詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

永井章子『時の系譜』

2009-01-14 07:49:20 | 詩集
永井章子『時の系譜』(思潮社、2008年11月30日発行)

 「塔」のなかに魅力的なことばがある。2、3連目。

塔が塔になっていく過程を私は知らない
堂の内にため込んでいる静謐の中身を私は知らない


塔が意味するものと
私が塔から意味されるもの
との間の かすかなずれを
痛む延髄で感じている

 3連目の「との間の」。これはとても微妙な表現である。「との間の」がなくても、「意味」は通じる。「塔が意味するもの」と「私が塔から意味されるもの」。それは同じではない。「ずれがある」と永井は書くのだが、そのふたつの「もの」を比較するだけではなく、そのふたつの「間」をみつめている。
 ふたつのものはぴったりと重なり合ってはいないのだ。重なりあわないのだ。結びついていないのだ。
 だが、その「間」とは、どれくらいの「距離」(隔たり)があるのだろうか。「かすかな」だから、それは小さい「距離」であるはずだ。意識的には、非常に近い。手で届かない「距離」とはいえないかもしれない。しかし、「肉眼」では見えない。手でも触れることはできない。
 なぜ? どうして?
 「間」は「肉体」とは関係ないのだ。関係がないというとおおげさだけれど、「肉体」だけではとらえられないものなのである。それは、 「延髄」で感じるだけである。「延髄」とは「脳」と「肉体」のつなぎめである。
 思考は、「脳」と「肉体」のつなぎ目でせめぎあっている。ことばを求めている、ということなのだろう。
 そして、そのつなぎ目でせめぎあっているのは、「知らない」ということと関係しているかもしれない。「知らない」ことはたくさんある。「知らないこと」が「意味」を要求する。「意味」を知れば、たぶん「脳」と「肉体」は和解するのだ。「ずれ」を感じることなく、「もの」が「からだ」のなかに入ってくるのだろう。
 だが「知らない」ことがあって、そういう「和解」が成立しない。そういう、一種の「不和」(和解の反対の概念である)が「ずれ」を感じさせるのだ。

 ここには「脳」と「肉体」とがいっしょになった、真剣なまなざしがある。その真剣さが美しい。それはそれが何であるかわからないままに、「静謐」をつかみとるのである。そして「静謐」を感じ取ってしまうからこそ、それをもっと別なことばでつかみなおそうとして、不思議な「ずれ」を感じるのだろう。

 「知る」ことと「感じる」こと「との間」にも「ずれ」があるのだ。

 この真剣なまなざしは、「間」にひとつの「哲学」を発見する。最後の2連。

私のもっている時間と
あの人のもっている時間の差など
何程のことだろうか
生きている証だって
ない と笑ってしまう

けれど 私は
思い出している
本当は存在しなかったかもしれないものを追った長い時間を
塔と対峙して 私は

 あらゆる「もの」と「もの」との「間」には「時間」があるのだ。「時間」のずれがあるのだ。時間は伸縮自在に伸び縮みする。「いま」と「1300年前」を結びつけて考えるときと、「いま」と「きのう」を結びつけて考えるとき、それぞれの「間」を「肉体」で把握することはできない。「脳」でなら、「1300年」と「24時間」はまったく違った「距離」だが、「肉体」にはそれを測る手段がない。また「脳」も本当ははかることはできない。数字を司る「脳」はそれを数字として区別はするが、感情は、その「距離」をはかれない。数字以外の意識も区別できない。ある時間を想像するとき、それはいつでもすぐ目の前にあらわれてくる。「1300年」と「24時間」には差異、隔たり、距離があるにもかかわらず、その距離はないに等しいのだ。「間」は、あって、ないものなのだ。
 「間」があって、同時にないもの。-- それは、「塔が意味するもの」と「塔から意味されるもの」との「間」と同じである。「脳」のあるしゅのことばでは区別できても、「肉体」や「感情(こころ)」はそういうものを区別できない。
 「あの人」はいつでも、どんなときでも、思い描くだけで、そばにいるのだ。いや、いっしょにいるのだ。
 そのせつなさ。
 永井は、そういうせつなさを知っている。いや、「肉体」のなかにもっている。「肉体」として、それをもっている。
 そこでは「距離」は、あっても、ないのだ。「間」はあるけれど、それはいつも計測不能なものである。ただ感じるだけのものである。だから、それは、ある意味では「存在しなかったかもしれないもの」なのだ。その存在しないもののためにひとは苦しむ。そして、喜ぶ。そうやって、生きる。それが「時間」というものに、なぜか、なってしまう。

 ひとつひとつのことばが、深い感情と思考に支えられている。





時の系譜
永井 章子
思潮社

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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(3)中井久夫訳

2009-01-14 00:00:01 | リッツォス(中井久夫訳)
慎みのなさ    リッツォス(中井久夫訳)

翌朝、彼はほとんど病気だった。
ゆうべさんざん言葉をつめこまれた、ポンプで以て。
もう沢山だ、言葉は。だが言葉を振り払えない。
通りを隔てた家はすっかり白く塗り換えている。
どぎつい白さ。ペンキ屋の声が冬の光の中でやけに大きく響く。
屋根のてっぺんにいる一人が煙突を抱いた、セックスするみたいな恰好だ。
白いペンキのぼってりした滴が
朽ち葉の降り積む黒土に飛び散った。



 夕べと翌朝。その間に何があったか。「言葉を詰め込まれた」とは、口論のことだろう。女に言い負かされたのである。それですっかり、しょげかえっている。思い出すのもいやだけれど、思い出してしまう。
 屋根でペンキを塗っているペンキ屋がバランスをくずして煙突にしがみつく。それがセックスする恰好に似ている、と感じるのは、女との口論が原因で、セックスできなかったせいだろう。あるいは、不満足なセックスだったためだろう。どうしても思い出してしまうのだ。
 白いペンキ、飛び散ったペンキが、「彼」には精液に見える。

 鮮やかな白ではなく、「どぎつい白さ」。その「どぎつい」という修飾語に、「彼」のさびしさが漂う。


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