監督 ジェームズ・グレイ 出演 ホアキン・フェニックス、マーク・ウォールバーグ、エヴァ・メンデス、ロバート・デュヴァル
ロバート・デュヴァル、マーク・ウォールバーグ、ホアキン・フェニックスという組み合わせにひかれて見に行ったのだが、無残な映画である。組み合わせだけで、おもしろそうでしょ?
でも、無残だった。
麻薬組織の中に警官一家の末っ子がやくざな仕事をしている。父と兄はその末っ子を利用して麻薬組織を摘発しようとする。だが、末っ子の身元がばれて、悲劇が起こる。兄が銃撃され、父は死ぬ。その悲劇をきっかけにやくざな末っ子が復讐に立ち上がる。なんだか、二番煎じ、三番煎じみたいなストーリーだ。映画にとってストーリーは付随的なものだから、どんなものであってもかまわないと思うけれど……。
この映画がつまらないのは、映像が「写真」である。簡単に言うと動かない。ひとが動いても(演技しても)、そのことによって映像が深まらない。ものが動いても、それによって映像が深まらない。
最初の見せ場。末っ子が殺し屋からのがれてホテルを移動する。父の車と別の車が護衛にあたっている。そこを殺し屋が襲ってくる。土砂降り。その雨が活かされていない。きれのある映像が撮影できないので、雨で全体を見えにくくして、ごまかしているだけである。
最後の見せ場。殺し屋を湖の葦原に追いつめる。火を放って、あぶりだそうとする。でも、待ちきれずにホアキン・フェニックスが煙の中は入っていく。殺し屋を追いつめる。このシーンも先の雨のシーンと同じく、せっかくの火と煙が緊張感を高めるというよりは、映像の細部をごまかすための手段になっている。まったくおもしろくない。
雨も炎も煙も「もの」ではなく、説明になってしまっているからだ。映画は「説明」はいらない。ただ映像を「情報」として見せればいい。情報があふれかえって、観客がどう判断していいかわからなくなってしまってもいいのである。いちいち「説明」されると、何かを判断しなければならないという、切羽詰まった緊張感が消えてしまう。
クライマックスというか、見せ所のシーンがそれだから、ほかは批判するのも面倒になる。いちばん観客がどきどきしていいはずのシーンだけ、批判しておく。
ホアキン・フェニックスが麻薬工場にもぐりこむとき、隠しマイクを持っているのだが、それが敵(?)に見つかるシーンなど、笑い話である。ポケットからマッチとライターが出てくる。このとき、観客は誰だって、「なぜライターを持っている人間がマッチをもっている?」と思う。それを、わざわざ麻薬組織のボスがホアキン・フェニックスに問いかける。そのあとで、ライターを分解して隠しマイクを発見する。小説ではないのだから、こういうことを「ことば」で説明しては映画にならない。そんなことをいちいちことばで問い詰めるやくざがいるとしたら、それは場数を踏んでいないやくざであって、そんな人間が麻薬組織を動かせるわけがない。
すべてが説明過剰だから、映像が間延びしてしまう。「ことば」の情報量は、映像の情報量に比べてとても少ない、ということをこの監督は知らないようである。少ない情報で多いはずの情報を説明しようとするから、映画にスピードがなくなるのである。ことばは少なくなればなるほど、映像は緊迫感が出てくる。雨の中の車を走らせながらの銃撃も、「伏せろ」だとか「大丈夫か」などという必要はないし、燃える葦原へホアキン・フェニックスが入っていくシーンでも「どこへ行くんだ、やめろ」というような間延びしたことばはいらない。
あくびをかみ殺すのに苦労する映画である。
ロバート・デュヴァル、マーク・ウォールバーグ、ホアキン・フェニックスという組み合わせにひかれて見に行ったのだが、無残な映画である。組み合わせだけで、おもしろそうでしょ?
でも、無残だった。
麻薬組織の中に警官一家の末っ子がやくざな仕事をしている。父と兄はその末っ子を利用して麻薬組織を摘発しようとする。だが、末っ子の身元がばれて、悲劇が起こる。兄が銃撃され、父は死ぬ。その悲劇をきっかけにやくざな末っ子が復讐に立ち上がる。なんだか、二番煎じ、三番煎じみたいなストーリーだ。映画にとってストーリーは付随的なものだから、どんなものであってもかまわないと思うけれど……。
この映画がつまらないのは、映像が「写真」である。簡単に言うと動かない。ひとが動いても(演技しても)、そのことによって映像が深まらない。ものが動いても、それによって映像が深まらない。
最初の見せ場。末っ子が殺し屋からのがれてホテルを移動する。父の車と別の車が護衛にあたっている。そこを殺し屋が襲ってくる。土砂降り。その雨が活かされていない。きれのある映像が撮影できないので、雨で全体を見えにくくして、ごまかしているだけである。
最後の見せ場。殺し屋を湖の葦原に追いつめる。火を放って、あぶりだそうとする。でも、待ちきれずにホアキン・フェニックスが煙の中は入っていく。殺し屋を追いつめる。このシーンも先の雨のシーンと同じく、せっかくの火と煙が緊張感を高めるというよりは、映像の細部をごまかすための手段になっている。まったくおもしろくない。
雨も炎も煙も「もの」ではなく、説明になってしまっているからだ。映画は「説明」はいらない。ただ映像を「情報」として見せればいい。情報があふれかえって、観客がどう判断していいかわからなくなってしまってもいいのである。いちいち「説明」されると、何かを判断しなければならないという、切羽詰まった緊張感が消えてしまう。
クライマックスというか、見せ所のシーンがそれだから、ほかは批判するのも面倒になる。いちばん観客がどきどきしていいはずのシーンだけ、批判しておく。
ホアキン・フェニックスが麻薬工場にもぐりこむとき、隠しマイクを持っているのだが、それが敵(?)に見つかるシーンなど、笑い話である。ポケットからマッチとライターが出てくる。このとき、観客は誰だって、「なぜライターを持っている人間がマッチをもっている?」と思う。それを、わざわざ麻薬組織のボスがホアキン・フェニックスに問いかける。そのあとで、ライターを分解して隠しマイクを発見する。小説ではないのだから、こういうことを「ことば」で説明しては映画にならない。そんなことをいちいちことばで問い詰めるやくざがいるとしたら、それは場数を踏んでいないやくざであって、そんな人間が麻薬組織を動かせるわけがない。
すべてが説明過剰だから、映像が間延びしてしまう。「ことば」の情報量は、映像の情報量に比べてとても少ない、ということをこの監督は知らないようである。少ない情報で多いはずの情報を説明しようとするから、映画にスピードがなくなるのである。ことばは少なくなればなるほど、映像は緊迫感が出てくる。雨の中の車を走らせながらの銃撃も、「伏せろ」だとか「大丈夫か」などという必要はないし、燃える葦原へホアキン・フェニックスが入っていくシーンでも「どこへ行くんだ、やめろ」というような間延びしたことばはいらない。
あくびをかみ殺すのに苦労する映画である。