詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

茂田昌孝「断片・少年の四季--心の螺旋階段を降り下る--」

2009-01-24 12:31:36 | 詩(雑誌・同人誌)
茂田昌孝「断片・少年の四季--心の螺旋階段を降り下る--」(「未定」13、2008年11月01日発行)

 茂田昌孝「断片・少年の四季--心の螺旋階段を降り下る--」はタイトルの副題の「降り下る」からもわかるように、ことばが少し多い。「降りる」か「下る」で「意味」は充分伝わるのだが、「降り下る」では、なにか念押しをされたような感じがする。たぶん、念押ししたいのだと思う。そういう「念押し」は私の考えでは、少し詩から遠い。「余韻」が消えてしまうというか、読者の想像力をあまり信用していないのかな、という感じもする。しかし、その念押しこそが茂田にとっての詩なのだと思う。言ったことを、もう一歩深めて、しっかりこころに刻む--そういう行為が茂田にとっては詩なのだと思う。
 <白雲と空蝉>の後半。

--暗く碧い心の 何処か分からない底に 何とも知れぬ
他に侵食されない 煌く粒子が生じて 次第に育ち
何時しか しっかり根を下ろし きっと大人になっても 老い惚けても
消滅せずに 中心に居据わるだろう--

 「しっかり根を下ろし」の「しっかり」。茂田は、自分の考えを「しっかり」書きたい。「しっかり」書くことで、考えを「しっかり」させたいなのかもしれない。
 「しっかり」が茂田のキーワードである。思想である、と思う。「しっかり」はなくても意味は通じる。意味は通じるけれども、そう書かずにいられないもの。そのなかに、無意識の肉体、思想がある。
 この「しっかり」は<暗闇が吹き付ける雪>では、別のことばで書かれている。その二つを結びつけると「しっかり」の思想がよりわかると思う。

夜の窓辺に烈風が雪を叩き付ける 純潔の新雪が張り付き
窓を開けるように誘う 突風の荒れる暗い外の様相は窺い知れない
部屋の隅で膝を抱えて寒気を凌ぎ 宿題の笛を作る
細身の竹を削り 細工を施し 一心に笛の製作に取り組む
見事な出来映えだが 吹けど 吹けどいっこうに音は出ず
もう一度 笛に心を込めて吹く --無音のままだ だからこそ真にぼくの笛
幼い孤独は仄かな灯火となって 胸の基底に潜む種子をひっそりと温める

 4行目の「一心に」は「しっかり」と同義である。「しっかり」とは「一心に」「心を込めて」(6行目)何かをすることである。そして、その「しっかり」「一心に」「心を込めて」すのことを、茂田は「ひっそり」(最終行)とも書き換えている。言い換えている。その行為は、誰かに向けてのものではなく、茂田自身に向けての行為なのである。
 自分の中に、「胸の基底に」だけ存在していれば、それでいいのである。他人に伝わるかどうかではなく、自分がそれを大切にしていればいい。自分自身がそれを守り通すことが大切なのである。
 ここには、ほんとうに静かな思想がある。たとえて言えば「無音のまま」(6行目)の思想である。鳴らない笛をつくる思想である。それがたとえ鳴らなくても、それをつくるとき、茂田のこころの中には美しい音が鳴りつづけている。鳴る、鳴らないは他人に聞こえるかどうかであって、聞こえる聞こえないを判断基準にすれば、その笛の音は茂田にはいつでも聞こえる。

 「無音の思想」、「無音」を「しっかり」胸に刻むためのことば--そして、その詩。こういう詩は、美しい。

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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(13)中井久夫訳

2009-01-24 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
輪    リッツォス(中井久夫訳)

同じ声だ。今はもっとしゃがれてる。それがあえぎつつ彼に告げる。
「俺はここでやめて、ここからもう一度始める」。そう、いつも変わらぬ
繰り返しの輪。輪の中にあるのは
空の寝台。テーブルにランプだけが載って、
二本の手があてどなく
裏返し、表返すのを照らしている、
柔らかい黒皮の手袋のすっと長いのを二つ。



 この詩は、なんとなくエロチックな妄想をかきたてる。「声」が最初に出てくる。「しゃがれてる」「あえぎつつ」。そういう声が「「俺はここでやめて、ここからもう一度始める」と告げる。「彼に」。カヴァフィスの詩なら、完全に男色の世界になってしまうが、リッツォスの場合には、どうも違う。「彼」というのは、そこにいる誰かなのか。私には、なぜか「俺」が「俺自身」を「彼」と呼んでいるように感じられる。自分自身に「告げる」。--こういういことは、ふつうは「告げる」とは言わないかもしれない。特に「彼に、告げる」とは言わないかもしれない。
 けれど、なぜか、ここにふたりの(あるいはもっと多数の人間がいる)という感じがしない。孤独な感じがする。それは「空の寝台。テーブルにランプだけが載って、」という描写が、人気(ひとけ)を感じさせないからかもしれない。
 「俺」は「空の寝台」をみつめ、テーブルの脇で、テーブルの上のランプの明かりで手元を照らして、手袋を繰り返し繰り返し、裏返し、表に戻すという「無意味」なことをしている。何の気晴らしかわからない。けれど、そうせざるを得ない。「もう、やめよう」と思いながらも、繰り返してしまう。「ここでやめて」と言いながら、同じことを繰り返す。止めることのできない繰り返し--そこに、孤独がある。

 この詩は、その繰り返しの孤独ゆえの魅力とは別に不思議な味がある。前半は「声」、そして聴覚。そのあとランプ。視覚。そして、最後に手。触覚。感覚が次々に移っていく。その移り変わりのあり方、かわってしまってもとにもどらぬ旅の感覚が--また、孤独を、ひとりきりであることを、せつなく浮かび上がらせる。

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