詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡島弘子「あまい滴」

2009-01-02 13:20:55 | 詩集
岡島弘子「あまい滴」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 岡島弘子「あまい滴」の初出紙誌は『野川』(2008年07月)

 詩とは、ある意味で「比喩」である。比喩とは、ここにないもの。いま、ここにないから、それにたとえることができる。そしてたとえるとき、もとのものは、いま、ここを超える。超越する。逸脱する。そういう超越、逸脱(鈴木志郎康なら、自己拡張というかもしれない)が詩である。
 岡島は川の風景に身を寄せる。

川の奥底
水底の泥に沈んでいる どしょうを
だれも知らない

心の奥処
感情の泥に沈んでいる 想いを
だれも知らないように

 書き出しの2連。この2連で、岡島は「私」と「どじょう」、「私の想い」と「どじょう」を重ね合わせている。「どじょう」は岡島ではない。だからこそ、岡島は「私」を「どじょう」にたとえることができる。岡島は川の岸に立っているのであって、泥の中にいるのではない。だからこそ、「私」を「どじょう」にたとえ、「私の心」を「泥」に、そしてその感情の奥にひそむものを「どじょう」にたとえることができる。
 ことばは、そうやって動きはじめる。

川面につき出た枝先に
さっきから止まっているカワセミの
光をあつめた青に射すくめられ
うごけない

空のへり
水の表面
大地のふちに君臨する
ひすいのブローチに留められてしまったから

空のぬいしろに
川面をかがりつけ運針するように飛翔する
カワセミの針に縫い込められてしまったから

うっとりと捕らわれたままのどじょうの上を
川は歳月のように流れ去った

そんなどじょうでも
飛翔するときがくる
最初で最後の旅
くちばしにくわえられて
宙を舞って

カワセミのかわいたのどをうるおし
ごくりとのみこまれる一瞬だけ
あまい滴になれる

そして 忘れ去られる
どじょうは 私

 「私」は「カワセミ」にかなわぬ恋をしている。その美しい姿に恋をしている。カワセミはもちろんどじょうになど恋はしない。だからこそ、この相聞はさびしい。悲しい。
 この相聞を詩にしているのは、しかし、「どじょう」「カワセミ」という比喩だけではない。比喩を超越する哲学がこの詩には含まれている。
 最後から2連目の「あまい滴になれる」の「なれる」。このこさとばが、この作品を骨太の詩にしている。
 最初の2連での「どじょう」と「私」の関係は、「である」。「どじょうは私である」、「私の秘めた想いは泥の底のどじょうである」という関係にある。「である」とはイコールという意味でもある。
 「あまい滴になれる」は、「どじょう」=「あまい滴」ではない。「カワセミ」にとっては「どじょう」は「あまい滴」であるかもしれないが、「どじょう」にとっては「どじょう」あいかわらず「どじょう」である。ここに、イコールの齟齬が生じる。その齟齬を乗り越えるために、「どじょう」は「どじょう」であることをやめて「あまい滴」に「なる」のである。自分を捨てる。自分が自分でなくなる。そういう覚悟をして誰かに接することが愛であり、恋である。恋をしているから、「どじょう」は自己を超越し(逸脱し、つまり自分を捨て去って)、「あまい滴」に「なる」ことを自分の運命として受け入れる。
 最終行、

どじょうは 私

 したがって、この行に隠されていることばは「である」ではない。「どじょうは 私である」というのではない。ここでは、岡島は「どじょうは 私になる」と言っているのである。言い直せば、「私は どじょうになれる」とカワセミに恋を、いや、生きているいのちのかぎりを打ち明けているのである。





野川
岡島 弘子
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「反復(1968)」より(4)中井久夫訳

2009-01-02 12:47:44 | リッツォス(中井久夫訳)
新しい踊り    リッツォス(中井久夫訳)

弁解だけではありません。ほんものの動機です。そして結果。
情熱と興味。危険と恐怖。パシファエです。ミノタロウスです。
迷路です。アリアドネーです。アエアドネーの美しいエロス的な糸は
ほどけていって石の暗黒の中を導いたのです。こうしてテセウスは凱旋したのです。
テセウスはデーロス島に足を留めて、ケラトンをまわって踊ったのです。
アテネから一緒に行った若者らとともに。ケラトンは角だけで出来た有名な祭壇です。
脚を交差させるふしぎな踊りです。これを繰り返したのです。
強い昼の光の中でも、迷路の暗い曲がり角ごとにも、そしておそらく--
鳥も蝉も近くの松林であんなにやかましいのにどうして迷路からでられないってことがあ
   るのでしょう?--
太陽と一面に照り輝く海に目まいがしたでしょう。
海はきらきらしい玻璃の粉です。裸の身体の目くるめく動きです。
ふしぎな踊りです。私たちは皆忘れました、
ミノスタウロスも、パシファエも、迷路も、ナクソクの島で孤独の中で死に行く哀れなア
   リアドネーも。
けれど、踊りだけは国中にすぐに広まり、私たちもまだ踊っているのです。
あれ以来です。棕櫚の輪飾りがデーロス同盟の裸体競技でずっと授けられています。



 ギリシアの神話、歴史に私はうとい。ここに登場する固有名詞もなじみがない。けれど、踊りの熱狂が伝わってくる。特に、次の3行。


鳥も蝉も近くの松林であんなにやかましいのにどうして迷路からでられないってことがあ
   るのでしょう?--
太陽と一面に照り輝く海に目まいがしたでしょう。
海はきらきらしい玻璃の粉です。裸の身体の目くるめく動きです。

 迷路から出られないのは、踊りに引き込まれるからである。その熱狂は、鳥も蝉も、そして遠くにある太陽も、海も、海のその玻璃の輝きも踊りの中に引き込んでしまう。裸体の中に引き込んでしまう。
 踊る裸体--その純粋な美しさが何もかもを引き込む。踊りという迷路に引き込む。これはダンス讃歌である。
 中井の訳は「ですます」調で、いつもの訳とは違ったリズムをつくりだしている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする