岡島弘子「あまい滴」(「現代詩手帖」2008年12月号)
岡島弘子「あまい滴」の初出紙誌は『野川』(2008年07月)
詩とは、ある意味で「比喩」である。比喩とは、ここにないもの。いま、ここにないから、それにたとえることができる。そしてたとえるとき、もとのものは、いま、ここを超える。超越する。逸脱する。そういう超越、逸脱(鈴木志郎康なら、自己拡張というかもしれない)が詩である。
岡島は川の風景に身を寄せる。
書き出しの2連。この2連で、岡島は「私」と「どじょう」、「私の想い」と「どじょう」を重ね合わせている。「どじょう」は岡島ではない。だからこそ、岡島は「私」を「どじょう」にたとえることができる。岡島は川の岸に立っているのであって、泥の中にいるのではない。だからこそ、「私」を「どじょう」にたとえ、「私の心」を「泥」に、そしてその感情の奥にひそむものを「どじょう」にたとえることができる。
ことばは、そうやって動きはじめる。
「私」は「カワセミ」にかなわぬ恋をしている。その美しい姿に恋をしている。カワセミはもちろんどじょうになど恋はしない。だからこそ、この相聞はさびしい。悲しい。
この相聞を詩にしているのは、しかし、「どじょう」「カワセミ」という比喩だけではない。比喩を超越する哲学がこの詩には含まれている。
最後から2連目の「あまい滴になれる」の「なれる」。このこさとばが、この作品を骨太の詩にしている。
最初の2連での「どじょう」と「私」の関係は、「である」。「どじょうは私である」、「私の秘めた想いは泥の底のどじょうである」という関係にある。「である」とはイコールという意味でもある。
「あまい滴になれる」は、「どじょう」=「あまい滴」ではない。「カワセミ」にとっては「どじょう」は「あまい滴」であるかもしれないが、「どじょう」にとっては「どじょう」あいかわらず「どじょう」である。ここに、イコールの齟齬が生じる。その齟齬を乗り越えるために、「どじょう」は「どじょう」であることをやめて「あまい滴」に「なる」のである。自分を捨てる。自分が自分でなくなる。そういう覚悟をして誰かに接することが愛であり、恋である。恋をしているから、「どじょう」は自己を超越し(逸脱し、つまり自分を捨て去って)、「あまい滴」に「なる」ことを自分の運命として受け入れる。
最終行、
したがって、この行に隠されていることばは「である」ではない。「どじょうは 私である」というのではない。ここでは、岡島は「どじょうは 私になる」と言っているのである。言い直せば、「私は どじょうになれる」とカワセミに恋を、いや、生きているいのちのかぎりを打ち明けているのである。
岡島弘子「あまい滴」の初出紙誌は『野川』(2008年07月)
詩とは、ある意味で「比喩」である。比喩とは、ここにないもの。いま、ここにないから、それにたとえることができる。そしてたとえるとき、もとのものは、いま、ここを超える。超越する。逸脱する。そういう超越、逸脱(鈴木志郎康なら、自己拡張というかもしれない)が詩である。
岡島は川の風景に身を寄せる。
川の奥底
水底の泥に沈んでいる どしょうを
だれも知らない
心の奥処
感情の泥に沈んでいる 想いを
だれも知らないように
書き出しの2連。この2連で、岡島は「私」と「どじょう」、「私の想い」と「どじょう」を重ね合わせている。「どじょう」は岡島ではない。だからこそ、岡島は「私」を「どじょう」にたとえることができる。岡島は川の岸に立っているのであって、泥の中にいるのではない。だからこそ、「私」を「どじょう」にたとえ、「私の心」を「泥」に、そしてその感情の奥にひそむものを「どじょう」にたとえることができる。
ことばは、そうやって動きはじめる。
川面につき出た枝先に
さっきから止まっているカワセミの
光をあつめた青に射すくめられ
うごけない
空のへり
水の表面
大地のふちに君臨する
ひすいのブローチに留められてしまったから
空のぬいしろに
川面をかがりつけ運針するように飛翔する
カワセミの針に縫い込められてしまったから
うっとりと捕らわれたままのどじょうの上を
川は歳月のように流れ去った
そんなどじょうでも
飛翔するときがくる
最初で最後の旅
くちばしにくわえられて
宙を舞って
カワセミのかわいたのどをうるおし
ごくりとのみこまれる一瞬だけ
あまい滴になれる
そして 忘れ去られる
どじょうは 私
「私」は「カワセミ」にかなわぬ恋をしている。その美しい姿に恋をしている。カワセミはもちろんどじょうになど恋はしない。だからこそ、この相聞はさびしい。悲しい。
この相聞を詩にしているのは、しかし、「どじょう」「カワセミ」という比喩だけではない。比喩を超越する哲学がこの詩には含まれている。
最後から2連目の「あまい滴になれる」の「なれる」。このこさとばが、この作品を骨太の詩にしている。
最初の2連での「どじょう」と「私」の関係は、「である」。「どじょうは私である」、「私の秘めた想いは泥の底のどじょうである」という関係にある。「である」とはイコールという意味でもある。
「あまい滴になれる」は、「どじょう」=「あまい滴」ではない。「カワセミ」にとっては「どじょう」は「あまい滴」であるかもしれないが、「どじょう」にとっては「どじょう」あいかわらず「どじょう」である。ここに、イコールの齟齬が生じる。その齟齬を乗り越えるために、「どじょう」は「どじょう」であることをやめて「あまい滴」に「なる」のである。自分を捨てる。自分が自分でなくなる。そういう覚悟をして誰かに接することが愛であり、恋である。恋をしているから、「どじょう」は自己を超越し(逸脱し、つまり自分を捨て去って)、「あまい滴」に「なる」ことを自分の運命として受け入れる。
最終行、
どじょうは 私
したがって、この行に隠されていることばは「である」ではない。「どじょうは 私である」というのではない。ここでは、岡島は「どじょうは 私になる」と言っているのである。言い直せば、「私は どじょうになれる」とカワセミに恋を、いや、生きているいのちのかぎりを打ち明けているのである。
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