詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白鳥信也「ためいき営業」、呉生さとこ「生贄の女王」

2009-01-25 09:01:46 | 詩(雑誌・同人誌)
白鳥信也「ためいき営業」、呉生さとこ「生贄の女王」(「モーアシビ」16、2009年01月20日発行)
 
 「モーアシビ」の詩人たちの作品はとても長い。そして、その長い長いことばが、とてもすばやく進んで行く。状況を反芻しながら(ただし、違ったことばで反芻しながら)、状況がふつうとは違った方向へ動かしていく。
 白鳥信也「ためいき営業」の、最初の方の部分。

一瞬、机の周りの空気がなくなってすかすかになる
急に息が苦しいなって思うと、その人のなかに空気がはいっているんだよ
吸ってるんじゃない、はいってゆくんだよ

 一度「吸ってるんじゃない」と否定の形で状況を説明して、もう一度前にもどる。この切り返しが「すばやい」。
 ふつうは、呼吸をするとき、ひとは「空気を吸う」というけれど、そういうふつうではないということを「否定」を交えて明確にした上で、「はいってゆくんだよ」と「入る」を強調する。その「強調」が切り返しのすばやさによって増幅する。つまり、いっきに白鳥の世界にひきこまれる。
 一度、そんなふうに「ふつう」を「否定」してしまうと、あとはもうどんなことを書いてもいい。微妙な部分で「ふつう」を「否定」し、「ふつう」からずれてゆく。そこから描写はさらにていねいになる。ていねいになるのは、ていねいでないと、「ずれ」が加速しない。なぜ、そんなふうにずれてしまったのかなあ、と思わせてはいけないのだ。気づかれないうちに、どんどん加速し、「ずれ」を拡大してゆく。どこで「ずれ」たのかわからないまま、拡大してゆく。

空気がどんどんはいるから
その課長、急に天井を仰ぎ見るように反り返って
それから一気に肩をおとして猫背になって
半開きの口から
ためいきが出てくる
空気が静かに揺さぶられて落ちていくんだ
どこまでもどこまでも落ちていきそうな
哀しい息のかたまりみたいなんだ
床のあたりため息が渦巻いて
もうただならない世界に放り込まれたみたいで
眼の前がまっくらになるほどしびれて
そう、しびれんだよ、まったく
こっちの体の内側が、まったくなんていったら言いのかな
暗澹とする
そう暗澹とするんだけれどそれがかえって心地よさに変わるんだよ

 「こっちの体の内側が、まったくなんていったら言いのかな」は誤植で、ほんとうは「こっちの体の内側が、まったくなんて言ったらいいのかな」だろうけれど、この誤植がなんとも、この作品全体を象徴していておもしろいので、そのまま引用した。
 「ずれ」は、この「いったら言いのかな」の誤植のようなのだ。
 何かが違う。けれど、その「間違い」はじっくり眺めないと見落としてしまう。そして、白鳥のことばは、その「じっくり」を拒否するようにして、たとえば「吸ってるんじゃない、はいってゆくんだ」とか、「眼の前がまっくらになるほどしびれて/そう、しびれんだよ、まったく」というふうに、否定や肯定を強調する。「じっくり」考える前に、強引にことばを先へ動かしてしまう。
 これは同時に、「いったら言いのかな」のように、白鳥自身をも錯覚させる。白鳥自身がことばのスピードを制御できずに、奇妙なところへ突き進んでしまう。どこへ進んでいるかわからない(方向を制御できない)から、白鳥の作品は長くなるのである。
 これは、しかし、欠点ではない。どこまでもどこまでも、ただスピードにまかせて突き進んでゆけばいいのである。そうすれば、その奇妙なことばは、私たちが日常つかっていることばが(流通していることばが)、やはり無意識に加速しているかもしれない。加速したまま、「ずれ」ていってしまっているかもしれない--という自省をうながす。そういうことを考えさせるためのことばである。



 呉生さとこ「生贄の女王」も長い。子宮ガン(?)の手術を受けたときのことを書いてる。
 呉生も「ずれ」を描いているが、それは「ずれ」というより、一種の飛躍であり、飛躍によって彼女自身を世界から切り離し、同時にことばの運動も「世界」とは無関係にしてしまう。ただし、「世界」とは無関係であるが、呉生自身の「肉体」とはしっかり関係づける。

ヒトツ ヒザヲカカエテ
フタツ マルマッテ
ミッツ オヘソヲノゾキコンデ
ヨッツ フカクコキュウシナサイ

わたしは従順に 用事の姿勢になって
深いへその穴からへその緒の先を覗き込む
ああ なんてエロティックなからだ
硬くとがる恥骨のかたち
五月の草のように生える恥毛
病んだ子宮が縦一文字に切り裂かれると
母と性交した新月が
祖母の膣を突き刺す三日月が
曾祖母の卵管を転がった十六夜月が
古びたまま 残っている

 呉生は「肉体」がどこまでも「母」とつながっていることを発見する。それは「いのち」の発見である。「いのち」はどこまでも、そしてどんなところへもつながっている。だから、どこまでもそれを追いかけて、追いかけることで、「世界」をのみこんでしまうことができる。「世界」をのみこんだとき、呉生が存在することを知っている。知っていて、呉生は延々とことばを書くのである。
 ことばが「肉体」になり、「いのち」になっていく運動といえる。




アングラー、ラングラー
白鳥 信也
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(14)中井久夫訳

2009-01-25 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
地下室付三階建    リッツォス(中井久夫訳)

三階には貧乏学生が八人。
二階にはお針子が五人と飼い犬が二匹。
一階には地主とその養女と。
地下室には籠類と瓶類とねずみと。
三つの階の階段は共通だった。
ねずみは壁を登った。
夜、汽車が通る時、ねずみたちは
煙突から屋根に出て、
空を眺めた。雲も。庭の柵も。
料理店の灯も。
その下ではお針子が鎧戸を閉めた、
口にいっぱい針をくわえて。



 静かなスケッチである。
 6行目からはじまる「ねずみ」の描写がおもしろい。ねずみがほんとうに空を眺めたり、料理店の灯を眺めたりすしたかどうかは、わからない。ねずみはほんとうはそんなことをしないかもしれない。けれど、そうさせたい。ねずみに、そういう行為をさせたい。--それは、その建物のなかにいる人間たちの夢である。ねずみに託して、そういう夢を見ているのだ。それは、そこに住む人間たちがしたくてもできないことなのだ。時間がなくて……。
 人間は、たとえば「お針子」は、ねずみになって、ずーっと何かをみつめているという夢を「鎧戸」を閉ざすように閉ざして、仕事にもどる。

 ほんのひとときの、つましい夢。ねずみによって、それがいきいきしてくる。そして、そんな気持ちで読み返す時、5行目が、とても美しく見える。

三つの階の階段は共通だった。

 貧乏学生が通る。お針子が上る。地主も養女も上る。ねずみは「壁を登った」とあるけれど、ときには(人間がだれもいないときには)階段を上ったかもしれない。だれもに「共通」の階段なのだ。おなじように、ねずみの夢も人間の夢と共通なのだ。生きているもの、いのちがあるものに「共通」の夢なのだ。

 「共通」ということばが、とても美しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする