詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

財部鳥子「帰郷」、楡久子「芙蓉の舌」

2009-01-26 11:01:15 | 詩(雑誌・同人誌)
 財部鳥子「帰郷」(「さよん・Ⅲ」4、2008年10月20日発行)は中国の、かつて住んでいた街を訪れたときの詩である。「帰郷」というのは、そこが彼女にとっての忘れがたい生活の場だからである。だから、生活がていねいに描かれている。特に1連目。

練ミルク缶に開けた二つの穴に
はりつけた紙のきれはしも砂で汚れて
 故郷は 耳の穴までザラザラした

 黄砂の降る街。「練ミルク缶に開けた二つの穴」という具体的な描写がとてもいい。二つ穴を開けるのは、一方から空気を入れ、ミルクの流れをよくするためだが、そういう生活の工夫をていねいに書いているところがいい。ことばが、しっかりと「時代」を呼び込んでくる。開けた穴には、穴からほこりが入らないように、穴に紙をはりつけている。その工夫の描写もいい。いまならラップで覆うか、プラスチックの丸いふた(缶全体を覆う)をつかうだろう。いまとは違う「時代」(時間)が、「故郷」にはそのまま残っている。
 それを財部は「肉体」として感じる。
 「缶の穴」と「耳の穴」。二つの穴を描くことで、練乳の缶は「肉体」そのものとして、つまり缶を開け、ミルクをそそぎ、そのあと穴に紙をはって、という手の動きとして、よみがえってくる。そこには甘さの味覚、べたべたした感触、さらにはどうにもこびりついてとれない不快感というような、「肉体」の体温が混じっている。
 そういう根強い「過去」の具体的な時間があるから、財部は「いま」の「満州」(中国東北部)に対して違和感を覚える。「故郷」は財部のしらない「時間」へと生まれ変わっている。「いま」と「過去」が財部の「肉体」のなかで出会い、離れる。
 それが2連目以降。

街には黄砂がたちこめて何も見えない
黄砂が立ち去っても多分見えないだろう
 なぜなら街は滅びたらしいのだから

街口の満州航空ビルは廃屋
憲兵隊本部はいまは合江地区裁判所
 シベリア毛皮店は空き家です

我が家はいつのまにか合江第一旅社
三江劇場は崩れて砂と古材で満杯です
 久しぶりに帰った旧いさびしい移民地よ

乾いた唇には薔薇色の華陀膏がいいのよ
隣家の老太夫(ラオタイタイ)がわたしの顔を見て教えてくれた
 河だけは やはり街の西を流れている

 最終連に「唇」という「肉体」がふたたび登場する。唇の痛み。そして、それを解消する方法を教えてくれた隣の家の老人。そういうひとひととのつきあい。「わたしの顔を見て」という視線の温かさ。具体性。「時間」。そこには「肉体」がある。だから、なつかしい。
 そして、そういう「肉体」の時間を超越する自然の時間が一方にある。「河だけは やはり街の西を流れている」。この1行の「だけ」にこめた思い、そして「流れている」という現在形。隣家の老人は「教えてくれた」と「過去形」。河は「流れている」と現在形。ふたつの時制が出会うことで、「時間」というものが切なくなる。



  楡久子「芙蓉の舌」(「詩遊」20、2008年10月31日発行)は前半の不思議な肉体感覚にひかれた。

「古い中国の詩を歌にしたんだ。歌ってくれないか」
とあなた。
「河に流れ込む皮は、タオタオ、タオといいながらふやけた
犬の皮を流していった」
そう歌いこむ勢いがついたところで、不規則な金属音。
たおと名付けられたやせた犬が水を飲む音だった。
犬の舌はゆらぎ、水を口に運ぶ。アルマイトの碗の水が減っ
ていく。薄青い芙蓉の舌に見とれて私は、
「川に皮が流れ込む場面に、桃のむけた桃太郎や皮を剥かれ
た梨姫の話も添えてうたいたいの」

 「音」が「意味」にかってに変化していく。同時に「意味」がまったく別のものをひきずりこむ。そのとき、その変化にかかわっているのは「肉体」である。ここでは耳(聴覚)と舌(味覚ではなく、たぶん触覚)がうごめき、そのあとに「見とれて」という視力(視覚)がやってくる。
 あ、いいなあ。
 私はこういう詩を読むと、女性のセックスを思うのである。視覚よりも聴覚や触覚が優先する。私の性的欲望は視覚からはじまるが、女性は(楡はというべきなのか)視覚ではなく聴覚、触覚からはじまる、と思ってしまう。
 セックスは、いろいろな感覚が融合する「場」だが、そういう感覚の融合から、「物語」は逸脱する。最初の目的(?)とは違って、どこまでも逸脱して行く。感覚が遊ぶにまかせてしまう。中国の古い詩は、いつのまにかに日本の童話もまきこんで、他人から見れば何をやっているの?というようなものになっていく。(セックスそのものが、そういうものだろう。本人たちはいいけれど、他人から見れば無様なかっこうである。)

 詩は、つづいてゆく。

レッスンが終わる。
私のいちばん柔らかな場所を掴んであなたは歩く。そうくるか。
そこままずいんだけどな。
なんたって一番柔らかく敏感な場所。
新婚の夫が、揺らして弄ぶので
(もう、いいかげん止めてよ、明日はコンサートよ、これじゃ
あ眠れないわ)
と怒って止めさせた思い出深い箇所よ。
本当に困ってしまうわ、あなた。

 「一番柔らかく敏感な場所」とは「聴覚」の「場」、つまり耳だろう。耳たぶだろう。「新婚の夫」は指で触れたのか、舌で触れたのか。聴覚の場に触覚が責めてくる。その一瞬のあまい感覚。そして、「時間」を超越した「時間」。
 財部の描く「時間」とは違った、「肉体」を超越して、「別の肉体」になる「時間」。つまり、エクスタシー。
 いいものだなあ。「本当に困ってしまうわ、あなた。」か……。




烏有の人―財部鳥子詩集
財部 鳥子
思潮社

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リッツォス「廊下と階段(1970)」より(1)中井久夫訳

2009-01-26 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
一九七〇年、アテネ    リッツォス(中井久夫訳)

この街の通りを
人々が歩いている。
人々が急いでいる。
急いで去ろうとする。(何から)去ろうとするのか?
(どこへ)向かおうとするのか?
私は知らない--顔も
--真空掃除機、長靴、箱--
彼等は急ぐ。

この街の通りを
大きな旗とともに過ぎた
過去の日(思い出す、聞いたものを)。
その時の彼等は声を持っていた。
ちゃんと聞こえる声を。

今、彼等は歩く、走る、急ぐ。
急ぎつつ不動。
列車が来る。彼等は乗る。押し合う。
信号が青から赤に。
車掌はガラスの仕切りの後ろ。
売春婦、兵隊、肉屋。
壁は灰色。
時間よりも高い壁。

彫刻の像よりもものが見られないところ。



 ギリシャの現代史を知っているひとなら、この作品の背景がわかるかもしれない。私はギリシャの現代史を知らない。
 ここに書かれていることばだけを手がかりに言えば、過去にはギリシャの街、アテネを「大きな旗」が通りすぎた。そのとき、人々は声を持っていた。声とは、主張である。いまももちろん主張はあるだろうが、それを声にするひとはいない。だから、何も聞こえない。
 過去にははじめて出会うひとも、みな知り合いだった。同じ目的(同じ主張)を持っていて、顔がわかった。いまは、顔の知らないひとばかりだ。つまり、主張のわからないひとばかりだ。彼らは無言で歩く。急ぐ。
 最後の3行が、とても切ない。
 そこには具体的なことは何も書かれていない。リッツォスのことばは「もの」としっかり結びついたものが多い。「もの」のなかには「過去」があり、「物語」がある。しかし、この3行に登場する「壁」は「過去」をもたない。いや、もちろん「過去」はあるのだが、それは閉じ込められている。その「物語」は現実のなかに溢れ出て来ようとはしない。しっかりと「過去」の扉を閉ざしている。そのしっかり、「過去」をとざしているという感じ、それがわかることが切ないのだ。
 どんな「もの」のなかにも「物語」はあって、それはいつでも、現在を突き動かして未来へゆきたいと願っている。それができず、ただ閉じ込められている。
 「過去」を未来へ向けて解放し、突き動かすことができない--というのは、「夢」を見られないということである。「彫刻の像」は肉眼をもたないが、その作品のなかには「夢」がある。「理想」がある。(それは、作者が託した「夢」であるが。)その「彫刻の像」さえもが見ることのできる「夢」を、いま、アテネを行き来する人々は見ることができない。
 厳しく、寂しい、いま、という時間。

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