詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井貞和「あけがたには」、佐々木幹郎「行列」、小池昌代「夕日」

2009-01-31 12:50:49 | 詩集
 藤井貞和「あけがたには」は、小池昌代、林浩平、吉田文憲編著『やさしい現代詩』(三省堂、2009年02月10日発行)に収録されている。
 自作朗読CDの一冊。谷川俊太郎ほか17人のアンソロジー。CDがついているけれど、私は聞いていない。私は耳が悪い。聞き慣れた人の声でも聞き違いをする。「結婚記念日」は「コンキネンビ」、「ビルディング」は「イルディング」という具合に、冒頭の音を聞き取れない。「浜本」というひとの名前は「あまもと」と誤解する。肉声を知らない人の声を聞いても、きっと勘違いするだろうと思う。
 私が書くのは、CDを聞いた感想ではなく、あくまで詩を読んだときの感想である。
 藤井貞和の「あけがたには」がおもしろかった。聞くというのではなく、声に出して読んでみたくなった。

夜汽車のなかを風が吹いていました
ふしぎな車内放送が風をつたって聞こえます
……よこはまには、二十三時五十三分
とつかが、零時五分
おおふな、零時十二分
ふじさわは、零時十七分
つじどうに、零時二十一分
ちがさきへ、零時二十五分
ひらつかで、零時三十一分
おおいそを、零時三十五分
にのみやでは、零時四十一分
こうずちゃく、零時四十五分
かものみやが、零時四十九分
おだわらを、零時五十三分
…………
ああ、この乗務車掌さんはわたしだ、日本語を
苦しんでいる、いや、日本語で苦しんでいる
日本語が、苦しんでいる
わたくしは眼を抑えて小さくなっていました
あけがたには、なごやにつきます
                 (『ピューリファイ!』1984年08月 書肆山田)

 読んでみたくなるのは、「零時○○分」の繰り返しも楽しそうだし、それに先だつ「よこはま」「おおふな」云々とときどき挟まる「は」「へ」「に」などの助詞、ふいにあらわれる「ちゃく」が、どんなふうに自分の肉体に作用するか知りたいからだ。
 試してみると、ひらがなの地名は、その土地を私が知らないからかもしれないが、音楽のように揺れる。喉を通るとき、「意味」にならずに、ただ音楽として声帯を刺激する。「零時○○分」は「意味」がわかるけれど、まったく役に立たない。私の生活とかかわりがない。それは私にとって規則正しい「雑音」である。この作品は、不思議な音楽と雑音でできている。そして、その音楽と雑音の間に、読点「、」が差し挟まれている。その読点の、一拍の呼吸がとても楽しい。リズムは音によってもつくりだされるが、音のない時間、空白によってもつくりだされる。その「音楽」「空白」「雑音」という感じが、何度も何度も繰り返し読んでみたい気持ちにさせる。
 「ああ、この乗務車掌さんは」からの3行に繰り返される「日本語」の述語部分の変化、助詞の変化も楽しい。「乗務車掌さんの」の「乗務」もとても美しい。もしかすると、藤井はこの「乗務車掌さん」ということばをつかいたくてこの詩を書いたのではないだろうか、と思ってしまうほどである。

 また、この詩は別の読み方もできる。藤井は「よこはまには、二十三時五十三分」と書いたあと、次々に駅と時間を書いている。これはほんとうの時間? そして、それはほんとうに聞いた時間? 聞き取って時間?
 ほんとうに聞き取った時間であるとしても、たぶん、それを正確には再現できないだろうから、これは藤井が「わざと」書いている部分である。体験したことかもしれないけれど、その体験を別の資料(時刻表)をつかいながら「わざと」再現している。この「わざと」は目立たないけれど、その「わざと」のなかに詩がある。詩は常に「わざと」のなかにある。
 駅名と、時刻。その繰り返し。間にはさまれる読点「、」も実は「わざと」である。読点「、」がなくても意味は変わらない。駅名がひらがななのも「わざと」である。藤井が列車の中で感じたある瞬間の「美」--それを拡大し、明確にするために「わざと」こういう書き方をしているのである。朗読して(声に出して)楽しい詩ではあるけれど、同時に目で読んでも楽しい詩である。目で読んだときの方が、「わざと」がわかりやすい楽しい詩である。
 詩人は「事実」を書かない。いや、事実であるにしろ、それは「わざと」書いたものである。いろいろ調べて、書き方を工夫して書いたものである。そこに書かれているのは、実は「事実」というより、ものごとの「書き方」なのである。「書き方」そのものが詩なのである。



 佐々木幹郎「行列」も楽しい。読んで楽しい。(初出は『気狂いフルート』1979年07月、思潮社)

行列のあたま
行列の過去を噛み
行列の口
行列の未来をとなえ

 と行頭は「行列の」が延々と繰り返される。「行列」が「行列」している感じがしてくる。しかし、最後は、

行列の闇から闇まで
蛍がとびかう

と、突然、「蛍」が飛び出してきて終わる。違ったものが現れた瞬間、あ、おわった。そんなふうに安心する。その安心のなかに詩がある。書かれていることに「意味」はない。いや、あるのかもしれないけれど、私は「意味」ではなく、この唐突な終わり方、「蛍」が理由なく飛び出してくる瞬間が好きである。蛍ではなく、蚤やしらみ、こうもり、薔薇でも可能かもしれないけれど、そういうものではなく蛍を選びとってくるところ、その脈絡を超えたことばと佐々木のつながりに詩がある。そういうものに出会う瞬間の楽しさがこの詩にはある。



 小池昌代「夕日」には声になった声と、声にならなかった声が書かれている。(初出は『永遠に来ないバス』1997年03月、思潮社)

片岡くんが会いませんかと言う
会いませんか こんど
あ、あ、あい、あいませんか、あい、あ
と言うので、はいと言った

 これは声になった声である。「あ、あ、あい、あいませんか、あい、あ」が楽しい。(ただし、私の感覚では、「あ、あ、あい、あいません、あい、あ」と「か」がない方がリアルに思える。たぶん私がどもってしまうとしたら、「か」抜きでどもる。「か」まで言えたら、そのあと「あい、あ」とは言わないだろうと、私の「肉体」は主張している。) 最後には、逆に声にならなかった声がていねいに書かれている。

太陽はビルの背中をこがして
みしみし、西空へしずみかけている
約束してしまうのはもったいない気もちだ
私はしつもんをのみ込んでみている
(いつ?
(どこで?
(なにをして?
夕日

 声になってしまった声と、声にならなかった声とが、詩の中で出会っている。そのことが楽しい。
 そして、この詩も、実は私には読んで楽しいものである。聞いてほんとうに楽しいかどうかはわからない。最後の声にならなかった声は、朗読では声になってしまう。それはちょっとつまらない。もし読むのなら、声に出さず「口」だけ動かして、その3行を表現してほしいと私は思う。(きょうの「日記」に取り上げた映画「エレジー」でペネロペ・クルスが「アイ・ラブ・ユー」と口だけ動かして語るシーンのように。)声に出さなくても伝わる声というものが現実にはある。そういう声に出会えるというのは、とても至福である。実際に声を聞いてしまうと、その喜びはきっと消える。
 私は詩の朗読はしない。また、朗読を聞くこともしない。それはたぶん、そういう「声にならない声」の美しさ、切実さ、そしてそれを耳ではなくたの器官(たとえば目)で聞く機会が消えてしまうのを残念に思うからである。


 

やさしい現代詩―自作朗読CD付き
小池 昌代,吉田 文憲,林 浩平
三省堂

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イザベル・コイシュ監督「エレジー」(★★★★)

2009-01-31 01:05:42 | 映画
監督 イザベル・コイシュ 出演 ペネロペ・クルス、ベン・キングズレー、デニス・ホッパー

 忘れがたいシーンがある。ペネロペ・クルスがいったんベン・キングズレーと別れ、2年後に再会する。そのときペネロペ・クルスは乳ガンに冒されている。それを打ち明ける。そのときベン・キングズレーが泣きはじめる。自分の肉欲(快楽)のみを求めてきた男が、若い女のいのちをいとおしみ泣きはじめる。それに対して、ペネロペ・クルスが、「まるで自分が年上で、あなたが少年みたいだ」という。このシーンがとても美しい。
 考えてみれば、2人の関係はいつも年上の女性、年下の少年だったのだ。ベン・キングズレーが30歳以上年上、大学教授であり、ペネロペ・クルスは若い学生なのだから、外見的にはベン・キングズレーが年上であり、立場も上位にあるのだが、彼等の行動を動かしているのは、年上の女性、年下の少年なのだ。
 ベン・キングズレーがペネロペ・クルスにひかれるのはその美貌であり、その肉体である。彼女の人間性のことは意識にのぼらない。青年時代にさえしたことのない嫉妬にかられ、ペネロペ・クルスのあとを追いかけてみたり、妄想にかられたりする。その一方で、別の女性との関係をつづけ、嘘をつきもする。友人に、ペネロペ・クルスとの関係を語り、いろいろ相談もする。つまり、ベン・キンギズレーは「愛」を一人では抱えきれないのである。大人ではなく「少年」なのである。
 これに対して、ペネロペ・クルスは正直である。10代のころの男性経験を問われるままに語る。ベン・キングズレーの女性関係も深くは追及しない。いま、彼が、彼女の肉体を愛してくれていることを受け止め、その肉体への愛が彼女自身への愛だと受け止める。
 対極的な二人が幸福に包まれるのは、したがって、ベン・キングズレーが少年の純粋さを発揮するときである。ペネロペ・クルスの美しさを無邪気に称賛するとき。ロマンチックな場所へ行き、夢を語るとき。海岸で、プラド美術館へ行こう、ベネチアへいってゴンドラに乗って歌を歌ってあげる、と語るとき。夢中になって写真をとるとき。ペネロペ・クルスが声に出さずに「アイ・ラブ・ユー」と言ったのを、「聞こえなかった。もう一度言って」とせがむとき。その無邪気な「少年」に触れるとき、ペネロペ・クルスはベン・キングズレーが30歳年上であることを忘れる。恋が二人の間にある「外見」を消し去る。
 まったく逆のシーンを思い起こすと、この二人の違いはいっそう明確になる。ペネロペ・クルスが最初に涙をみせるシーン。しかも、ベン・キングズレーに隠れて涙をみせるシーン。大学の卒業パーティーを自宅で開く。パーティーの最中、ベン・キングズレーが電話をかけてくる。「車が故障して、パーティーに行けない」。これはもちろん嘘である。ベン・キングズレーは自分が30歳も年上であるということ、その外見に対して負い目を感じている。ペネロペ・クルスの家族に30歳も年上であることを知られたくない。ペネロペ・クルスは「車が故障した」という電話が嘘であることを知っている。だから泣く。ベン・キングズレーが結局「少年」であり、「少年の嘘」をつくからである。「いま」を受け入れることができない「少年」であることを知ってしまったからである。
 ベン・キングズレーが年上であり、ペネロペ・クルスが若いから、二人の恋は破綻したのではなく、逆なのだ。ペネロペ・クルスは「おとな」なのに、ベン・キングズレーがいつまでも「少年」だから、恋は破綻したのだ。
 それでも、ペネロペ・クルスはベン・キングズレーが恋しくて、最後に彼を頼ってやってくる。会いに来る。そして、そこで相変わらずベン・キングズレーが「少年」であることを発見する。この瞬間から、二人の愛が重なり、切ない物語になる。永遠になる。ペネロペ・クルスはベン・キングズレーが少年であることを受け入れ、ベン・キングズレーも自分が少年であることを受け入れるのである。恋愛とは、相手のためなら自分が何になってもかまわないと決意し、実行することだ。ベン・キングズレーが快楽主義の教授から、ただペネロペ・クルスが好きということしかわからない少年になるという変化も、その「何になってもかまわない」ということにつながるのだ。
 ベン・キングズレーが少年になる--という変化は別の物語でも語られる。彼には息子がいる。彼は父親なのに息子の相談には親身にならない。その彼がペネロペ・クルスが乳ガンだと知って医師の息子に相談する。息子は親身になってベン・キングズレーの相談に乗る。そういう親子関係の逆転をとおして、二人は和解する。
 人間を結びつけるのは、外見の年上・年下、父・息子という関係ではないのである。そういう外見の関係を乗り越えたとき、そこにほんとうの愛がうまれる。
 ラストシーン。手術を終え、集中管理室から一般病棟に移ったペネロペ・クルスにベン・キングズレーがよりそう。ベッドの上で体をよりそわせる。かなしく、けれども、こころが落ち着く。そのせつない美しさ。悲しいけれど、ほんとうに美しい。愛は、こんなふうにしてかけがえのないものになる。



 ペネロペ・クルスの若い表情、その目の力強さが魅力的だ。長い髪で顔を半分隠した表情と、髪を切ったあとの、すべてをさらけだす顔の美しさ。その対比にはっとさせられる。その肉体も美しい。ベン・キングズレーの快楽主義の男から少年への変化も、とても純粋な気持ちにさせられる。
 すべての映像に「節度」というものが感じられ、それも気持ちがいい。感情のおしつけがない。
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リッツォス「廊下と階段(1970)」より(6)中井久夫訳

2009-01-31 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
本質的な   リッツォス(中井久夫訳)

彼はボタンをコートに縫いつける。
不器用な手つき。太い針。太い糸。
彼の独り言。

パンを食べたか。よく寝たか?
しゃべれたか。腕を伸ばせたか?
忘れずに窓から外を見たか?
微笑したか、ドアを叩く音を聞いて?

叩く音が間違いなく「死」でも、死は二着だ。
一着はつねに自由である。



 この作品も「意味」が強い。「思想」が強い。言いたいことは最終連の2行である。死を恐れない。自由を求める。そういう強い意志を語っている。
 その部分よりも、私は書き出しの3行が好きだ。ことばになってしまった「思想」よりも、ことばにならない行為の中の「生き方」が好きだ。不器用であっても、自分のことは自分でする。そこにこそ「自由」がある。太い針、太い糸は「不器用」にあわせて彼が選びとったものである。そういう選びとり方にこそ、ほんとうの思想がある、と私は思う。そういうものを短いことばでぱっとつかんで放り出すリッツォス。
 そして、同時に、そうした時代を生きる不安を、「本質」とからめながら書いた2連目もいい。食べる、寝る、しゃべる。それはたしかに人間の基本的なことである。基本的なことをできるのが自由である。そのあとに、二着に「死」がくる。


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