永井章子『時の系譜』(思潮社、2008年11月30日発行)
「塔」のなかに魅力的なことばがある。2、3連目。
3連目の「との間の」。これはとても微妙な表現である。「との間の」がなくても、「意味」は通じる。「塔が意味するもの」と「私が塔から意味されるもの」。それは同じではない。「ずれがある」と永井は書くのだが、そのふたつの「もの」を比較するだけではなく、そのふたつの「間」をみつめている。
ふたつのものはぴったりと重なり合ってはいないのだ。重なりあわないのだ。結びついていないのだ。
だが、その「間」とは、どれくらいの「距離」(隔たり)があるのだろうか。「かすかな」だから、それは小さい「距離」であるはずだ。意識的には、非常に近い。手で届かない「距離」とはいえないかもしれない。しかし、「肉眼」では見えない。手でも触れることはできない。
なぜ? どうして?
「間」は「肉体」とは関係ないのだ。関係がないというとおおげさだけれど、「肉体」だけではとらえられないものなのである。それは、 「延髄」で感じるだけである。「延髄」とは「脳」と「肉体」のつなぎめである。
思考は、「脳」と「肉体」のつなぎ目でせめぎあっている。ことばを求めている、ということなのだろう。
そして、そのつなぎ目でせめぎあっているのは、「知らない」ということと関係しているかもしれない。「知らない」ことはたくさんある。「知らないこと」が「意味」を要求する。「意味」を知れば、たぶん「脳」と「肉体」は和解するのだ。「ずれ」を感じることなく、「もの」が「からだ」のなかに入ってくるのだろう。
だが「知らない」ことがあって、そういう「和解」が成立しない。そういう、一種の「不和」(和解の反対の概念である)が「ずれ」を感じさせるのだ。
ここには「脳」と「肉体」とがいっしょになった、真剣なまなざしがある。その真剣さが美しい。それはそれが何であるかわからないままに、「静謐」をつかみとるのである。そして「静謐」を感じ取ってしまうからこそ、それをもっと別なことばでつかみなおそうとして、不思議な「ずれ」を感じるのだろう。
「知る」ことと「感じる」こと「との間」にも「ずれ」があるのだ。
この真剣なまなざしは、「間」にひとつの「哲学」を発見する。最後の2連。
あらゆる「もの」と「もの」との「間」には「時間」があるのだ。「時間」のずれがあるのだ。時間は伸縮自在に伸び縮みする。「いま」と「1300年前」を結びつけて考えるときと、「いま」と「きのう」を結びつけて考えるとき、それぞれの「間」を「肉体」で把握することはできない。「脳」でなら、「1300年」と「24時間」はまったく違った「距離」だが、「肉体」にはそれを測る手段がない。また「脳」も本当ははかることはできない。数字を司る「脳」はそれを数字として区別はするが、感情は、その「距離」をはかれない。数字以外の意識も区別できない。ある時間を想像するとき、それはいつでもすぐ目の前にあらわれてくる。「1300年」と「24時間」には差異、隔たり、距離があるにもかかわらず、その距離はないに等しいのだ。「間」は、あって、ないものなのだ。
「間」があって、同時にないもの。-- それは、「塔が意味するもの」と「塔から意味されるもの」との「間」と同じである。「脳」のあるしゅのことばでは区別できても、「肉体」や「感情(こころ)」はそういうものを区別できない。
「あの人」はいつでも、どんなときでも、思い描くだけで、そばにいるのだ。いや、いっしょにいるのだ。
そのせつなさ。
永井は、そういうせつなさを知っている。いや、「肉体」のなかにもっている。「肉体」として、それをもっている。
そこでは「距離」は、あっても、ないのだ。「間」はあるけれど、それはいつも計測不能なものである。ただ感じるだけのものである。だから、それは、ある意味では「存在しなかったかもしれないもの」なのだ。その存在しないもののためにひとは苦しむ。そして、喜ぶ。そうやって、生きる。それが「時間」というものに、なぜか、なってしまう。
ひとつひとつのことばが、深い感情と思考に支えられている。
「塔」のなかに魅力的なことばがある。2、3連目。
塔が塔になっていく過程を私は知らない
堂の内にため込んでいる静謐の中身を私は知らない
今
塔が意味するものと
私が塔から意味されるもの
との間の かすかなずれを
痛む延髄で感じている
3連目の「との間の」。これはとても微妙な表現である。「との間の」がなくても、「意味」は通じる。「塔が意味するもの」と「私が塔から意味されるもの」。それは同じではない。「ずれがある」と永井は書くのだが、そのふたつの「もの」を比較するだけではなく、そのふたつの「間」をみつめている。
ふたつのものはぴったりと重なり合ってはいないのだ。重なりあわないのだ。結びついていないのだ。
だが、その「間」とは、どれくらいの「距離」(隔たり)があるのだろうか。「かすかな」だから、それは小さい「距離」であるはずだ。意識的には、非常に近い。手で届かない「距離」とはいえないかもしれない。しかし、「肉眼」では見えない。手でも触れることはできない。
なぜ? どうして?
「間」は「肉体」とは関係ないのだ。関係がないというとおおげさだけれど、「肉体」だけではとらえられないものなのである。それは、 「延髄」で感じるだけである。「延髄」とは「脳」と「肉体」のつなぎめである。
思考は、「脳」と「肉体」のつなぎ目でせめぎあっている。ことばを求めている、ということなのだろう。
そして、そのつなぎ目でせめぎあっているのは、「知らない」ということと関係しているかもしれない。「知らない」ことはたくさんある。「知らないこと」が「意味」を要求する。「意味」を知れば、たぶん「脳」と「肉体」は和解するのだ。「ずれ」を感じることなく、「もの」が「からだ」のなかに入ってくるのだろう。
だが「知らない」ことがあって、そういう「和解」が成立しない。そういう、一種の「不和」(和解の反対の概念である)が「ずれ」を感じさせるのだ。
ここには「脳」と「肉体」とがいっしょになった、真剣なまなざしがある。その真剣さが美しい。それはそれが何であるかわからないままに、「静謐」をつかみとるのである。そして「静謐」を感じ取ってしまうからこそ、それをもっと別なことばでつかみなおそうとして、不思議な「ずれ」を感じるのだろう。
「知る」ことと「感じる」こと「との間」にも「ずれ」があるのだ。
この真剣なまなざしは、「間」にひとつの「哲学」を発見する。最後の2連。
私のもっている時間と
あの人のもっている時間の差など
何程のことだろうか
生きている証だって
ない と笑ってしまう
けれど 私は
思い出している
本当は存在しなかったかもしれないものを追った長い時間を
塔と対峙して 私は
あらゆる「もの」と「もの」との「間」には「時間」があるのだ。「時間」のずれがあるのだ。時間は伸縮自在に伸び縮みする。「いま」と「1300年前」を結びつけて考えるときと、「いま」と「きのう」を結びつけて考えるとき、それぞれの「間」を「肉体」で把握することはできない。「脳」でなら、「1300年」と「24時間」はまったく違った「距離」だが、「肉体」にはそれを測る手段がない。また「脳」も本当ははかることはできない。数字を司る「脳」はそれを数字として区別はするが、感情は、その「距離」をはかれない。数字以外の意識も区別できない。ある時間を想像するとき、それはいつでもすぐ目の前にあらわれてくる。「1300年」と「24時間」には差異、隔たり、距離があるにもかかわらず、その距離はないに等しいのだ。「間」は、あって、ないものなのだ。
「間」があって、同時にないもの。-- それは、「塔が意味するもの」と「塔から意味されるもの」との「間」と同じである。「脳」のあるしゅのことばでは区別できても、「肉体」や「感情(こころ)」はそういうものを区別できない。
「あの人」はいつでも、どんなときでも、思い描くだけで、そばにいるのだ。いや、いっしょにいるのだ。
そのせつなさ。
永井は、そういうせつなさを知っている。いや、「肉体」のなかにもっている。「肉体」として、それをもっている。
そこでは「距離」は、あっても、ないのだ。「間」はあるけれど、それはいつも計測不能なものである。ただ感じるだけのものである。だから、それは、ある意味では「存在しなかったかもしれないもの」なのだ。その存在しないもののためにひとは苦しむ。そして、喜ぶ。そうやって、生きる。それが「時間」というものに、なぜか、なってしまう。
ひとつひとつのことばが、深い感情と思考に支えられている。
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