詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川上弘美「斎場 中野 新井薬師」

2009-01-03 11:15:10 | 詩(雑誌・同人誌)
川上弘美「斎場 中野 新井薬師」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 川上弘美「斎場 中野 新井薬師」は「水火」2(2008年07月)。
 とても不思議な詩である。

まだわたしがヤマダヒロミだったころ
まだマツモトヨシコだったあなたと円山街のラブホテルに入った

 という2行で始まる。友人は来月結婚することになっているのだが、結婚したくないという気持ちも持っている。結婚前に、いわば親しいヤマダヒロミに打ち明け話をした、ということだ。そのことを「わたし」は思い出している。
 その後半。

死ぬ二年前に電話したとき
あなたは不機嫌な声をだした
死ぬのだから不機嫌なのはあたりまえなのだった
半年前の電話では静かな声だった
どうして死ぬのか不思議でしょうがないという声だった
三島の斎場の二階の
まんなかの部屋の祭壇に白い一本の花を置いた
何の花だったかは忘れた
最後のお別れをしてくださいと斎場の係の人が言った
腹がたったのでじっと椅子に座っていた
あなたと行った新井薬師に
おととい違う人と行った
三十年前と同じように
新井薬師までの道は白っぽかった

 この作品の不思議さは「余韻」の不思議さである。余韻に誘われて、ふと、作品全部を読み返してしまう。
 どうしてだろう。
 たぶん、省略が多いからだ。

死ぬ二年前に電話したとき
あなたは不機嫌な声をだした
死ぬのだから不機嫌なのはあたりまえなのだった

 「死ぬのだから不機嫌なのはあたりまえなのだった」とはいうものの、これでは「説明」になっていない。「説明」が省略されている。「不機嫌」ではなく「悲しい」でも「せつない」でもいいいのに、川上は「不機嫌」ということばを選び、その説明を省略している。
 しかし、この省略が、なぜだかわからないが、納得してしまう。「死ぬのだから不機嫌」ということが、なぜか、すーっと納得できてしまう。川上のことばは、「肉体」を通ってきている。そして「肉体」の記憶が私の「肉体」に働きかけてくるのである。
 人間はいろいろなことを体験する。そして体験はことばにならなくても「肉体」のなかにしまわれている。しまわれたままになっている。それがあるとき、誰かのことばに出会って、あ、あれはこういうことばで言い表すものだったのかと気がつく。川上が書いている「不機嫌」はそういうことばにあたる。
 そのあとに書かれる「静かな声」「不思議でしょうがないという声」というのも、すーっと、納得してしまう。それは「説明」などいらないのだ。「肉体」に呼びかけるのだから、「説明」など不要なのである。

最後のお別れをしてくださいと斎場の係の人が言った
腹がたったのでじっと椅子に座っていた

 この「腹がたった」も同じである。「腹をたてている」相手は、もちろん係員ではない。係員ではないのだけれど、係員にあてつける形でしか腹を立てられない。そういう状況がある。そういうことを「肉体」は何度も経験する。その「肉体」の経験を、ことばで汚さずに、なるべく正直に書き表す。
 あ、そうなのだ。川上のことばは、ことばを「頭」で汚していないという清潔さがあるのだ。そして、その清潔さが、私の「肉体」の記憶の汚れを洗い去っていくのだ。そのために、あ、もう一度、このことばに洗い清められたいと感じる。川上のことばの余韻は、そういう欲望を誘ってくれる。

 私は「新井薬師」を知らない。「マツモトヨヒコ」ももちろん知らない。けれども、こういう美しいことばに触れると、新井薬師の白っぽい道を歩いてみたくなる。そこで、私はたとえば死んでしまった誰を思い出すだろうか。どんなふうに思い出せるだろうか、とふと感じてしまう。そしてまた、詩を読み返すのだった。



 ことろで、この詩の作者、川上弘美は作家の川上弘美だろうか。私は川上弘美の小説は読んだことがないのだが、もし作家の川上弘美なのだとしたら、小説を読んでみたくなった。正直なことばの美しさに触れたくなった。


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岡島弘子「あまい滴」(補足)

2009-01-03 10:37:42 | 詩集
岡島弘子「あまい滴」(補足)(「現代詩手帖」2008年12月号)

 岡島弘子「あまい滴」の最後の2連。

カワセミのかわいたのどをうるおし
ごくりとのみこまれる一瞬だけ
あまい滴になれる

そして 忘れ去られる
どじょうは 私

 この最終連について、私はきのう、この行に隠されていることばは「である」ではない。「どじょうは 私である」というのではない。ここでは、岡島は「どじょうは 私になる」と言っているのである。言い直せば、「私は どじょうになれる」とカワセミに恋を、いや、生きているいのちのかぎりを打ち明けているのである、と書いた。
 重要なことば、「肉体」にしっかり身についていることばはいつでも、この最終連のように省略されることが多い。書いている本人にとっては、それは自明のことであり、他人にことばにして伝える必要がないからである。こういうことばを私は「思想」と呼んでいる。
 そして、この省略された「私はどじょうになれる」はまた「私はどじょうになりたい」である。願望である。祈りである。だからこそ、これは恋を、いのちを打ち明けている詩だといえる。

 恋はいつでもことばにならない。恋はいつでも当人にとっては自明のことだからである。だから大切なことば、しってもらいたい声はことばにならずに省略される。そして、その省略ゆえに、伝わらない。
 そうやって、「忘れ去られる」。

 せつない余韻が残る。




野川
岡島 弘子
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リッツォス「反復(1968)」より(5)中井久夫訳

2009-01-03 09:25:22 | リッツォス(中井久夫訳)
アルゴ船の没落    リッツォス(中井久夫訳)

今宵、歳月の過ぎ、物事の過ぎ行くを語るのは軽薄だという気がする。
よしんば美女のことであっても、功業でも、詩でさえも。
思い起こす、あの伝説の船が、さる春の宵だ、コリントに運び込まれた時を。
船虫にむしばまれ、塗料はあせ、櫂受けは割れ、
継ぎはぎと孔と記憶に満ちて--。
さて古いアルゴ船はポセイドンの神殿への壮大な捧げ物になった。
森を通る長蛇の列、松明、花輪、横笛、若者の競技、
美しい夜だ。祭司らの歌う声。
神殿の破風から梟が一羽鳴いた。踊り子は軽やかに船上で踊った。
ありもしない櫂と汗と血の荒々しい動きを模しつつ、そぐわない優雅さで踊った。
それから老水夫が一人、足許に唾を吐いて木立に歩み寄った、小用のために。



 この詩は最後の1行がとりわけ美しい。俳句のようである。ふいに異質なものが登場し、一気に世界を凝縮し、同時に解放する。遠心と求心。その動きが1行に満ちている。
 日本語の詩に「俗」を持ち込むことで世界を活性化させたのは芭蕉だが、こういうことばの動きは世界各地にあるのかもしれない。「俗」あるいは「卑近」なものが、人間の「肉体」を呼び覚まし、いま、ここに存在する「精神」に対して拮抗する。その瞬間の「笑い」、「笑い」という解放。
 戦いに勝利と敗北があるように、あらゆるものに相反するものがある。それは同じ強さで絡み合っている。そのからみあいが、遠心・求心という形で一気に生成する。

 前半の倒置法の緊張がとても効果的だと思う。
 倒置法によって、ことばというか、ことばを追う精神は緊張する。ことばがおわった瞬間、頭の中でことばが動く。ふつうの(?)文法に沿って。「思い起こす、あの伝説の船が、さる春の宵だ、コリントに運び込まれた時を。」は「さる宵に、あの伝説の船がコリントに運び込まれた時を思い起こす。」という具合に。無意識の内に、頭は運動する。ことばを追いながら、自分流に組立直すという運動を。
 散文は頭を自然に導くが、詩は頭をかき回しながらひっぱって行く。「ジュリアス・シーザー」(シェークスピア)のアントニーとブルータスの演説の違いのように。
 そして、「俗」は詩で緊張した頭にはとても効果的だ。とてもよく響く。

 倒置法の「詩」と「俗」を拮抗させた中井の訳はとてもおもしろい。

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