詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

加島祥造「倦夜 伊那谷中沢」

2009-01-08 10:21:30 | 詩(雑誌・同人誌)
加島祥造「倦夜 伊那谷中沢」(「現代詩手帖」2009年01月号)

 加島祥造「倦夜 伊那谷中沢」は、ある夜のことを描いている。加島は友人が送ってくれた杜甫の「倦夜」を読み、それを訳す(1の部分)。それから加島自身の「倦夜」を「暮らし」のなかで繰り返す(2の部分)。杜甫の詩を踏まえ、自分の「暮らし」を唐詩風に再現すると、どんな感じかなあ……。
 しかしそれは、「暮らし」をことばにする、というのではなく、まるでことばが「暮らし」をととのえる、という感じがする。普通、私たちは(私だけかな?)、自分が体験したことをことばにすることで、その体験を確かめる。ことばには、そういう効果かあると思う。加島がここでやっているのは、そういうことに似ているけれど、根本が違う。加島は体験をことばで再現して、それを「詩」という形にして提出しているのではなく、詩のことばによって、自分自身の「暮らし」(いのち)を律している。
 次のように。

ここに暮しているのは
ひとりでいたいからだ。
それでいて心はたえず誰も
来ないのを淋しがる。
夜になると恋しくなる--
ある晩、おれは
だしぬけに立ち上がって
書斎を出て廊下にゆき
土間をおりて玄関の戸を引きあけた。
外は闇ばかり、
大きな椎が枝葉をざわつかせ
月はもう南に廻っていた。
ふと、入口に吊りさがった鐘の
(唐招提寺の鐘の模造品だ)
細い紐(ひも)に手をのばし、
二度鳴らした、
訪れなかった人の代りに--
衝動的な愚かな行為だ。
すると澄んだすがすがしい音
ほとんど朗らかといえる無邪気な
音色が高らかにひびき、
おれは驚ろきに立ちすくみ
ひびきの消えた闇のしじまを 
見つめた

家に入る前、また
手をのばして吊り紐を取り
強く三度鳴らして園生との消えぬ内に
土間から廊下へ走り込み
書斎に入って耳をすませた!
おれの
昨夜のひとり遊びだった

 家の外で鳴らした鐘の音が、廊下を走り書斎に入って聞き取る--ということが可能かどうかは知らない。客観的に考えれば、音速と人間の足の速度は違いすぎるから、そんなことは不可能である。また、廊下を走れば足音が響く。その足音が、いま聞いたばかりの鐘の音を消してしまうということもあるだろう。
 しかし、ここに書かれているのは、「現実」の報告ではないのだ。

 ここで大切なのは、そういう行為を「ひとり遊び」とことばにすることで、「暮らし」に美しい「枠組み」を与えていることだ。
 この「ひとり遊び」は、その前の連の「ほとんど朗らかといえる無邪気な」と呼応している。「ほとんど朗らかといえる無邪気な」は、鐘の音の描写であった。「ひとり遊び」は加島の行為であった。その、鐘の音と加島の行為がそんなふうにことばのなかで呼応した結果として、加島は、「鐘の音」そのものになる。
 鐘の音そのものになっているから、「土間から廊下へ走り込み/書斎に入って耳をすませ」れば、鐘の音は聞こえるのである。加島自身が鐘の音なのだから、彼のいるところでは、いつもその鐘の音が自然に鳴り出すのだ。「肉体」から、彼の外へと静かに響いていくのである。

 あ、美しいなあ。

 思わず、声に出てしまう。杜甫の「倦夜」の最後の部分を加島は

ああ
こんな清い静かな晩なのに
ざわついた心で過ごすなんて。

 と訳していた。
 夜がどんなに美しくても人間のこころは、ざわついてしまう。こころはざわつくことが仕事だからかもしれない。そうであっても、やはり静かな夜、美しい夜にはこころを美しいものにしてみたい。美しい夜にふさわしいものにしてみたい。
 そんなとき、人には何ができるのか。
 加島は、本を読む。たとえば、杜甫を。そして、そのことばを「遊んで」みる。そのことばの運動にそって自分のできることをしてみる。それが、この詩では鐘を鳴らすこととして書かれている。そうすると、一瞬、「朗らか」が、「無邪気」がもどってくる。

おれの
倦夜のひとり遊びだった。

 この終わりの「おれの」のなんと美しいことか。孤独のなんと美しいことか。「訪れなかった人の代りに」、ことばがやってきて、対話してくれる。ことばに耳をすませ、ことばにだけ従って、美しく生きる。
 いいなあ。





『求めない』 加島祥造
加島 祥造
小学館

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リッツォス「棚(1969)」より(4)中井久夫訳

2009-01-08 00:06:25 | リッツォス(中井久夫訳)
捜索    リッツォス(中井久夫訳)

はいって下さい、みなさん--と彼は言った。お困りになることはありません。
隠すようなものは一つもないのです。寝室がここ、書斎がここ、
ここが食堂。ここですって? 古物を入れる屋根裏。
皆がらくたですよ。ね? いっぱいです。皆がらくたです。
すぐ、がらくたになってしまいますよね。これですか? 裁縫の指ぬきです。母のです。
これ? 母のランプです。母の傘。母は私がとてもかわいくて・・・。
この鋳りつけた名札は? この宝石箱は? 誰の? このきたないタオルは?
この劇場の入場券は? 彼女の? そうです。花をいっぱいに飾った帽子をかむって。
このサイン、知らぬ宛先だぞ。奴の筆跡だ。誰がここにはめこんだんだ? はめこんだのは誰だ? 誰がはめ込んだのだ、これは?



 内戦時の捜索の様子を描いたものだろうか。捜索されているのは「隠れ家」かもしれない。何もかも処分し、どこを捜索されても大丈夫。そういう準備はしてきた。
 そのはずだったが、警官(?)といっしょに家のなかを歩いているうちに、ふいに「サイン」が目に入る。
 その「異質なもの」「文字」に警官は気がつくだろうか。
 余裕を持って、家のなかを案内していた男の意識が急にあわただしくなる。そのあわただしさが、「このサイン、」からの1行に凝縮している。「誰がここにはめこんだんだ? はめこんだのは誰だ? 誰がはめ込んだのだ、これは?」。同じことば、同じ内容が、順序をかえて3回繰り返される。そのリズムの変化が、そのまま男の同様をあらわしている。「このサイン、知らぬ宛先だぞ。」という「は」を省略して読点「、」に代弁させたリズムがとても効果的だ。中井の訳は、そういう生きた人間のリズムをとても大切にしている。


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大西若人「大地に刻まれたパターンへの感性」

2009-01-08 00:04:13 | その他(音楽、小説etc)
大西若人「大地に刻まれたパターンへの感性」(「朝日新聞」2009年01月07日夕刊)

 「ランドスケープ----柴田敏雄展」の紹介記事。その最後の部分。

 まねできそうに見えるのは、表現が明確な輪郭を備えている証しだろう。でもまねできないとしたら、表現がもっと深い構造を備えている証しだ。

 この2 行に詩を感じた。「まねできそうに見える」、でも「まねできない」。その距離の遠さ、その間に存在する淵の深さ。それが、ぐい、と体のなかに侵入してくる。
なぜだろう。
 同じことばが繰り返されている。「まね」「表現」「備えて」「証し」。その繰り返しが、同じことばをつかってしか言えないことがあり、繰り返すことで、同じ実は違ったことに触れていることを暗示し、互いに拮抗し、距離と深淵を強調するのである。そして、その非常に接近したことばどうしがショートし、火花を散らすようにして、繰り返されないことばが、瞬間的に炸裂する。
 「明確な輪郭」と「深い構造」。さらに「証しだろう」(推測)から「証しだ」(断定)への飛躍。
 あ、これは全く違った概念なのか。それとも違った形に見えるだけで同じ概念なのか。
 ふいに意識が覚醒させられる。答えのないまま。いいなあ。この感覚。酔ったように、私は大西の文章を読みなおしてしまった。

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