藤井貞和「あけがたには」は、小池昌代、林浩平、吉田文憲編著『やさしい現代詩』(三省堂、2009年02月10日発行)に収録されている。
自作朗読CDの一冊。谷川俊太郎ほか17人のアンソロジー。CDがついているけれど、私は聞いていない。私は耳が悪い。聞き慣れた人の声でも聞き違いをする。「結婚記念日」は「コンキネンビ」、「ビルディング」は「イルディング」という具合に、冒頭の音を聞き取れない。「浜本」というひとの名前は「あまもと」と誤解する。肉声を知らない人の声を聞いても、きっと勘違いするだろうと思う。
私が書くのは、CDを聞いた感想ではなく、あくまで詩を読んだときの感想である。
藤井貞和の「あけがたには」がおもしろかった。聞くというのではなく、声に出して読んでみたくなった。
読んでみたくなるのは、「零時○○分」の繰り返しも楽しそうだし、それに先だつ「よこはま」「おおふな」云々とときどき挟まる「は」「へ」「に」などの助詞、ふいにあらわれる「ちゃく」が、どんなふうに自分の肉体に作用するか知りたいからだ。
試してみると、ひらがなの地名は、その土地を私が知らないからかもしれないが、音楽のように揺れる。喉を通るとき、「意味」にならずに、ただ音楽として声帯を刺激する。「零時○○分」は「意味」がわかるけれど、まったく役に立たない。私の生活とかかわりがない。それは私にとって規則正しい「雑音」である。この作品は、不思議な音楽と雑音でできている。そして、その音楽と雑音の間に、読点「、」が差し挟まれている。その読点の、一拍の呼吸がとても楽しい。リズムは音によってもつくりだされるが、音のない時間、空白によってもつくりだされる。その「音楽」「空白」「雑音」という感じが、何度も何度も繰り返し読んでみたい気持ちにさせる。
「ああ、この乗務車掌さんは」からの3行に繰り返される「日本語」の述語部分の変化、助詞の変化も楽しい。「乗務車掌さんの」の「乗務」もとても美しい。もしかすると、藤井はこの「乗務車掌さん」ということばをつかいたくてこの詩を書いたのではないだろうか、と思ってしまうほどである。
また、この詩は別の読み方もできる。藤井は「よこはまには、二十三時五十三分」と書いたあと、次々に駅と時間を書いている。これはほんとうの時間? そして、それはほんとうに聞いた時間? 聞き取って時間?
ほんとうに聞き取った時間であるとしても、たぶん、それを正確には再現できないだろうから、これは藤井が「わざと」書いている部分である。体験したことかもしれないけれど、その体験を別の資料(時刻表)をつかいながら「わざと」再現している。この「わざと」は目立たないけれど、その「わざと」のなかに詩がある。詩は常に「わざと」のなかにある。
駅名と、時刻。その繰り返し。間にはさまれる読点「、」も実は「わざと」である。読点「、」がなくても意味は変わらない。駅名がひらがななのも「わざと」である。藤井が列車の中で感じたある瞬間の「美」--それを拡大し、明確にするために「わざと」こういう書き方をしているのである。朗読して(声に出して)楽しい詩ではあるけれど、同時に目で読んでも楽しい詩である。目で読んだときの方が、「わざと」がわかりやすい楽しい詩である。
詩人は「事実」を書かない。いや、事実であるにしろ、それは「わざと」書いたものである。いろいろ調べて、書き方を工夫して書いたものである。そこに書かれているのは、実は「事実」というより、ものごとの「書き方」なのである。「書き方」そのものが詩なのである。
*
佐々木幹郎「行列」も楽しい。読んで楽しい。(初出は『気狂いフルート』1979年07月、思潮社)
と行頭は「行列の」が延々と繰り返される。「行列」が「行列」している感じがしてくる。しかし、最後は、
と、突然、「蛍」が飛び出してきて終わる。違ったものが現れた瞬間、あ、おわった。そんなふうに安心する。その安心のなかに詩がある。書かれていることに「意味」はない。いや、あるのかもしれないけれど、私は「意味」ではなく、この唐突な終わり方、「蛍」が理由なく飛び出してくる瞬間が好きである。蛍ではなく、蚤やしらみ、こうもり、薔薇でも可能かもしれないけれど、そういうものではなく蛍を選びとってくるところ、その脈絡を超えたことばと佐々木のつながりに詩がある。そういうものに出会う瞬間の楽しさがこの詩にはある。
*
小池昌代「夕日」には声になった声と、声にならなかった声が書かれている。(初出は『永遠に来ないバス』1997年03月、思潮社)
これは声になった声である。「あ、あ、あい、あいませんか、あい、あ」が楽しい。(ただし、私の感覚では、「あ、あ、あい、あいません、あい、あ」と「か」がない方がリアルに思える。たぶん私がどもってしまうとしたら、「か」抜きでどもる。「か」まで言えたら、そのあと「あい、あ」とは言わないだろうと、私の「肉体」は主張している。) 最後には、逆に声にならなかった声がていねいに書かれている。
声になってしまった声と、声にならなかった声とが、詩の中で出会っている。そのことが楽しい。
そして、この詩も、実は私には読んで楽しいものである。聞いてほんとうに楽しいかどうかはわからない。最後の声にならなかった声は、朗読では声になってしまう。それはちょっとつまらない。もし読むのなら、声に出さず「口」だけ動かして、その3行を表現してほしいと私は思う。(きょうの「日記」に取り上げた映画「エレジー」でペネロペ・クルスが「アイ・ラブ・ユー」と口だけ動かして語るシーンのように。)声に出さなくても伝わる声というものが現実にはある。そういう声に出会えるというのは、とても至福である。実際に声を聞いてしまうと、その喜びはきっと消える。
私は詩の朗読はしない。また、朗読を聞くこともしない。それはたぶん、そういう「声にならない声」の美しさ、切実さ、そしてそれを耳ではなくたの器官(たとえば目)で聞く機会が消えてしまうのを残念に思うからである。
自作朗読CDの一冊。谷川俊太郎ほか17人のアンソロジー。CDがついているけれど、私は聞いていない。私は耳が悪い。聞き慣れた人の声でも聞き違いをする。「結婚記念日」は「コンキネンビ」、「ビルディング」は「イルディング」という具合に、冒頭の音を聞き取れない。「浜本」というひとの名前は「あまもと」と誤解する。肉声を知らない人の声を聞いても、きっと勘違いするだろうと思う。
私が書くのは、CDを聞いた感想ではなく、あくまで詩を読んだときの感想である。
藤井貞和の「あけがたには」がおもしろかった。聞くというのではなく、声に出して読んでみたくなった。
夜汽車のなかを風が吹いていました
ふしぎな車内放送が風をつたって聞こえます
……よこはまには、二十三時五十三分
とつかが、零時五分
おおふな、零時十二分
ふじさわは、零時十七分
つじどうに、零時二十一分
ちがさきへ、零時二十五分
ひらつかで、零時三十一分
おおいそを、零時三十五分
にのみやでは、零時四十一分
こうずちゃく、零時四十五分
かものみやが、零時四十九分
おだわらを、零時五十三分
…………
ああ、この乗務車掌さんはわたしだ、日本語を
苦しんでいる、いや、日本語で苦しんでいる
日本語が、苦しんでいる
わたくしは眼を抑えて小さくなっていました
あけがたには、なごやにつきます
(『ピューリファイ!』1984年08月 書肆山田)
読んでみたくなるのは、「零時○○分」の繰り返しも楽しそうだし、それに先だつ「よこはま」「おおふな」云々とときどき挟まる「は」「へ」「に」などの助詞、ふいにあらわれる「ちゃく」が、どんなふうに自分の肉体に作用するか知りたいからだ。
試してみると、ひらがなの地名は、その土地を私が知らないからかもしれないが、音楽のように揺れる。喉を通るとき、「意味」にならずに、ただ音楽として声帯を刺激する。「零時○○分」は「意味」がわかるけれど、まったく役に立たない。私の生活とかかわりがない。それは私にとって規則正しい「雑音」である。この作品は、不思議な音楽と雑音でできている。そして、その音楽と雑音の間に、読点「、」が差し挟まれている。その読点の、一拍の呼吸がとても楽しい。リズムは音によってもつくりだされるが、音のない時間、空白によってもつくりだされる。その「音楽」「空白」「雑音」という感じが、何度も何度も繰り返し読んでみたい気持ちにさせる。
「ああ、この乗務車掌さんは」からの3行に繰り返される「日本語」の述語部分の変化、助詞の変化も楽しい。「乗務車掌さんの」の「乗務」もとても美しい。もしかすると、藤井はこの「乗務車掌さん」ということばをつかいたくてこの詩を書いたのではないだろうか、と思ってしまうほどである。
また、この詩は別の読み方もできる。藤井は「よこはまには、二十三時五十三分」と書いたあと、次々に駅と時間を書いている。これはほんとうの時間? そして、それはほんとうに聞いた時間? 聞き取って時間?
ほんとうに聞き取った時間であるとしても、たぶん、それを正確には再現できないだろうから、これは藤井が「わざと」書いている部分である。体験したことかもしれないけれど、その体験を別の資料(時刻表)をつかいながら「わざと」再現している。この「わざと」は目立たないけれど、その「わざと」のなかに詩がある。詩は常に「わざと」のなかにある。
駅名と、時刻。その繰り返し。間にはさまれる読点「、」も実は「わざと」である。読点「、」がなくても意味は変わらない。駅名がひらがななのも「わざと」である。藤井が列車の中で感じたある瞬間の「美」--それを拡大し、明確にするために「わざと」こういう書き方をしているのである。朗読して(声に出して)楽しい詩ではあるけれど、同時に目で読んでも楽しい詩である。目で読んだときの方が、「わざと」がわかりやすい楽しい詩である。
詩人は「事実」を書かない。いや、事実であるにしろ、それは「わざと」書いたものである。いろいろ調べて、書き方を工夫して書いたものである。そこに書かれているのは、実は「事実」というより、ものごとの「書き方」なのである。「書き方」そのものが詩なのである。
*
佐々木幹郎「行列」も楽しい。読んで楽しい。(初出は『気狂いフルート』1979年07月、思潮社)
行列のあたま
行列の過去を噛み
行列の口
行列の未来をとなえ
と行頭は「行列の」が延々と繰り返される。「行列」が「行列」している感じがしてくる。しかし、最後は、
行列の闇から闇まで
蛍がとびかう
と、突然、「蛍」が飛び出してきて終わる。違ったものが現れた瞬間、あ、おわった。そんなふうに安心する。その安心のなかに詩がある。書かれていることに「意味」はない。いや、あるのかもしれないけれど、私は「意味」ではなく、この唐突な終わり方、「蛍」が理由なく飛び出してくる瞬間が好きである。蛍ではなく、蚤やしらみ、こうもり、薔薇でも可能かもしれないけれど、そういうものではなく蛍を選びとってくるところ、その脈絡を超えたことばと佐々木のつながりに詩がある。そういうものに出会う瞬間の楽しさがこの詩にはある。
*
小池昌代「夕日」には声になった声と、声にならなかった声が書かれている。(初出は『永遠に来ないバス』1997年03月、思潮社)
片岡くんが会いませんかと言う
会いませんか こんど
あ、あ、あい、あいませんか、あい、あ
と言うので、はいと言った
これは声になった声である。「あ、あ、あい、あいませんか、あい、あ」が楽しい。(ただし、私の感覚では、「あ、あ、あい、あいません、あい、あ」と「か」がない方がリアルに思える。たぶん私がどもってしまうとしたら、「か」抜きでどもる。「か」まで言えたら、そのあと「あい、あ」とは言わないだろうと、私の「肉体」は主張している。) 最後には、逆に声にならなかった声がていねいに書かれている。
太陽はビルの背中をこがして
みしみし、西空へしずみかけている
約束してしまうのはもったいない気もちだ
私はしつもんをのみ込んでみている
(いつ?
(どこで?
(なにをして?
夕日
声になってしまった声と、声にならなかった声とが、詩の中で出会っている。そのことが楽しい。
そして、この詩も、実は私には読んで楽しいものである。聞いてほんとうに楽しいかどうかはわからない。最後の声にならなかった声は、朗読では声になってしまう。それはちょっとつまらない。もし読むのなら、声に出さず「口」だけ動かして、その3行を表現してほしいと私は思う。(きょうの「日記」に取り上げた映画「エレジー」でペネロペ・クルスが「アイ・ラブ・ユー」と口だけ動かして語るシーンのように。)声に出さなくても伝わる声というものが現実にはある。そういう声に出会えるというのは、とても至福である。実際に声を聞いてしまうと、その喜びはきっと消える。
私は詩の朗読はしない。また、朗読を聞くこともしない。それはたぶん、そういう「声にならない声」の美しさ、切実さ、そしてそれを耳ではなくたの器官(たとえば目)で聞く機会が消えてしまうのを残念に思うからである。
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