詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

江代充「黒いミニ」

2009-01-11 03:14:55 | 詩(雑誌・同人誌)
江代充「黒いミニ」(「現代詩手帖」2009年01月号)

 江代充「黒いミニ」も、平出隆と同じように、文体だけを読ませる詩である。「黒いミニ」は2篇の詩から構成されている。そのうちの「夢のたとえ」。

明け方そこから隣接する空地の側へはいり
公孫樹のかげになる勝手口に向うあいだ
手帳の幅に対面してながめられる生家の一側面をみる
また広い範囲に 複数の雲が自然と浮きだしていることにより
それが殺された息子のたとえを語るときの
子の自覚であることがわかってくる

 1行目の「そこから」の「そこ」。「そこ」って、どこ? 先行することばはない。読者にはわからない「そこ」である。わからないものを冒頭に置くことで、ことばは緊張する。ふつうの動きとは違った動きをとるしかなくなる。
 わからないところから入って、「公孫樹」に出会う。これは、だれが見ても「公孫樹」だろう。見る人によって「ケヤキ」や「メタセコイア」になるわけではない。ところが、次に出てくる「勝手口」はどうだろうか。ある建物の扉が「勝手口」であるかどうかわかるのは、そこに住んだことがあるひと、あるいはそこへ尋ねてきたことがあるひとに限られる。家の構造をぐるりと見て回れば「勝手口」と想像がつくことはあるが、見知らぬ建物の「勝手口」へ向かうということは、ふつうはできない。そう思っていると、3行目に「生家」ということばが出てくる。ここまできて、読者は「そこ」というのは「生家」の近くの空き地を囲んでいる塀か柵か何かだと推測できる。
 その推測までの、間。それが江代の文体である。文体の特徴である。「わざと」わからないような要素を冒頭に置いて、そこからことばを動かしていく。読者を緊張させておいてことばを動かしていく。
 そして、その途中には「手帳の幅に対面してながめられる」というような、これもわかったような、わからないような比喩(?)が書かれる。緊張しているので、もう、それは信じるしかない。信じられることば(わかっているこことば)が少ないのだから、そこに書いてあることばを信じないことには、これから始まることがわからない。そうやって、いわば読者の緊張を増幅させる。
 そこからは、緊張でぎこちなくなったまま、ことばはさらにさらに、わかったようなわからないような方向へ動いていく。

また広い範囲に 複数の雲が自然と浮きだしていることにより
それが殺された息子のたとえを語るときの
子の自覚であることがわかってくる

 なんだろう、これは。
 「ことにより」というのは、理由を指し示すことばだろう。だが、「複数の雲」が広がっていたとして、そんなものが人間の何かを語るときの「理由」になどなるだろうか。しかも、語る内容が「殺された息子のたとえ」とは。
 「たとえ」って何?
 ことばはわかるのに、なんのことかわからない。
 「それが」もわからない。「雲」そのものなのか、雲が浮きでていることなのか。
 わからないことだらけである。

 非常にまだるっこしい。なぜまだるっこしいかといえば、そこに書かれていることばのひとつひとつは明瞭なのに、知っていることばなのに、それが何かとしっかり結び合うということがないからだ。
 やっと「生家」と「息子」にたどりついたのに……。

 それでも、私は、江代のことばに詩を感じる。そして、そのとき感じている詩とは、実は、まだるっこしさである。私は書きたいことを、こんなふうにまだるっこしくは書かない。(書けない。)そこには、不思議な迂回、間、というものがある。対象に接近していくときの、回り道と、回り道をすることによって生まれる「距離」、「不必要な」きょりがある。
 不必要--というのは、正確な散文、流通のためなの散文には不必要な、という意味である。
 詩とは、不必要なものなのである。流通言語を批判するあらゆることばが詩なのである。流通させまいとする抵抗--その精神の力が詩である。どうやって、ことばを、いま流通していることばから切り離し、ことばそれ自体のふくらみを回復するか。そのための、果敢な行為が文学であり、詩なのだ。そういう文体を作り上げることが、詩人になることなのだ。

 それにしても。

手帳の幅に対面してながめられる生家の一側面をみる

 これはなんと美しい1行であることか。手帳には何が書いてあるのだろう。その手帳を見ながら、生家をながめているのだろうか。ちょうど手帳の幅に生家が見える距離。そういう距離の取り方。そんなところから生家をながめるという行為。そうしたもののなかにある、静かな静かな、ゆらぎ。こころのゆらぎ。そのゆらぎを肉体になじませるために、江代は、一見まだるっこしく見える文体をつくりあげている。
 静かなこころのゆらぎと、それを肉体になじませることに関心のない人には、この文体は納得できないかもしれない。でも、そういうことを密かに必要としているひとには、たまらなく魅力的な文体だといえる。




隅角 ものかくひと
江代 充
思潮社

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リッツォス「棚(1969)」より(7)中井久夫訳

2009-01-11 01:08:48 | リッツォス(中井久夫訳)
視力を回復した少女    リッツォス(中井久夫訳)

あっ、と彼女は言った。また見えるようになったんだわ。何年も自分のものでなかった眼。眼は私の中に沈み込んでいた。暗い、深い水の中に沈んだ二個の鋳型のような小石だった。黒い水。今は--。雲ってあれなのね。薔薇ってこれなのね。木の葉がこれ。緑ね。み-ど-り。これ、私の声ね。そうよね。私の声、聞こえて? 声と眼--これね。自由ってものはこれね。あ、下の地下室にお盆を忘れてきたわ、大きな、ほら、銀の。それにカード・ボックスも、鳥籠も、糸巻も。



 私はこの詩が大好きだ。「これ、私の声ね。」ここが、大好きだ。
 少女は声を取り戻したのではない。視力を取り戻した。けれど、視力を取り戻すことは単に見えるようになったということを超えるのだ。新しい感覚が、それまで眠っていた別の感覚、肉体の意識を呼び覚ます。その結果、いままでと同じものであるはずのものも、違った風に感じられるのだ。
 そして、そのあと。

自由ってものはこれね。

 あ、そうなのだ。自由とは、いままでとは違った感覚の融合のことである。新しい感覚の発見のことである。
 声が変わったのは(「私の声ね。」と確かめずにいられないのは)、喜びのためにほんとうに声が明るく変わったのか、それとも耳の感覚が視覚に影響されて変化したのか--それは、わからない。また、わかる必要もない。必要なのは、人間の感覚というのは、そんなふうにいつでも生まれ変わるということを知ることだ。
 そして、そういう新しい感覚こそが「自由」なのである。

 詩の存在理由はここにある。
 詩は、いままで存在しなかったあたらしい感覚の動きをことばで書き表す。それは人間の可能性の表現であり、そういう可能性こそが「自由」なのである。「自由」になるために、人間は、リッツォスは詩を書くのだ。

 だから、銀の盆、カード・ボックス、鳥籠、糸巻は、ほんとうに地下室に「忘れてきた」のか、捨て去ってきたのか、これも実はわからないことになる。盲目だったとき、それらはきってと、少女のかけがえのないよりどころだった。いま、視力を取り戻し、新しい世界に、自由な世界に生まれ変わったのだから、もう少女は、それらを「よりどころ」としなくても大丈夫なのだ。
 大丈夫だから、「忘れてきたわ」とは言うものの、「取りに戻らなければ」とは言わないのだ。

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