、もぐりこんだ大学でドイツの少女と出会う。トルコの娘は不法入国が発覚し、トルコに強制送還される。その娘を追ってドイツの少女はトルコに行く。そして娘の依頼から銃を手に入れるが、その銃で殺されてしまう。悲報をきいてトルコへやってきた母は、大学教授と出会い、また、トルコの娘とも合う……。
 こうした映画の場合、「偶然」が「偶然」ではなく、何か作為(わざと)という感じでつながってしまうものだが、この映画はあくまで「偶然」におしとどめている。「偶然」が完全に結びつく寸前で、それをつなげない。観客にはその関係がわかるのだが、登場人物たちはあくまで完全な「円環」を知らない。そして、知らないまま、いま、そこにある関係以上のものを手さぐりする。つまり、「愛」を手さぐりする。ひとはひとを愛し、受け入れる、ということを手さぐりする。その手さぐりの感じがとてもいい。
 脚本の抑制されたストーリーの運びが、じっくりと、その手さぐりの感じを浮き立たせている。
 こういうことが成功するのは、脚本だけではなく、演技陣の力も作用している。脚本を読めば、それぞれの家族がほんとうは深くつながっているということは役者にはわかる。わかるけれども、それを知らない感じで、知っているのは自分の家族、自分の目の前に起きていることだけ、といういわば近視眼(?)的な雰囲気で演技をする。この感じ、とても自分の問題を超えてまで、深く物語のなかへはいってはいけないという感じがとてもいい。
 またカメラの力もすばらしい。役者が自分のことで手いっぱいなのを補うように、カメラはそのまわりの偶然を何気なく取り込んでしまう。三つの家族がそれぞれ真剣なのに、そのまわりでは、そういう思いとは関係なしに世界が存在している。それをとてもしっかり捉えている。
 ファーストシーンとラストシーンにそれがとても象徴的に表現されている。
 ファーストシーンはガソリンスタンド。大学教授がガソリンを入れるために立ち寄る。そのとき、スタンドのそばを犬がうろついている。なんの目的もないように、ふらりと動く。その動きを利用してカメラがガソリンスタンドに移動する。そこから物語がはじまる。
 ラストシーンは、その息子が、釣りにでた父を浜辺で座って待っている。海が荒れはじめたから、もうすぐ帰って来るだろう、と気長に待っている。そのとき風にあおられたビニール袋が転がってくる。画面の左手から右手へ。波打ち際まで行って動かなくなる。その様子をただ淡々と映している。父はまだ帰って来ないが、息子はただ座っている。そこでこの映画は終わる。
 犬もビニール袋も「不純物」である。物語にはなんの関係もない。なんの「伏線」にもなっていない。ただそこにあるだけである。それを自然にとりこんでいることろがすばらしい。そういうものをとりこむカメラがすばらしい。
 考えてみれば、私たちの周りには、そういう「不純物」というか、その人が生きていることとは無関係に存在するものがあふれている。私たちは、それを無意識のうちに視界から(意識から)除外している。しかし、除外しても、それがなくなるわけではない。そういうもので世界は成り立っているのだ。
 この映画のなかには、いくつかの愛が描かれる。そして、その愛は、あるときは「不純物」に見える。たとえば父親の娼婦に対する愛。それは息子から見れば一種の「不純物」である。またドイツの少女がトルコの娘によせる愛も、母から見れば「不純物」である。けれど、その「不純物」の愛、その情熱は、たとえば父親が息子に対してそそぐ愛、母親が娘に対してそそぐ愛とつながっている。こころの動きは同じなのだ。「無償」ということでは同じなのだ。
 映画は、イスラム教の「犠牲祭」のこととからめて、ふつうの(つまり神に選ばれたものではない人間の)愛を形を描いているのだが、そういう「純粋」だけでは捉えられないものを、カメラの視線をとおして具体化している。
 人間は、かなしい。けれど、かなしいって、いいなあ、と思う。かなしいから生きているんだなあ、と思える。そういう映画である。
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リッツォス「廊下と階段(1970)」より(3)中井久夫訳

2009-01-28 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
虚ろな中で   リッツォス(中井久夫訳)

石の上に水が落下しつづける。
冬の陽の中での水の音。
独りの鳥の叫びが
虚ろな空の中で
もう一度ぼくらを捜す。
言いたいことは?ころは何か?
どんな肯定が言いたいのか?
高い空からつぶてのように
駐車したバスの上に落ちつつあると。
観光客満載のバス。
何世紀も前に死んだ客たち。



 どんなことばも「時代」とともにある。その「時代」がわからないと、ことばの悲しみがわからない。私はリッツォスの生きたギリシャのことを知らない。「時代」を知らない。だから、この作品のことばのほんとうのところはわからない。
 ほんとうのところはわからないけれど、最終行の「死んだ客」ということばの、「死んだ」という修飾語にリッツォスの悲しみと怒りを感じる。「死んだ」はほんとうは「殺された」であろう。「肉体」は生きている。「精神」も生きてはいるのだが、それはかろうじて悲しみを、絶望を生きているにすぎない。だから「死んだ」と修飾せずにはいられない。悲しみ、怒り以外にもし生きているものがあるとすれば、そういう状態を「死んだ」と修飾する理性である。
 もっとほかの生き方があるのはわかっている。わかっているけれど、それを実現できない。そのとき、人間を「虚ろ」がつつんでしまう。そういう状況でリッツォスは世界を眺めていることになる。

独りの鳥の叫びが
虚ろな空の中で
もう一度ぼくらを捜す。

 リッツォスは、その一羽の鳥である。

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