監督 セドリック・クラピッシュ 出演 ジュリエット・ビノシュ、ロマン・デュリス、ファブリス・ルキーニ
パリに生きる多様な人間群像--と書いてしまうと、それでおしまいの映画である。ダンサー、社会福祉士(?)、大学教授、建築家、市場店員、学生、不法入国の移民……。そういう人々の暮らしがパリの風景とともに描かれる。
このパリが意外とつまらない。理由は簡単である。映像ではなく、ことばですべてを「説明」するからである。大学教授が講義で語っている。「パリは昔から古いものを破壊しながら新しいものをつくりつづけてきた。古いものと新しいものが共存しながら多様性をつくりだしてきた。」--こういうことは、ことばで語るのではなく、映像で実感させなければ映画にならない。ことばで納得するなら、本を読めばいい。本にすればいい。映画、活動写真にする必要はない。
思うに、フランスというのはイギリス以上に「ことばの国」なのだ。すべてを語られたことばで理解しようとする。これは逆に言えば、語られないことは存在しないことになる。
象徴的なシーンがいくつもあるが、そのうちのふたつ。
一つは、ジュリエット・ビノシュの弟が「心臓病で死ぬ。助かる方法は移植だけだ」と打ち明ける。それに対して、ジュリエット・ビノシュは「なぜ今まで隠していたんだ」と責める。弟は、「自分が死ぬというのに、なぜ、責めるんだ」と抗議する。これは、ことばにしていないものを察知しようとしないのはなぜ、という抗議である。どうして自分のことばかり中心にしてことばを発するのか、という抗議である。フランス人は、自己防御のためにことばをつかうのである。そして、そのつかったことば、発せられたことばだけが、こころなのである。弟に対して怒ったジュリエット・ビノシュにしても、それはほんとうの怒りではない。弟のことが心配で、なぜ、そんなになるまで、という気持ちが彼女のことばの中にはあるのだが、そういう気持ちがそのままことばになっていないから、弟は「自分のことを中心に考えて」と不満をぶつける。この、ことばの行き違い。行き違うことでしか分かり合えない複雑さ……。
これに関連して、弟の病気をジュリエット・ビノシュの子どもにどう説明するか、という場面もある。病気のことを聞かされ、幼い男の子は「なぜ、ぼくらにそんなことを離すの?」と聞く。これは、「そういうことを知っていないといけないのか、知ることによって何か責任が生まれるのか」という抗議と同じである。すべてをことばとして理解する必要がある、とフランス人は考えるのだと思う。
もうひとつ。ジュリエット・ビノシュが心臓病で死ぬかもしれない弟の介護をするために働く時間を短縮したいと仲間に訴える。「理由」を伏せたまま、ただ「自分の時間が必要だ」とのみ語って。そのとき同僚は、だれひとりとしてジュリエット・ビノシュの「思い」を想像しようとはしない。「自分の時間って何? 私だってほしい」。人が何かを依頼するとき、そこには理由があるということを想像しないわけではないだろうけれど、ことばで説明されないかぎり、そういうものが存在するということを認めない、という頑固さがフランス人にはあるように思える。
これがイギリスの映画だと、逆に、ジュリエット・ビノシュの事情をみんなが知っていて、しかし、ジュリエット・ビノシュが何も言わないので、その知っていることを知らなかったことにする、という感じになる。
知っているけど知らない、というのがイギリス人の「個人主義」というか、プライバシーの尊重のしかたであり、知らせてもらわないかぎりいっさい知る必要はないし、知らないことのために自分が犠牲になるのはいや、というのがフランス人である。(知ってしまえば、たとえば「ディスコ」の主人公が、イギリスにいる息子とオーストラリアに旅行したいと願っていると知ってしまえば、自分の利益にならなくてもいっしょにダンス大会に出てしまう、という「人情」もフランス人である。「秘密」というか「こころのなか」をきちんとことばで知らせあっているかどうかが、フランス人の「友情」「人情」の出発点になるのだ。)
そうしたフランス人気質の観察(?)には手頃な映画かもしれないが、それがすべてことば絡みで描かれると、うんざりしてしまう。
そして何よりもいやだなあ、と思うのは、この映画はストーリーを死んでしまうかもしれないダンサー(ジュリエット・ビノシュの弟)を狂言回しにつかっていることである。心臓が悪い。生きる望みは心臓移植しかない。そういう人間が登場すれば、観客はどうしても死んで行く人間に同情してストーリーを追ってしまう。最初から観客の同情をあてこんだストーリーというのは気持ちがいいものではない。なんだかわからないけれど、つい、その映像にのみこまれ、気がついたらストーリーのなかにいた。主人公と、しらないうちに一体化していた--そういう映画でないと、私はなんだか気持ちが悪くなる。
パリに生きる多様な人間群像--と書いてしまうと、それでおしまいの映画である。ダンサー、社会福祉士(?)、大学教授、建築家、市場店員、学生、不法入国の移民……。そういう人々の暮らしがパリの風景とともに描かれる。
このパリが意外とつまらない。理由は簡単である。映像ではなく、ことばですべてを「説明」するからである。大学教授が講義で語っている。「パリは昔から古いものを破壊しながら新しいものをつくりつづけてきた。古いものと新しいものが共存しながら多様性をつくりだしてきた。」--こういうことは、ことばで語るのではなく、映像で実感させなければ映画にならない。ことばで納得するなら、本を読めばいい。本にすればいい。映画、活動写真にする必要はない。
思うに、フランスというのはイギリス以上に「ことばの国」なのだ。すべてを語られたことばで理解しようとする。これは逆に言えば、語られないことは存在しないことになる。
象徴的なシーンがいくつもあるが、そのうちのふたつ。
一つは、ジュリエット・ビノシュの弟が「心臓病で死ぬ。助かる方法は移植だけだ」と打ち明ける。それに対して、ジュリエット・ビノシュは「なぜ今まで隠していたんだ」と責める。弟は、「自分が死ぬというのに、なぜ、責めるんだ」と抗議する。これは、ことばにしていないものを察知しようとしないのはなぜ、という抗議である。どうして自分のことばかり中心にしてことばを発するのか、という抗議である。フランス人は、自己防御のためにことばをつかうのである。そして、そのつかったことば、発せられたことばだけが、こころなのである。弟に対して怒ったジュリエット・ビノシュにしても、それはほんとうの怒りではない。弟のことが心配で、なぜ、そんなになるまで、という気持ちが彼女のことばの中にはあるのだが、そういう気持ちがそのままことばになっていないから、弟は「自分のことを中心に考えて」と不満をぶつける。この、ことばの行き違い。行き違うことでしか分かり合えない複雑さ……。
これに関連して、弟の病気をジュリエット・ビノシュの子どもにどう説明するか、という場面もある。病気のことを聞かされ、幼い男の子は「なぜ、ぼくらにそんなことを離すの?」と聞く。これは、「そういうことを知っていないといけないのか、知ることによって何か責任が生まれるのか」という抗議と同じである。すべてをことばとして理解する必要がある、とフランス人は考えるのだと思う。
もうひとつ。ジュリエット・ビノシュが心臓病で死ぬかもしれない弟の介護をするために働く時間を短縮したいと仲間に訴える。「理由」を伏せたまま、ただ「自分の時間が必要だ」とのみ語って。そのとき同僚は、だれひとりとしてジュリエット・ビノシュの「思い」を想像しようとはしない。「自分の時間って何? 私だってほしい」。人が何かを依頼するとき、そこには理由があるということを想像しないわけではないだろうけれど、ことばで説明されないかぎり、そういうものが存在するということを認めない、という頑固さがフランス人にはあるように思える。
これがイギリスの映画だと、逆に、ジュリエット・ビノシュの事情をみんなが知っていて、しかし、ジュリエット・ビノシュが何も言わないので、その知っていることを知らなかったことにする、という感じになる。
知っているけど知らない、というのがイギリス人の「個人主義」というか、プライバシーの尊重のしかたであり、知らせてもらわないかぎりいっさい知る必要はないし、知らないことのために自分が犠牲になるのはいや、というのがフランス人である。(知ってしまえば、たとえば「ディスコ」の主人公が、イギリスにいる息子とオーストラリアに旅行したいと願っていると知ってしまえば、自分の利益にならなくてもいっしょにダンス大会に出てしまう、という「人情」もフランス人である。「秘密」というか「こころのなか」をきちんとことばで知らせあっているかどうかが、フランス人の「友情」「人情」の出発点になるのだ。)
そうしたフランス人気質の観察(?)には手頃な映画かもしれないが、それがすべてことば絡みで描かれると、うんざりしてしまう。
そして何よりもいやだなあ、と思うのは、この映画はストーリーを死んでしまうかもしれないダンサー(ジュリエット・ビノシュの弟)を狂言回しにつかっていることである。心臓が悪い。生きる望みは心臓移植しかない。そういう人間が登場すれば、観客はどうしても死んで行く人間に同情してストーリーを追ってしまう。最初から観客の同情をあてこんだストーリーというのは気持ちがいいものではない。なんだかわからないけれど、つい、その映像にのみこまれ、気がついたらストーリーのなかにいた。主人公と、しらないうちに一体化していた--そういう映画でないと、私はなんだか気持ちが悪くなる。
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