詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

武田肇『ベイ・ウインドー』

2009-01-12 15:19:00 | その他(音楽、小説etc)
武田肇『ベイ・ウインドー』(銅林社、2009年01月09日発行)

 武田肇の3冊目の句集である。俳句のことは私はまったくわからない。だから、俳句としてではなく、短い詩として読んだ。(引用の漢字は本文は「旧字」「正字」)
 好きな作品は、

向島商ひ中が雪の果て

 雪の中の商家が見える。客はいない。「商ひ中」の札(?)だけが健気にがんばっている。「雪の果て」というのは、作者が雪の中を歩いてきたからだろう。雪の向うに「商ひ中」という文字を見て、人恋しさに誘われる。温かいものを感じる。人のつながりを感じる。自然(気候)は非情のものである。人間の思いなんか、気にかけてはくれない。そういう気候と人情との差異といえばいいのだろうか、そういうものを超えて、こころが人情に動く。そういう瞬間がぱっと把握されていると感じる。

春愁や釦の穴へ指落つる

 釦の穴を手持ち無沙汰でまさぐる。それを「落つる」といったところが気に入っている。「落ちる」にはこういうつかい方があったのか、とうれしくなった。ただし、「春愁や」の「愁」は私にはうるさく感じられる。「愁」ではなく、もっと具体的な春、具体的ではなくても、たとえば「晩春」とか「早春」とか(春の真っ盛りはなんというのだろう--春の真っ盛りがほんとうはいい感じなのだと思うけれど)、「情緒」を含まないことばの方が、指の動きがくっきり見えると思う。指の動きにあわせて、こころが動くと思う。「春愁や」と言い切られてしまうと、指の動きがひきずられてしまって、こころに遊び(余裕?)が乏しくなる。

名月や断面はまだ闇の中

 これは、満月を詠んでいるのだと思う。私たちは月の半分しか見ていない。裏側は見ていない。それを「断面」と呼んでいる。そうか。「断面」か。驚いてしまった。それが「闇の中」というのも、とても鋭い指摘だと思った。
 武田の感覚は、ある意味でとても論理的なのだと思う。
 そして、その論理的であることが、ときどき詩を疎外するようにも感じることがある。 たとえば、

毬止まるそこまで春の裾野かな

 この作品はとても好きなものであるけれど、

砲丸を投げたそこまで夜の秋

 という作品を読んだとき、あ、私が感じている「そこまで」と武田の感じている「そこまで」は違うかもしれないと思った。
 「毬」の作品は、とてものどかな広がりを感じさせる。それは人間のわがままというか、欲望を受け入れてくる。先に書いたことと矛盾するかもしれないけれど、自然(気候)は非情なものであるけれど、非情ゆえに、人間が何をしようと気にせずに余裕を持って受け入れてくる。ころがった毬が止まった場所。そこを人間が「春」と呼ぶなら、そこまで「春」として受け入れてくれる。そういう人間と、自然との「やりとり」(交渉)を感じる。それが好きな理由。
 ところが、「砲丸」は何か違う。「そこまで」のつかい方も、ぎょっとする。センチメンタルの「論理」が強すぎる。人間と自然(気候・時間)がやりとりして「秋」が存在するというよりも、一種の押しつけのようなものを感じる。「論理」を「夜の秋」に押しつけている感じがする。これは「そこまで」というよりも、「投げた」という動詞のせいなのかなあ。

 よくわからない。

 不満を書いたついでに、嫌いな作品。

海に佇つ若きのあらば海陰る

 海さえも少年(たぶん)の若さに輝きを失う--と書くことで、少年の輝きを描いている。そういうことはよくわかるけれど、そういう「論理構造」が、どうもうるさい。「あらば」という条件づけがうるさく感じるのである。
 少し趣向は違うが

遠泳のあと少年の五指くらき

 この作品にも「論理」がある。遠泳で少年の体は冷たくなっている。そのため指が温かい色を失って、「くらく(き)」なっている。そういう「論理」が、少年の繊細な美しさを疎外している。少年のはかなさにこころを奪われている作者のゆらぎを疎外している。感覚が触れ合っているというよりも、「論理」で繊細なこころを「証明」している、という気がするのである。
 こころは「証明」するものではない、と思うのだ。「証明」が出てくると、私はうるさく感じる。


ゑとらるか―武田肇詩集
武田 肇
沖積舎

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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(1)中井久夫訳

2009-01-12 00:24:25 | リッツォス(中井久夫訳)

暗闇で    リッツォス(中井久夫訳)

日暮。点灯夫が通り過ぎた、梯子をかついで。
島のランプをともしてまわる。ドリルで暗闇に孔を開けてまわるように。
あるいは大きな黄色の泉を掘って歩くように。泉の中で
ランプは青銅色になり、上向きに揺れ、海に溺れる。
セント・ペラギア教会の鐘楼の上で十字がきらりと光った。
一匹の犬が馬小屋の後ろで吠えた。もう一匹が税関のところで--。
宿屋の看板が血を流した。男は胸をはだけて
大きなナイフを握る。女は
髪をさんばらにしたまま鉢の中の卵の白味を練る。



 前半は、とても美しい。詩を特徴づけるもの比喩であるとしたら、これはまさしく詩である。夕暮れに街灯の明かりがぽつりぽつりとついてゆく。闇と光の対比。「ドリルで暗闇に孔を開けてまわるように。」は新鮮で気持ちがいい。
 しかし、次の比喩はどうだろうか。

あるいは大きな黄色の泉を掘って歩くように。

 色は鮮やかだが、とても不思議だ。なぜ、黄色い泉? だいたい「泉」は「天」にはない。「地」にある。人間が立って歩く、その足の下にある。
 暗闇に孔を開け、そこから黄色い泉があふれだしたら、どうなるだろう。人は溺れてしまう。--あ、ここには、不思議な死がある。「島」の暮らしのひとがいつも感じている死がある。つまり、海で難破して、溺れて死んでゆく人間の、日常としての死がある。
 このイメージと非常に似通った死があった。「タナグラの女性像」のなかの、「救済の途」。嵐の夜、女は大波が階段を上ってきて、ランプを消してしまう、と恐れていた。

そうなると、海の中でランプは、溺れた男の頭みたいになるでしょう。

 水の中のランプ。そして、死。--夜の、死。
 「島」にあって、死は昼の出来事ではなく、夜の出来事である。夜を知らせるランプ、ランプに明かりを灯して歩く男は、また、死を連れてくる死神でもあるのかもしれない。死神にさそわれるように、事件が起こる。
 宿屋の前では、男が刃傷ざたを起こしている。そこだけではなく、いくつかの場所で。そして、犬が吠えている。死を、あるいは死に近いことがらを見てしまって。

 そういうときも、日常はつづいている。女は、いつものように懸命に卵白をあわだてている。料理のために。日常があり、その日常をまったく無視して死は同じように存在する。日常と死を、並列の物としてみつめる詩人がここにいる。そこには、あるいは内戦の苦悩が反映しているかもしれない。内戦の、繰り返される死が、影響しているかもしれない。非情な死が。

 リッツォスの詩の透明さは、そういう死と隣り合わせに生きる人間の孤独のせいかもしれない。

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