江代充「黒いミニ」(「現代詩手帖」2009年01月号)
江代充「黒いミニ」も、平出隆と同じように、文体だけを読ませる詩である。「黒いミニ」は2篇の詩から構成されている。そのうちの「夢のたとえ」。
1行目の「そこから」の「そこ」。「そこ」って、どこ? 先行することばはない。読者にはわからない「そこ」である。わからないものを冒頭に置くことで、ことばは緊張する。ふつうの動きとは違った動きをとるしかなくなる。
わからないところから入って、「公孫樹」に出会う。これは、だれが見ても「公孫樹」だろう。見る人によって「ケヤキ」や「メタセコイア」になるわけではない。ところが、次に出てくる「勝手口」はどうだろうか。ある建物の扉が「勝手口」であるかどうかわかるのは、そこに住んだことがあるひと、あるいはそこへ尋ねてきたことがあるひとに限られる。家の構造をぐるりと見て回れば「勝手口」と想像がつくことはあるが、見知らぬ建物の「勝手口」へ向かうということは、ふつうはできない。そう思っていると、3行目に「生家」ということばが出てくる。ここまできて、読者は「そこ」というのは「生家」の近くの空き地を囲んでいる塀か柵か何かだと推測できる。
その推測までの、間。それが江代の文体である。文体の特徴である。「わざと」わからないような要素を冒頭に置いて、そこからことばを動かしていく。読者を緊張させておいてことばを動かしていく。
そして、その途中には「手帳の幅に対面してながめられる」というような、これもわかったような、わからないような比喩(?)が書かれる。緊張しているので、もう、それは信じるしかない。信じられることば(わかっているこことば)が少ないのだから、そこに書いてあることばを信じないことには、これから始まることがわからない。そうやって、いわば読者の緊張を増幅させる。
そこからは、緊張でぎこちなくなったまま、ことばはさらにさらに、わかったようなわからないような方向へ動いていく。
なんだろう、これは。
「ことにより」というのは、理由を指し示すことばだろう。だが、「複数の雲」が広がっていたとして、そんなものが人間の何かを語るときの「理由」になどなるだろうか。しかも、語る内容が「殺された息子のたとえ」とは。
「たとえ」って何?
ことばはわかるのに、なんのことかわからない。
「それが」もわからない。「雲」そのものなのか、雲が浮きでていることなのか。
わからないことだらけである。
非常にまだるっこしい。なぜまだるっこしいかといえば、そこに書かれていることばのひとつひとつは明瞭なのに、知っていることばなのに、それが何かとしっかり結び合うということがないからだ。
やっと「生家」と「息子」にたどりついたのに……。
それでも、私は、江代のことばに詩を感じる。そして、そのとき感じている詩とは、実は、まだるっこしさである。私は書きたいことを、こんなふうにまだるっこしくは書かない。(書けない。)そこには、不思議な迂回、間、というものがある。対象に接近していくときの、回り道と、回り道をすることによって生まれる「距離」、「不必要な」きょりがある。
不必要--というのは、正確な散文、流通のためなの散文には不必要な、という意味である。
詩とは、不必要なものなのである。流通言語を批判するあらゆることばが詩なのである。流通させまいとする抵抗--その精神の力が詩である。どうやって、ことばを、いま流通していることばから切り離し、ことばそれ自体のふくらみを回復するか。そのための、果敢な行為が文学であり、詩なのだ。そういう文体を作り上げることが、詩人になることなのだ。
それにしても。
これはなんと美しい1行であることか。手帳には何が書いてあるのだろう。その手帳を見ながら、生家をながめているのだろうか。ちょうど手帳の幅に生家が見える距離。そういう距離の取り方。そんなところから生家をながめるという行為。そうしたもののなかにある、静かな静かな、ゆらぎ。こころのゆらぎ。そのゆらぎを肉体になじませるために、江代は、一見まだるっこしく見える文体をつくりあげている。
静かなこころのゆらぎと、それを肉体になじませることに関心のない人には、この文体は納得できないかもしれない。でも、そういうことを密かに必要としているひとには、たまらなく魅力的な文体だといえる。
江代充「黒いミニ」も、平出隆と同じように、文体だけを読ませる詩である。「黒いミニ」は2篇の詩から構成されている。そのうちの「夢のたとえ」。
明け方そこから隣接する空地の側へはいり
公孫樹のかげになる勝手口に向うあいだ
手帳の幅に対面してながめられる生家の一側面をみる
また広い範囲に 複数の雲が自然と浮きだしていることにより
それが殺された息子のたとえを語るときの
子の自覚であることがわかってくる
1行目の「そこから」の「そこ」。「そこ」って、どこ? 先行することばはない。読者にはわからない「そこ」である。わからないものを冒頭に置くことで、ことばは緊張する。ふつうの動きとは違った動きをとるしかなくなる。
わからないところから入って、「公孫樹」に出会う。これは、だれが見ても「公孫樹」だろう。見る人によって「ケヤキ」や「メタセコイア」になるわけではない。ところが、次に出てくる「勝手口」はどうだろうか。ある建物の扉が「勝手口」であるかどうかわかるのは、そこに住んだことがあるひと、あるいはそこへ尋ねてきたことがあるひとに限られる。家の構造をぐるりと見て回れば「勝手口」と想像がつくことはあるが、見知らぬ建物の「勝手口」へ向かうということは、ふつうはできない。そう思っていると、3行目に「生家」ということばが出てくる。ここまできて、読者は「そこ」というのは「生家」の近くの空き地を囲んでいる塀か柵か何かだと推測できる。
その推測までの、間。それが江代の文体である。文体の特徴である。「わざと」わからないような要素を冒頭に置いて、そこからことばを動かしていく。読者を緊張させておいてことばを動かしていく。
そして、その途中には「手帳の幅に対面してながめられる」というような、これもわかったような、わからないような比喩(?)が書かれる。緊張しているので、もう、それは信じるしかない。信じられることば(わかっているこことば)が少ないのだから、そこに書いてあることばを信じないことには、これから始まることがわからない。そうやって、いわば読者の緊張を増幅させる。
そこからは、緊張でぎこちなくなったまま、ことばはさらにさらに、わかったようなわからないような方向へ動いていく。
また広い範囲に 複数の雲が自然と浮きだしていることにより
それが殺された息子のたとえを語るときの
子の自覚であることがわかってくる
なんだろう、これは。
「ことにより」というのは、理由を指し示すことばだろう。だが、「複数の雲」が広がっていたとして、そんなものが人間の何かを語るときの「理由」になどなるだろうか。しかも、語る内容が「殺された息子のたとえ」とは。
「たとえ」って何?
ことばはわかるのに、なんのことかわからない。
「それが」もわからない。「雲」そのものなのか、雲が浮きでていることなのか。
わからないことだらけである。
非常にまだるっこしい。なぜまだるっこしいかといえば、そこに書かれていることばのひとつひとつは明瞭なのに、知っていることばなのに、それが何かとしっかり結び合うということがないからだ。
やっと「生家」と「息子」にたどりついたのに……。
それでも、私は、江代のことばに詩を感じる。そして、そのとき感じている詩とは、実は、まだるっこしさである。私は書きたいことを、こんなふうにまだるっこしくは書かない。(書けない。)そこには、不思議な迂回、間、というものがある。対象に接近していくときの、回り道と、回り道をすることによって生まれる「距離」、「不必要な」きょりがある。
不必要--というのは、正確な散文、流通のためなの散文には不必要な、という意味である。
詩とは、不必要なものなのである。流通言語を批判するあらゆることばが詩なのである。流通させまいとする抵抗--その精神の力が詩である。どうやって、ことばを、いま流通していることばから切り離し、ことばそれ自体のふくらみを回復するか。そのための、果敢な行為が文学であり、詩なのだ。そういう文体を作り上げることが、詩人になることなのだ。
それにしても。
手帳の幅に対面してながめられる生家の一側面をみる
これはなんと美しい1行であることか。手帳には何が書いてあるのだろう。その手帳を見ながら、生家をながめているのだろうか。ちょうど手帳の幅に生家が見える距離。そういう距離の取り方。そんなところから生家をながめるという行為。そうしたもののなかにある、静かな静かな、ゆらぎ。こころのゆらぎ。そのゆらぎを肉体になじませるために、江代は、一見まだるっこしく見える文体をつくりあげている。
静かなこころのゆらぎと、それを肉体になじませることに関心のない人には、この文体は納得できないかもしれない。でも、そういうことを密かに必要としているひとには、たまらなく魅力的な文体だといえる。
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