詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

セドリック・クラピッシュ監督「PARIS(パリ)」(★)

2009-01-07 11:59:55 | 映画
監督 セドリック・クラピッシュ 出演 ジュリエット・ビノシュ、ロマン・デュリス、ファブリス・ルキーニ

 パリに生きる多様な人間群像--と書いてしまうと、それでおしまいの映画である。ダンサー、社会福祉士(?)、大学教授、建築家、市場店員、学生、不法入国の移民……。そういう人々の暮らしがパリの風景とともに描かれる。
 このパリが意外とつまらない。理由は簡単である。映像ではなく、ことばですべてを「説明」するからである。大学教授が講義で語っている。「パリは昔から古いものを破壊しながら新しいものをつくりつづけてきた。古いものと新しいものが共存しながら多様性をつくりだしてきた。」--こういうことは、ことばで語るのではなく、映像で実感させなければ映画にならない。ことばで納得するなら、本を読めばいい。本にすればいい。映画、活動写真にする必要はない。
 思うに、フランスというのはイギリス以上に「ことばの国」なのだ。すべてを語られたことばで理解しようとする。これは逆に言えば、語られないことは存在しないことになる。
 象徴的なシーンがいくつもあるが、そのうちのふたつ。
 一つは、ジュリエット・ビノシュの弟が「心臓病で死ぬ。助かる方法は移植だけだ」と打ち明ける。それに対して、ジュリエット・ビノシュは「なぜ今まで隠していたんだ」と責める。弟は、「自分が死ぬというのに、なぜ、責めるんだ」と抗議する。これは、ことばにしていないものを察知しようとしないのはなぜ、という抗議である。どうして自分のことばかり中心にしてことばを発するのか、という抗議である。フランス人は、自己防御のためにことばをつかうのである。そして、そのつかったことば、発せられたことばだけが、こころなのである。弟に対して怒ったジュリエット・ビノシュにしても、それはほんとうの怒りではない。弟のことが心配で、なぜ、そんなになるまで、という気持ちが彼女のことばの中にはあるのだが、そういう気持ちがそのままことばになっていないから、弟は「自分のことを中心に考えて」と不満をぶつける。この、ことばの行き違い。行き違うことでしか分かり合えない複雑さ……。
 これに関連して、弟の病気をジュリエット・ビノシュの子どもにどう説明するか、という場面もある。病気のことを聞かされ、幼い男の子は「なぜ、ぼくらにそんなことを離すの?」と聞く。これは、「そういうことを知っていないといけないのか、知ることによって何か責任が生まれるのか」という抗議と同じである。すべてをことばとして理解する必要がある、とフランス人は考えるのだと思う。
 もうひとつ。ジュリエット・ビノシュが心臓病で死ぬかもしれない弟の介護をするために働く時間を短縮したいと仲間に訴える。「理由」を伏せたまま、ただ「自分の時間が必要だ」とのみ語って。そのとき同僚は、だれひとりとしてジュリエット・ビノシュの「思い」を想像しようとはしない。「自分の時間って何? 私だってほしい」。人が何かを依頼するとき、そこには理由があるということを想像しないわけではないだろうけれど、ことばで説明されないかぎり、そういうものが存在するということを認めない、という頑固さがフランス人にはあるように思える。
 これがイギリスの映画だと、逆に、ジュリエット・ビノシュの事情をみんなが知っていて、しかし、ジュリエット・ビノシュが何も言わないので、その知っていることを知らなかったことにする、という感じになる。
 知っているけど知らない、というのがイギリス人の「個人主義」というか、プライバシーの尊重のしかたであり、知らせてもらわないかぎりいっさい知る必要はないし、知らないことのために自分が犠牲になるのはいや、というのがフランス人である。(知ってしまえば、たとえば「ディスコ」の主人公が、イギリスにいる息子とオーストラリアに旅行したいと願っていると知ってしまえば、自分の利益にならなくてもいっしょにダンス大会に出てしまう、という「人情」もフランス人である。「秘密」というか「こころのなか」をきちんとことばで知らせあっているかどうかが、フランス人の「友情」「人情」の出発点になるのだ。)
 そうしたフランス人気質の観察(?)には手頃な映画かもしれないが、それがすべてことば絡みで描かれると、うんざりしてしまう。
 そして何よりもいやだなあ、と思うのは、この映画はストーリーを死んでしまうかもしれないダンサー(ジュリエット・ビノシュの弟)を狂言回しにつかっていることである。心臓が悪い。生きる望みは心臓移植しかない。そういう人間が登場すれば、観客はどうしても死んで行く人間に同情してストーリーを追ってしまう。最初から観客の同情をあてこんだストーリーというのは気持ちがいいものではない。なんだかわからないけれど、つい、その映像にのみこまれ、気がついたらストーリーのなかにいた。主人公と、しらないうちに一体化していた--そういう映画でないと、私はなんだか気持ちが悪くなる。



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岡井隆「牛と共に年を越える」

2009-01-07 08:58:00 | 詩(雑誌・同人誌)
岡井隆「牛と共に年を越える」(「現代詩手帖」2009年01月号)

 岡井隆の作品を読むと、いつも「おとな」ということばを思う。たとえば、きのう感想を書いた辻井喬の作品。そこでは、私は「思春期の少年」を感じた。岡井のことばの運動からは、そういうものを感じない。ゆるぎない「おとな」を感じる。
 「牛と共に年を越える」の書き出し。

鴎外全集を奥へ移し植ゑたりやうやく出来た自分の本を平積みにしたり本林勝夫(斎藤茂吉研究の先達)の詩を悼んだり新旧二鉢のポインセチアをベランダから部屋へ入れたりだしたりする妻を見たり見なかつたりする織物みたいな水みたいな複数の時間それを透視したりしなかつたりしろがら新しい年を呼び込まうとしてゐた
 
 2009年のエトが「丑」であることを頭のなかに思い浮かべながら、2008年の年末、あれこれしている「暮らし」を描いている。そして、こんなにいろんなことを「したりしなかつたり」しているのに、岡井は少しも変化しない。「鹿」になったりはしないし、「妻」を「兎」や「鷲」のようにも考えず、「妻」は「妻」、「岡井」は「岡井」なのである。そして、岡井は変化はしないけれど、状況(現実)の方は変化しているから、岡井のことばはどうしたって、その現実の変化にあわせて動いていく。ことばは動いていくが、岡井はおなじところにとどまっている。不動である。
 途中省略して、最後の部分。

昔は荷を負つた牛が坂の途中に行きなづんだこの国では少年の頃のペットの非業の死を遠くまでひきずつたあげく人をあやめて留置されて越年する青年がゐる そんなあかつきの冷気に耐へながら木下杢太郎全集を鴎外全集の蔭に置かうかどうか迷ひつつタトヘバヴィルヘルム・ハンマースホイのなにもなくて妻だけのゐる室内の絵にいたく感動して帰つて来たもののまだ越年には数日かかるのだ

 ことばを書いているうちに、書いている本人そのものが、書く前の自分とは違った存在になる--というのが、たぶん「文学」のおもしろさ、詩のおもしろさなのだと定義できる。そういう定義からすると、岡井の作品は「文学」ではなく、辻井のような作品の方が「文学」ということになるのだけれど。
 なぜか、私には、岡井の作品の方が、辻井の作品よりはるかにおもしろい。読みはじめるとやめられない。
 岡井自身がかわらないのに、なぜおもしろいのか。
 先に書いたことと重複するが、状況の変化によって、岡井のことばが、きちんと(?)動いていかないからである。状況にひっぱられて、書くつもりがなかったこと(たとえば、ペットを処分されたことを恨んで殺人を犯した青年)を書いてしまう。状況に誘われるままに、ことばが動いていくからである。そして、そのときのことばが、不思議と不動のものを感じさせるからである。不動というと少し語弊があるかもしれないけれど、歴史というか、「文化の蓄積」を感じさせるからである。たとえば「あやめて」。殺人(殺害)と書かずに、岡井は「あやめて」と書いている。もちろん「あやめて」に日常でつかわないことはないけれど、普通の人は(とくに殺人事件のようなときには)「あやめて」ということばをつかわない。
 そういうことばが作品のなかに出てくると、「いま」という「時間」が、「いまではない時間」(たとえば「過去」)と連結し、あ、すべてはこうやって歴史になっていく、という気がしてくるのである。その「歴史になっていく」という感じが、何かに「固定されていく」という感じが、「不動」の感じと重なり合う。岡井がつかっている「旧かな」も、そういう働きをしているかもしれない。
 そして、そんなふうに「いま」が「いまではない時間」と結びつくことで、「いま」が「ひとつの時間」ではなく、「複数の時間」に見えてくる。(「複数の時間」は、最初に引用した部分にでてきていた。--たぶん、岡井のキーワードは「複数の時間」である。)「いま」生きている時間には、それぞれ「根っこ」がある、人間はその「根っこ」から派生するものを繰り返している、という気持ちになる。
 たしかに人間は、「ひとつの時間」ではなく、いくつもの時間を同時に生きている。そして、その時間のどれもが、「いま」「私」がやっていることなのに、かならずすでに誰かがやっていしまっている「時間」なのである。新しいようにみえても、それはすでに存在した「時間」なのである。
 岡井は、そういう「存在した」ことのある「複数の時間」を次々に岡井のなかから噴出させる。岡井の「肉体」のなかから噴出させる。「肉体」なかから、というのは、「過去」の「文学」のいくつもの時間が、岡井の肉体にしみついているからである。そういものが「存在した」ということを岡井は「肉体」として知っている。斎藤茂吉も万葉集も、「本」を取り出さなくても、次々に「そら」で結びつくのである。
 そんなふうに、自分は動かず、自分のなかにある「複数の時間(歴史)」をぱっぱっと噴出させて、状況をわたってゆく。そのことばのさばきに「おとな」を私は感じる。あ、「おとな」はこんなに沢山の時間を生きている。ひとつの時間にしばられず「複数の時間」を生きて、けっしてゆるがない。すごいなあ、と感動するのである。


限られた時のための四十四の機会詩 他
岡井 隆
思潮社

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リッツォス「棚(1969)」より(3)中井久夫訳

2009-01-07 00:00:19 | リッツォス(中井久夫訳)
これとこれとこれ    リッツォス(中井久夫訳)

夜。巨大なトラック。高速道路を高速で。
積み荷がガスマスク。バラ線のドラムだ。
明け方、石造りの建物の下で彼等はバイクにエンジンをかける。
蒼ざめた男が一人。赤いチュニクを着て屋根に登り、
閉じた窓々を眺め、丘のたわなりを眺め、痩せた指で指さしつつ、
ずっと前から使われていない箱小屋の孔の数を一つ一つ数えている。



 リッツォスの特徴があらわれた作品だ。「説明」ぬきの描写。この場合、「説明」とは「物語」と同じ意味である。どんなことがらも、それぞれに時間を持っている。時間とともに「物語」を持っている。あらゆるものは、ある意味で「物語」を持っている。
 高速道路を走るトラックはどこへ向かっているか。なぜガスマスクを積んでいるか--そこからたとえば内戦の一つの作戦が浮かび上がるかもしれない。「高速道路を高速で。」とわざわざ書いてあるのは、それが普通の高速ではなく、規制速度をオーバーしての「高速」という「意味」だろうから、そこからも何かが暗示されるだろう。
 リッツォスは、そういう暗示を最小限に抑える。「説明」を拒絶する。
 そして、「もの」に「もの」を、「描写」に「描写」を対比させる。俳句の、異質なものを二つ取り合わせ、その一期一会の瞬間に、世界が遠心・求心によって切り開かれる瞬間をつくりだす。
 この詩では、不気味な「巨大なトラック」、それに対して小さな「バイク」。「夜」に対して「明け方」。「蒼」に対して「赤」。「閉じた窓」に対して「丘のたわなり」の広がり。そういう何か波瀾を含んだ対比の世界全体(聖)に対して、「鳩小屋の孔」という「無意味」な「俗」。
 「聖」と「俗」をぶつけることで、世界を解放しようとしている。「意味」から解放しようとしている。
 リッツォスは、その解放感のなかに、詩を感じているのだ。

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