武田肇『ベイ・ウインドー』(銅林社、2009年01月09日発行)
武田肇の3冊目の句集である。俳句のことは私はまったくわからない。だから、俳句としてではなく、短い詩として読んだ。(引用の漢字は本文は「旧字」「正字」)
好きな作品は、
雪の中の商家が見える。客はいない。「商ひ中」の札(?)だけが健気にがんばっている。「雪の果て」というのは、作者が雪の中を歩いてきたからだろう。雪の向うに「商ひ中」という文字を見て、人恋しさに誘われる。温かいものを感じる。人のつながりを感じる。自然(気候)は非情のものである。人間の思いなんか、気にかけてはくれない。そういう気候と人情との差異といえばいいのだろうか、そういうものを超えて、こころが人情に動く。そういう瞬間がぱっと把握されていると感じる。
釦の穴を手持ち無沙汰でまさぐる。それを「落つる」といったところが気に入っている。「落ちる」にはこういうつかい方があったのか、とうれしくなった。ただし、「春愁や」の「愁」は私にはうるさく感じられる。「愁」ではなく、もっと具体的な春、具体的ではなくても、たとえば「晩春」とか「早春」とか(春の真っ盛りはなんというのだろう--春の真っ盛りがほんとうはいい感じなのだと思うけれど)、「情緒」を含まないことばの方が、指の動きがくっきり見えると思う。指の動きにあわせて、こころが動くと思う。「春愁や」と言い切られてしまうと、指の動きがひきずられてしまって、こころに遊び(余裕?)が乏しくなる。
これは、満月を詠んでいるのだと思う。私たちは月の半分しか見ていない。裏側は見ていない。それを「断面」と呼んでいる。そうか。「断面」か。驚いてしまった。それが「闇の中」というのも、とても鋭い指摘だと思った。
武田の感覚は、ある意味でとても論理的なのだと思う。
そして、その論理的であることが、ときどき詩を疎外するようにも感じることがある。 たとえば、
この作品はとても好きなものであるけれど、
という作品を読んだとき、あ、私が感じている「そこまで」と武田の感じている「そこまで」は違うかもしれないと思った。
「毬」の作品は、とてものどかな広がりを感じさせる。それは人間のわがままというか、欲望を受け入れてくる。先に書いたことと矛盾するかもしれないけれど、自然(気候)は非情なものであるけれど、非情ゆえに、人間が何をしようと気にせずに余裕を持って受け入れてくる。ころがった毬が止まった場所。そこを人間が「春」と呼ぶなら、そこまで「春」として受け入れてくれる。そういう人間と、自然との「やりとり」(交渉)を感じる。それが好きな理由。
ところが、「砲丸」は何か違う。「そこまで」のつかい方も、ぎょっとする。センチメンタルの「論理」が強すぎる。人間と自然(気候・時間)がやりとりして「秋」が存在するというよりも、一種の押しつけのようなものを感じる。「論理」を「夜の秋」に押しつけている感じがする。これは「そこまで」というよりも、「投げた」という動詞のせいなのかなあ。
よくわからない。
不満を書いたついでに、嫌いな作品。
海さえも少年(たぶん)の若さに輝きを失う--と書くことで、少年の輝きを描いている。そういうことはよくわかるけれど、そういう「論理構造」が、どうもうるさい。「あらば」という条件づけがうるさく感じるのである。
少し趣向は違うが
この作品にも「論理」がある。遠泳で少年の体は冷たくなっている。そのため指が温かい色を失って、「くらく(き)」なっている。そういう「論理」が、少年の繊細な美しさを疎外している。少年のはかなさにこころを奪われている作者のゆらぎを疎外している。感覚が触れ合っているというよりも、「論理」で繊細なこころを「証明」している、という気がするのである。
こころは「証明」するものではない、と思うのだ。「証明」が出てくると、私はうるさく感じる。
武田肇の3冊目の句集である。俳句のことは私はまったくわからない。だから、俳句としてではなく、短い詩として読んだ。(引用の漢字は本文は「旧字」「正字」)
好きな作品は、
向島商ひ中が雪の果て
雪の中の商家が見える。客はいない。「商ひ中」の札(?)だけが健気にがんばっている。「雪の果て」というのは、作者が雪の中を歩いてきたからだろう。雪の向うに「商ひ中」という文字を見て、人恋しさに誘われる。温かいものを感じる。人のつながりを感じる。自然(気候)は非情のものである。人間の思いなんか、気にかけてはくれない。そういう気候と人情との差異といえばいいのだろうか、そういうものを超えて、こころが人情に動く。そういう瞬間がぱっと把握されていると感じる。
春愁や釦の穴へ指落つる
釦の穴を手持ち無沙汰でまさぐる。それを「落つる」といったところが気に入っている。「落ちる」にはこういうつかい方があったのか、とうれしくなった。ただし、「春愁や」の「愁」は私にはうるさく感じられる。「愁」ではなく、もっと具体的な春、具体的ではなくても、たとえば「晩春」とか「早春」とか(春の真っ盛りはなんというのだろう--春の真っ盛りがほんとうはいい感じなのだと思うけれど)、「情緒」を含まないことばの方が、指の動きがくっきり見えると思う。指の動きにあわせて、こころが動くと思う。「春愁や」と言い切られてしまうと、指の動きがひきずられてしまって、こころに遊び(余裕?)が乏しくなる。
名月や断面はまだ闇の中
これは、満月を詠んでいるのだと思う。私たちは月の半分しか見ていない。裏側は見ていない。それを「断面」と呼んでいる。そうか。「断面」か。驚いてしまった。それが「闇の中」というのも、とても鋭い指摘だと思った。
武田の感覚は、ある意味でとても論理的なのだと思う。
そして、その論理的であることが、ときどき詩を疎外するようにも感じることがある。 たとえば、
毬止まるそこまで春の裾野かな
この作品はとても好きなものであるけれど、
砲丸を投げたそこまで夜の秋
という作品を読んだとき、あ、私が感じている「そこまで」と武田の感じている「そこまで」は違うかもしれないと思った。
「毬」の作品は、とてものどかな広がりを感じさせる。それは人間のわがままというか、欲望を受け入れてくる。先に書いたことと矛盾するかもしれないけれど、自然(気候)は非情なものであるけれど、非情ゆえに、人間が何をしようと気にせずに余裕を持って受け入れてくる。ころがった毬が止まった場所。そこを人間が「春」と呼ぶなら、そこまで「春」として受け入れてくれる。そういう人間と、自然との「やりとり」(交渉)を感じる。それが好きな理由。
ところが、「砲丸」は何か違う。「そこまで」のつかい方も、ぎょっとする。センチメンタルの「論理」が強すぎる。人間と自然(気候・時間)がやりとりして「秋」が存在するというよりも、一種の押しつけのようなものを感じる。「論理」を「夜の秋」に押しつけている感じがする。これは「そこまで」というよりも、「投げた」という動詞のせいなのかなあ。
よくわからない。
不満を書いたついでに、嫌いな作品。
海に佇つ若きのあらば海陰る
海さえも少年(たぶん)の若さに輝きを失う--と書くことで、少年の輝きを描いている。そういうことはよくわかるけれど、そういう「論理構造」が、どうもうるさい。「あらば」という条件づけがうるさく感じるのである。
少し趣向は違うが
遠泳のあと少年の五指くらき
この作品にも「論理」がある。遠泳で少年の体は冷たくなっている。そのため指が温かい色を失って、「くらく(き)」なっている。そういう「論理」が、少年の繊細な美しさを疎外している。少年のはかなさにこころを奪われている作者のゆらぎを疎外している。感覚が触れ合っているというよりも、「論理」で繊細なこころを「証明」している、という気がするのである。
こころは「証明」するものではない、と思うのだ。「証明」が出てくると、私はうるさく感じる。
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