川上弘美「斎場 中野 新井薬師」(「現代詩手帖」2008年12月号)
川上弘美「斎場 中野 新井薬師」は「水火」2(2008年07月)。
とても不思議な詩である。
という2行で始まる。友人は来月結婚することになっているのだが、結婚したくないという気持ちも持っている。結婚前に、いわば親しいヤマダヒロミに打ち明け話をした、ということだ。そのことを「わたし」は思い出している。
その後半。
この作品の不思議さは「余韻」の不思議さである。余韻に誘われて、ふと、作品全部を読み返してしまう。
どうしてだろう。
たぶん、省略が多いからだ。
「死ぬのだから不機嫌なのはあたりまえなのだった」とはいうものの、これでは「説明」になっていない。「説明」が省略されている。「不機嫌」ではなく「悲しい」でも「せつない」でもいいいのに、川上は「不機嫌」ということばを選び、その説明を省略している。
しかし、この省略が、なぜだかわからないが、納得してしまう。「死ぬのだから不機嫌」ということが、なぜか、すーっと納得できてしまう。川上のことばは、「肉体」を通ってきている。そして「肉体」の記憶が私の「肉体」に働きかけてくるのである。
人間はいろいろなことを体験する。そして体験はことばにならなくても「肉体」のなかにしまわれている。しまわれたままになっている。それがあるとき、誰かのことばに出会って、あ、あれはこういうことばで言い表すものだったのかと気がつく。川上が書いている「不機嫌」はそういうことばにあたる。
そのあとに書かれる「静かな声」「不思議でしょうがないという声」というのも、すーっと、納得してしまう。それは「説明」などいらないのだ。「肉体」に呼びかけるのだから、「説明」など不要なのである。
この「腹がたった」も同じである。「腹をたてている」相手は、もちろん係員ではない。係員ではないのだけれど、係員にあてつける形でしか腹を立てられない。そういう状況がある。そういうことを「肉体」は何度も経験する。その「肉体」の経験を、ことばで汚さずに、なるべく正直に書き表す。
あ、そうなのだ。川上のことばは、ことばを「頭」で汚していないという清潔さがあるのだ。そして、その清潔さが、私の「肉体」の記憶の汚れを洗い去っていくのだ。そのために、あ、もう一度、このことばに洗い清められたいと感じる。川上のことばの余韻は、そういう欲望を誘ってくれる。
私は「新井薬師」を知らない。「マツモトヨヒコ」ももちろん知らない。けれども、こういう美しいことばに触れると、新井薬師の白っぽい道を歩いてみたくなる。そこで、私はたとえば死んでしまった誰を思い出すだろうか。どんなふうに思い出せるだろうか、とふと感じてしまう。そしてまた、詩を読み返すのだった。
*
ことろで、この詩の作者、川上弘美は作家の川上弘美だろうか。私は川上弘美の小説は読んだことがないのだが、もし作家の川上弘美なのだとしたら、小説を読んでみたくなった。正直なことばの美しさに触れたくなった。
川上弘美「斎場 中野 新井薬師」は「水火」2(2008年07月)。
とても不思議な詩である。
まだわたしがヤマダヒロミだったころ
まだマツモトヨシコだったあなたと円山街のラブホテルに入った
という2行で始まる。友人は来月結婚することになっているのだが、結婚したくないという気持ちも持っている。結婚前に、いわば親しいヤマダヒロミに打ち明け話をした、ということだ。そのことを「わたし」は思い出している。
その後半。
死ぬ二年前に電話したとき
あなたは不機嫌な声をだした
死ぬのだから不機嫌なのはあたりまえなのだった
半年前の電話では静かな声だった
どうして死ぬのか不思議でしょうがないという声だった
三島の斎場の二階の
まんなかの部屋の祭壇に白い一本の花を置いた
何の花だったかは忘れた
最後のお別れをしてくださいと斎場の係の人が言った
腹がたったのでじっと椅子に座っていた
あなたと行った新井薬師に
おととい違う人と行った
三十年前と同じように
新井薬師までの道は白っぽかった
この作品の不思議さは「余韻」の不思議さである。余韻に誘われて、ふと、作品全部を読み返してしまう。
どうしてだろう。
たぶん、省略が多いからだ。
死ぬ二年前に電話したとき
あなたは不機嫌な声をだした
死ぬのだから不機嫌なのはあたりまえなのだった
「死ぬのだから不機嫌なのはあたりまえなのだった」とはいうものの、これでは「説明」になっていない。「説明」が省略されている。「不機嫌」ではなく「悲しい」でも「せつない」でもいいいのに、川上は「不機嫌」ということばを選び、その説明を省略している。
しかし、この省略が、なぜだかわからないが、納得してしまう。「死ぬのだから不機嫌」ということが、なぜか、すーっと納得できてしまう。川上のことばは、「肉体」を通ってきている。そして「肉体」の記憶が私の「肉体」に働きかけてくるのである。
人間はいろいろなことを体験する。そして体験はことばにならなくても「肉体」のなかにしまわれている。しまわれたままになっている。それがあるとき、誰かのことばに出会って、あ、あれはこういうことばで言い表すものだったのかと気がつく。川上が書いている「不機嫌」はそういうことばにあたる。
そのあとに書かれる「静かな声」「不思議でしょうがないという声」というのも、すーっと、納得してしまう。それは「説明」などいらないのだ。「肉体」に呼びかけるのだから、「説明」など不要なのである。
最後のお別れをしてくださいと斎場の係の人が言った
腹がたったのでじっと椅子に座っていた
この「腹がたった」も同じである。「腹をたてている」相手は、もちろん係員ではない。係員ではないのだけれど、係員にあてつける形でしか腹を立てられない。そういう状況がある。そういうことを「肉体」は何度も経験する。その「肉体」の経験を、ことばで汚さずに、なるべく正直に書き表す。
あ、そうなのだ。川上のことばは、ことばを「頭」で汚していないという清潔さがあるのだ。そして、その清潔さが、私の「肉体」の記憶の汚れを洗い去っていくのだ。そのために、あ、もう一度、このことばに洗い清められたいと感じる。川上のことばの余韻は、そういう欲望を誘ってくれる。
私は「新井薬師」を知らない。「マツモトヨヒコ」ももちろん知らない。けれども、こういう美しいことばに触れると、新井薬師の白っぽい道を歩いてみたくなる。そこで、私はたとえば死んでしまった誰を思い出すだろうか。どんなふうに思い出せるだろうか、とふと感じてしまう。そしてまた、詩を読み返すのだった。
*
ことろで、この詩の作者、川上弘美は作家の川上弘美だろうか。私は川上弘美の小説は読んだことがないのだが、もし作家の川上弘美なのだとしたら、小説を読んでみたくなった。正直なことばの美しさに触れたくなった。