加島祥造「倦夜 伊那谷中沢」(「現代詩手帖」2009年01月号)
加島祥造「倦夜 伊那谷中沢」は、ある夜のことを描いている。加島は友人が送ってくれた杜甫の「倦夜」を読み、それを訳す(1の部分)。それから加島自身の「倦夜」を「暮らし」のなかで繰り返す(2の部分)。杜甫の詩を踏まえ、自分の「暮らし」を唐詩風に再現すると、どんな感じかなあ……。
しかしそれは、「暮らし」をことばにする、というのではなく、まるでことばが「暮らし」をととのえる、という感じがする。普通、私たちは(私だけかな?)、自分が体験したことをことばにすることで、その体験を確かめる。ことばには、そういう効果かあると思う。加島がここでやっているのは、そういうことに似ているけれど、根本が違う。加島は体験をことばで再現して、それを「詩」という形にして提出しているのではなく、詩のことばによって、自分自身の「暮らし」(いのち)を律している。
次のように。
家の外で鳴らした鐘の音が、廊下を走り書斎に入って聞き取る--ということが可能かどうかは知らない。客観的に考えれば、音速と人間の足の速度は違いすぎるから、そんなことは不可能である。また、廊下を走れば足音が響く。その足音が、いま聞いたばかりの鐘の音を消してしまうということもあるだろう。
しかし、ここに書かれているのは、「現実」の報告ではないのだ。
ここで大切なのは、そういう行為を「ひとり遊び」とことばにすることで、「暮らし」に美しい「枠組み」を与えていることだ。
この「ひとり遊び」は、その前の連の「ほとんど朗らかといえる無邪気な」と呼応している。「ほとんど朗らかといえる無邪気な」は、鐘の音の描写であった。「ひとり遊び」は加島の行為であった。その、鐘の音と加島の行為がそんなふうにことばのなかで呼応した結果として、加島は、「鐘の音」そのものになる。
鐘の音そのものになっているから、「土間から廊下へ走り込み/書斎に入って耳をすませ」れば、鐘の音は聞こえるのである。加島自身が鐘の音なのだから、彼のいるところでは、いつもその鐘の音が自然に鳴り出すのだ。「肉体」から、彼の外へと静かに響いていくのである。
あ、美しいなあ。
思わず、声に出てしまう。杜甫の「倦夜」の最後の部分を加島は
と訳していた。
夜がどんなに美しくても人間のこころは、ざわついてしまう。こころはざわつくことが仕事だからかもしれない。そうであっても、やはり静かな夜、美しい夜にはこころを美しいものにしてみたい。美しい夜にふさわしいものにしてみたい。
そんなとき、人には何ができるのか。
加島は、本を読む。たとえば、杜甫を。そして、そのことばを「遊んで」みる。そのことばの運動にそって自分のできることをしてみる。それが、この詩では鐘を鳴らすこととして書かれている。そうすると、一瞬、「朗らか」が、「無邪気」がもどってくる。
この終わりの「おれの」のなんと美しいことか。孤独のなんと美しいことか。「訪れなかった人の代りに」、ことばがやってきて、対話してくれる。ことばに耳をすませ、ことばにだけ従って、美しく生きる。
いいなあ。
加島祥造「倦夜 伊那谷中沢」は、ある夜のことを描いている。加島は友人が送ってくれた杜甫の「倦夜」を読み、それを訳す(1の部分)。それから加島自身の「倦夜」を「暮らし」のなかで繰り返す(2の部分)。杜甫の詩を踏まえ、自分の「暮らし」を唐詩風に再現すると、どんな感じかなあ……。
しかしそれは、「暮らし」をことばにする、というのではなく、まるでことばが「暮らし」をととのえる、という感じがする。普通、私たちは(私だけかな?)、自分が体験したことをことばにすることで、その体験を確かめる。ことばには、そういう効果かあると思う。加島がここでやっているのは、そういうことに似ているけれど、根本が違う。加島は体験をことばで再現して、それを「詩」という形にして提出しているのではなく、詩のことばによって、自分自身の「暮らし」(いのち)を律している。
次のように。
ここに暮しているのは
ひとりでいたいからだ。
それでいて心はたえず誰も
来ないのを淋しがる。
夜になると恋しくなる--
ある晩、おれは
だしぬけに立ち上がって
書斎を出て廊下にゆき
土間をおりて玄関の戸を引きあけた。
外は闇ばかり、
大きな椎が枝葉をざわつかせ
月はもう南に廻っていた。
ふと、入口に吊りさがった鐘の
(唐招提寺の鐘の模造品だ)
細い紐(ひも)に手をのばし、
二度鳴らした、
訪れなかった人の代りに--
衝動的な愚かな行為だ。
すると澄んだすがすがしい音
ほとんど朗らかといえる無邪気な
音色が高らかにひびき、
おれは驚ろきに立ちすくみ
ひびきの消えた闇のしじまを
見つめた
家に入る前、また
手をのばして吊り紐を取り
強く三度鳴らして園生との消えぬ内に
土間から廊下へ走り込み
書斎に入って耳をすませた!
おれの
昨夜のひとり遊びだった
家の外で鳴らした鐘の音が、廊下を走り書斎に入って聞き取る--ということが可能かどうかは知らない。客観的に考えれば、音速と人間の足の速度は違いすぎるから、そんなことは不可能である。また、廊下を走れば足音が響く。その足音が、いま聞いたばかりの鐘の音を消してしまうということもあるだろう。
しかし、ここに書かれているのは、「現実」の報告ではないのだ。
ここで大切なのは、そういう行為を「ひとり遊び」とことばにすることで、「暮らし」に美しい「枠組み」を与えていることだ。
この「ひとり遊び」は、その前の連の「ほとんど朗らかといえる無邪気な」と呼応している。「ほとんど朗らかといえる無邪気な」は、鐘の音の描写であった。「ひとり遊び」は加島の行為であった。その、鐘の音と加島の行為がそんなふうにことばのなかで呼応した結果として、加島は、「鐘の音」そのものになる。
鐘の音そのものになっているから、「土間から廊下へ走り込み/書斎に入って耳をすませ」れば、鐘の音は聞こえるのである。加島自身が鐘の音なのだから、彼のいるところでは、いつもその鐘の音が自然に鳴り出すのだ。「肉体」から、彼の外へと静かに響いていくのである。
あ、美しいなあ。
思わず、声に出てしまう。杜甫の「倦夜」の最後の部分を加島は
ああ
こんな清い静かな晩なのに
ざわついた心で過ごすなんて。
と訳していた。
夜がどんなに美しくても人間のこころは、ざわついてしまう。こころはざわつくことが仕事だからかもしれない。そうであっても、やはり静かな夜、美しい夜にはこころを美しいものにしてみたい。美しい夜にふさわしいものにしてみたい。
そんなとき、人には何ができるのか。
加島は、本を読む。たとえば、杜甫を。そして、そのことばを「遊んで」みる。そのことばの運動にそって自分のできることをしてみる。それが、この詩では鐘を鳴らすこととして書かれている。そうすると、一瞬、「朗らか」が、「無邪気」がもどってくる。
おれの
倦夜のひとり遊びだった。
この終わりの「おれの」のなんと美しいことか。孤独のなんと美しいことか。「訪れなかった人の代りに」、ことばがやってきて、対話してくれる。ことばに耳をすませ、ことばにだけ従って、美しく生きる。
いいなあ。
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