林嗣夫「神戸で」(「兆」140 、2008年10月30日発行)
林嗣夫「神戸で」は神戸で開かれた詩のゼミナールに参加したときのことを、高知から出発するところから書き起こしている。
とうい魅力的な部分がある。「肉体」の感覚にとても正直な詩人である。「いま」という時間を私たちは生きているが「肉体」が「いま」という時間になじむには少し時間がかかる。「肉体」のなかには「過去」が、それまで過ごしてきた「時間」が蓄積していて、それが「頭」のようには、デジタルな切り換えができない。そういう「ずれ」に、林はとても敏感であると思う。「肉体」に正直な人間だけが明確に意識できるずれだと思う。
この「ずれ」を見つめる視線で、岩成達也の講演や、清水恵子の朗読、そして二次会の様子などが静かに語られる。
そして、最終連。これが、とてもすばらしい。
旅に疲れて夢を見る。その夢には「肉体」の奥に深くしまいこまれていたものが、疲れた「頭」のゆるんだ(?)ところから、いきいきとあらわれてくる。「頭」は、ふつうそういう意識をしっかりと制御しているのだが、いろいろなことに気を配り、いつも制御している部分を忘れてしまうのかもしれない。そういう瞬間をねらって、「肉体」にしっかりしみついている何かが復権してくる。「肉体」はいつでも生きていて、それは「いま」のなかにあらわれる時期をねらっているかのようである。人間は「肉体」なんだ、と主張しようとしているようである。林は、その主張をしっかりと受け止める。つまり、正確に「ことば」にして、「頭」へむけて報告するのである。
たぶん、そんなふうに「肉体」の「ことば」を「頭」にきちんと報告することで、林は林の暮らし(思想・いのち)をととのえてきたのだろう。そこには「正直」に生きようとする林の「ひとがら」がにじんでいる。個性、というよりは、「ひとがら」。ひとがひとを好きになるときに、ぼんやりとつつみこまれる境界線のないひろがり--そういうものが、その境界性のないままの形でにじんでくる。
境界線のない形なので、これをことばで説明するのはむずかしい。ただ、そういうものを感じるとしか、私には書けないのだが……。
神戸への旅から帰って、高知の「いま」がふたたび始まる。そのとき、林の「肉体」は、そのいのちがつながっている母のことを具体的に思い出す。「頭」は神戸で刺激を受けた記憶を抱え込んでいるが、そういう「新しい」記憶ではなく、ずーっとつづいているもの、「記憶」とは呼ぶことのできない「いま」が、「肉体」が、そういう「頭」をひっかきまわす。夢は現実になり、現実は夢にもなる。こういう瞬間、あるいは、こういうことに対しても、林はとても正直である。いや、正直に「なる」。正直に「なる」こと、正直ななことばを書き記すことで、自分自身をととのえる。
この「どうしようもない」の美しさ。思わず涙が出る。
「肉体」にも「頭」にも正直である林は、そのどちらでもたどりつけないものがあることを知ってしまった。知ってしまって、それでも何かをしたい。何かをしたいけれど、それがどんなぐあいに結実するのか、見当がつかない。
「どうしようもない」けれど、やはりお土産を買って帰るのである。「どうしようもない」からこそ、「肉体」が知っていることを、「思想」を具体的な形にするしかないのである。
この絶望は、愛である。哀しいと愛しいが重なり合い、境界線がなくなり、ただ「いのち」としてひろがる。そのはてしないひろがりが、とても美しい。
林嗣夫「神戸で」は神戸で開かれた詩のゼミナールに参加したときのことを、高知から出発するところから書き起こしている。
早く着きすぎたから
ロビーで携えてきた本を読む
読みながら要所に線を引こうとするのだが
どうもまっすぐに引けない
指はまだバスに乗っていて
旅をつづけているらしい
とうい魅力的な部分がある。「肉体」の感覚にとても正直な詩人である。「いま」という時間を私たちは生きているが「肉体」が「いま」という時間になじむには少し時間がかかる。「肉体」のなかには「過去」が、それまで過ごしてきた「時間」が蓄積していて、それが「頭」のようには、デジタルな切り換えができない。そういう「ずれ」に、林はとても敏感であると思う。「肉体」に正直な人間だけが明確に意識できるずれだと思う。
この「ずれ」を見つめる視線で、岩成達也の講演や、清水恵子の朗読、そして二次会の様子などが静かに語られる。
そして、最終連。これが、とてもすばらしい。
山の中腹にあるむが家に帰り着いたのは
夜明けも近いかと思われる真夜中だった
街で 親しい仲間と飲んでいたのだ
やっとここまできて
歩いて小道を登ってきて
暗い庭の
涼み台に腰掛けて一服しようとしたら
家の戸口を開けて母が出てきた
わたしが帰るのを
ずっと土間あたりで待っていたのだろう
母は腰かけているわたしのところへ来ると
赤ん坊におちちをふくませる時のように
着物の胸を開き
無言で わたしの頭を抱き寄せた
それから 今度はわたしが立ち上がって
背の低い母を抱いた
山の中腹にあるわが家の庭
夜明けが近いのか
かすかにカナカナが聞こえてきた
目が覚めたのは
神戸のビジネスホテルである
やはり 詩に疲れている
きょうはちょっと観光をして
お昼すぎの高速バスで高知へ帰る
母は91歳
要介護5 極度の認知症
絶対他者のほうへ行ってしまった
お土産でも買って帰りたいが
買ってもどうしようもない
旅に疲れて夢を見る。その夢には「肉体」の奥に深くしまいこまれていたものが、疲れた「頭」のゆるんだ(?)ところから、いきいきとあらわれてくる。「頭」は、ふつうそういう意識をしっかりと制御しているのだが、いろいろなことに気を配り、いつも制御している部分を忘れてしまうのかもしれない。そういう瞬間をねらって、「肉体」にしっかりしみついている何かが復権してくる。「肉体」はいつでも生きていて、それは「いま」のなかにあらわれる時期をねらっているかのようである。人間は「肉体」なんだ、と主張しようとしているようである。林は、その主張をしっかりと受け止める。つまり、正確に「ことば」にして、「頭」へむけて報告するのである。
たぶん、そんなふうに「肉体」の「ことば」を「頭」にきちんと報告することで、林は林の暮らし(思想・いのち)をととのえてきたのだろう。そこには「正直」に生きようとする林の「ひとがら」がにじんでいる。個性、というよりは、「ひとがら」。ひとがひとを好きになるときに、ぼんやりとつつみこまれる境界線のないひろがり--そういうものが、その境界性のないままの形でにじんでくる。
境界線のない形なので、これをことばで説明するのはむずかしい。ただ、そういうものを感じるとしか、私には書けないのだが……。
神戸への旅から帰って、高知の「いま」がふたたび始まる。そのとき、林の「肉体」は、そのいのちがつながっている母のことを具体的に思い出す。「頭」は神戸で刺激を受けた記憶を抱え込んでいるが、そういう「新しい」記憶ではなく、ずーっとつづいているもの、「記憶」とは呼ぶことのできない「いま」が、「肉体」が、そういう「頭」をひっかきまわす。夢は現実になり、現実は夢にもなる。こういう瞬間、あるいは、こういうことに対しても、林はとても正直である。いや、正直に「なる」。正直に「なる」こと、正直ななことばを書き記すことで、自分自身をととのえる。
お土産でも買って帰りたいが
買ってもどうしようもない
この「どうしようもない」の美しさ。思わず涙が出る。
「肉体」にも「頭」にも正直である林は、そのどちらでもたどりつけないものがあることを知ってしまった。知ってしまって、それでも何かをしたい。何かをしたいけれど、それがどんなぐあいに結実するのか、見当がつかない。
「どうしようもない」けれど、やはりお土産を買って帰るのである。「どうしようもない」からこそ、「肉体」が知っていることを、「思想」を具体的な形にするしかないのである。
この絶望は、愛である。哀しいと愛しいが重なり合い、境界線がなくなり、ただ「いのち」としてひろがる。そのはてしないひろがりが、とても美しい。
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