詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジェームズ・グレイ監督「アンダーカヴァー」(★)

2009-01-23 14:20:01 | 映画
監督 ジェームズ・グレイ 出演 ホアキン・フェニックス、マーク・ウォールバーグ、エヴァ・メンデス、ロバート・デュヴァル

 ロバート・デュヴァル、マーク・ウォールバーグ、ホアキン・フェニックスという組み合わせにひかれて見に行ったのだが、無残な映画である。組み合わせだけで、おもしろそうでしょ?
 でも、無残だった。
 麻薬組織の中に警官一家の末っ子がやくざな仕事をしている。父と兄はその末っ子を利用して麻薬組織を摘発しようとする。だが、末っ子の身元がばれて、悲劇が起こる。兄が銃撃され、父は死ぬ。その悲劇をきっかけにやくざな末っ子が復讐に立ち上がる。なんだか、二番煎じ、三番煎じみたいなストーリーだ。映画にとってストーリーは付随的なものだから、どんなものであってもかまわないと思うけれど……。
 この映画がつまらないのは、映像が「写真」である。簡単に言うと動かない。ひとが動いても(演技しても)、そのことによって映像が深まらない。ものが動いても、それによって映像が深まらない。
 最初の見せ場。末っ子が殺し屋からのがれてホテルを移動する。父の車と別の車が護衛にあたっている。そこを殺し屋が襲ってくる。土砂降り。その雨が活かされていない。きれのある映像が撮影できないので、雨で全体を見えにくくして、ごまかしているだけである。
 最後の見せ場。殺し屋を湖の葦原に追いつめる。火を放って、あぶりだそうとする。でも、待ちきれずにホアキン・フェニックスが煙の中は入っていく。殺し屋を追いつめる。このシーンも先の雨のシーンと同じく、せっかくの火と煙が緊張感を高めるというよりは、映像の細部をごまかすための手段になっている。まったくおもしろくない。
 雨も炎も煙も「もの」ではなく、説明になってしまっているからだ。映画は「説明」はいらない。ただ映像を「情報」として見せればいい。情報があふれかえって、観客がどう判断していいかわからなくなってしまってもいいのである。いちいち「説明」されると、何かを判断しなければならないという、切羽詰まった緊張感が消えてしまう。
 クライマックスというか、見せ所のシーンがそれだから、ほかは批判するのも面倒になる。いちばん観客がどきどきしていいはずのシーンだけ、批判しておく。
 ホアキン・フェニックスが麻薬工場にもぐりこむとき、隠しマイクを持っているのだが、それが敵(?)に見つかるシーンなど、笑い話である。ポケットからマッチとライターが出てくる。このとき、観客は誰だって、「なぜライターを持っている人間がマッチをもっている?」と思う。それを、わざわざ麻薬組織のボスがホアキン・フェニックスに問いかける。そのあとで、ライターを分解して隠しマイクを発見する。小説ではないのだから、こういうことを「ことば」で説明しては映画にならない。そんなことをいちいちことばで問い詰めるやくざがいるとしたら、それは場数を踏んでいないやくざであって、そんな人間が麻薬組織を動かせるわけがない。
 すべてが説明過剰だから、映像が間延びしてしまう。「ことば」の情報量は、映像の情報量に比べてとても少ない、ということをこの監督は知らないようである。少ない情報で多いはずの情報を説明しようとするから、映画にスピードがなくなるのである。ことばは少なくなればなるほど、映像は緊迫感が出てくる。雨の中の車を走らせながらの銃撃も、「伏せろ」だとか「大丈夫か」などという必要はないし、燃える葦原へホアキン・フェニックスが入っていくシーンでも「どこへ行くんだ、やめろ」というような間延びしたことばはいらない。
 あくびをかみ殺すのに苦労する映画である。
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渡辺正也「木」

2009-01-23 08:57:43 | 詩(雑誌・同人誌)
渡辺正也「木」(「石の詩」72、2009年01月20日発行)

 渡辺正也「木」は、清潔なことばが響きあう。その共鳴が美しい。書き出し。

木が倒れたのは
骨が崩れたせいだ
音もなく
根元が透きとおるように砕けた

 「木」は「骨」の一文字によって、「木」そのものを超越する。「人間」になる。そして、それは「死」を呼び込む。しかも「透きとおった」死を。
 これが7連目と響きあう。

野に出しておけば
やがて無うなります
と 僧が言うので
ホトリ ホトリ と折って束ねた

 これは単純に読めば、倒れた木を野ざらしにし、やがて土に還っていくのを自然にまかせるということ、少しでも早く土に還ることを願って、あるいは風にさらされてチリになって、どこかに消えてしまうことを願って、木の枝を折るということになる。しかし、そのせつめい(?)を僧がしたとなると、その「木」はまさに「骨」になる。そして、それは「木」の根幹ではなく、人間の「根幹」になる。
 人間の骨も、「野に出しておけば/やがて無うなります」となるか。ならない。けれども、そうなることを願いたい気持ちがどこかにある。死んで「骨」が残されるのではなく、「無」そのものになってしまう気持ちがどこかにある。人間も、そんなふうに消えてしまうことはできないだろうか。
 最後の2連。

あれは木ではなかった

境界のない
薄墨の夜と
こぼれ落ちるいのちの影
そこにうたたねするように
ぬばたまの闇の
濃くなっていく果てを見ていると
霧が出てきた
ひょっとしたらまだ
立っているかも知れぬ木の下のヤブランは
冷気のなかで
黒い実をつけているだろうか

 そうなのだ。「木」ではないのだ。
 だからこそ、7連目。「ホトリ ホトリと折って」というやわらかな響きのことばが選ばれている。
 「人間」、いや「人間」をも超越したもの、「木」にも「人間」にも、あらゆるものにも通じる「いのち」なのである。
 「いのち」の行く末を見る。凝視する。そのとき、そこに何があらわれるか。記憶である。生きているものの記憶、生きて実を結び、いのちを繰り返すものの記憶である。
 「死」は、そういう「いのち」の記憶を反復するためにある。そのために、ことばがある。そして、いくつもの「いのち」を融合させるために「比喩」がある。




零れる魂こぼれる花
渡辺 正也
思潮社

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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(12)中井久夫訳

2009-01-23 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
分離その三    リッツォス(中井久夫訳)

ゆっくりとものの中味がなくなる。夏の浜べの
大きい骨のように。馬の骨か戸外の動物の骨か。
内側はからっぽ。骨髄がない。
残る部分は硬くて白いばかり。色が抜け、細かい孔があいて、
冬のどしゃ降りのときの部屋の色だ。
扉の把手を持ってるのか、把手がきみを持ってるのか、
そもそもきみなり把手なりが持つなんて出来るか。
どちらか言えまい。
きみが紅茶を飲もうとする。その時突然、
きみが見ると指の間は陶器の把手だけだ。茶碗がない。
把手を調べる。真白で、重さがなくて、ほとんど骨。
きれいだなときみは思う。ゼロになろうと憧れている半分のかたち。
温かい湯気がじわったにじみ出てる。
向うの深い裂け目から壁の中に。
きみの飲めなかった紅茶からの湯気さ。



 リッツォスの描写はとても繊細である。たとえば5行目。「冬のどしゃ降りのときの部屋の色だ。」この独立した美しさ。「白」の描写なのだが、「白」のなかにある「白の諧調」が見えてくる。「白」にはいくつもの「白」があることが見えてくる。「空虚」(中味がなるなる)の色が、その諧調の中に、あるいは諧調のひろがりのひろさで、見えてくる。
 13行目。「きれいだなときみは思う。ゼロになろうと憧れている半分のかたち。」この行も繊細だ。「ゼロになろうと」の「なろうと」が「半分の形」をより明確にする。ある完成されたかたちが望めないなら、いっそう「半分」であることをやめてゼロになりたい。--このときの、孤独。
 それは、5行目の「冬のどしゃ降りの部屋」と通い合う。

 「分離その三」。何からの分離からは、ここには書かれていない。しかし、ここに書かれている孤独に共感するとき、何からの分離かをつきつめることは意味がない。孤独がみつめる風景、日常の暮らし、そのなかにただよう「白」に代表される「色の諧調」それを呼吸するだけでいい。



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