詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

早矢仕典子「十月の鯨の顎の下で」

2009-01-18 13:22:37 | 詩(雑誌・同人誌)
早矢仕典子「十月の鯨の顎の下で」(「橄欖」83、2008年12月10日)

 早矢仕典子「十月の鯨の顎の下で」にとても魅力的な行がある。作品の2連目。

南向きの校舎の窓には 西日が
白い内壁に刻まれた窓枠の影がみえる
あれは 六十年前に見たはずの影だったか
それとも 六十年後に見るはずの影だろうか と記憶をたどる

 母校かどうかはわからないが、夕方の学校。校庭から見ると、窓枠の影が壁に映っているのが見える。それは60年前に見た影だったか--ここまでは、普通の感想である。その次の行がおもしろい。

それとも 六十年後に見るはずの影だろうか と記憶をたどる

 これは、これから60年後に見る影だろうか、という意味ではない。そうではなくて、60年前、つまり子供だったとき、同じように壁に映った影を見ながら、この影を「六十年後に見るはずの影だろうか」と思ったかどうか、その「記憶をたどる」というのである。60年前にもどって、その影をどんな思いで見たのだろうか、と記憶をたどる。
 子供のとき、そんなことは、まず考えない。壁に映る窓枠の影を美しいと思い、それをいつか大人になったとき思い出すだろうかというようなことはふと頭をよぎるかもしれないが、そこに「60年後」という具体的な数字は出てこない。
 「六十年後」という具体的な数字は、いまが「六十年後」だからはじめて生まれてくるものである。そしてそれは、「頭」で考える数字ではない。「肉体」が呼び寄せる数字である。ぐい、とひとまとめにしてしまう力が「肉体」にはある。
 「頭」にとって、「六十年前」と「六十年後」はまったく違う。けれども、「肉体」にとってはそうではない。それは校庭から教室の壁を見る、そこに窓枠の影が映っているのを見る。ああ、秋なんだなあ。秋の夕暮れなんだなあ、と思う。その思いだけが「肉体」にとっての真実であり、そこでは60年という時間は消えてしまう。
 それは「60年」という時間が「肉体」になってしまったということである。
 そういう「時間」と「肉体」のありようを引き継いで、4連目。ここにも、とても美しいことばがある。

アパートの階段を上りきったところに
ナルセさんが手すりにもたれかかって立っている
公園の 残り少ない今日の日の光の中で遊ぶ愛息の姿を見つめている
振り返ると
私たちは何事かを話す
とうにわすれてしまっていたような なつかしい十月の話

 「振り返ると」の主語はなんだろう。「愛息」だろう。子供が振り返る。その振り返るという肉体の動きに誘われて、私たちも「振り返る」のである。「手すり」の背後を、ではなく、「私たち」の「肉体」の背後を。もしかしたら、そこには「愛息」が「六十年後」に見るなにものかが存在するかもしれない。それは「壁に映った窓枠の影」ではなく、母親たちが手すりにもたれて子供を見守っているという姿である。そして、それはきっと、早矢仕が、やはり遠い昔に見つめたことがある彼女自身の母たちの姿なのではないだろうか。
 あるいは、遊びの最中に、ふと母親の存在を振り返って確かめたときの記憶かもしれない。離れた場所で、互いに「ここにいるよ」「みつめているよ」とことばではなく、目と目で確かめあった、その温かい感情。おっぱいのにおいのような、あまい、うれしい感情。--そういう、視線をかわすこと、見つめ合うことによって生まれる、母と息子の「間」の空気。空気を見るのだ。
 私たちが見るのは、いつも空気なのだ。何かと何かの間に存在するものなのだ。壁に映った窓枠と私の間にある空気。それは、いまも60年前もかわらない。そして、母と息子の間にある空気も、時代がどんなにかわろうとかわらない。
 肉体、別個の肉体(私の肉体と、ナルセさんの愛息の肉体、そしてナルセさんの肉体)を媒介にして、その空気のなかに、長い長い時間が溶け合う。溶け合って「永遠」になる。それは「わすれてしまっていたような なつかしい」なにごとかである。
 「永遠」はなつかしい。「永遠」はいつでもすぐそばにある。空気そのものとして存在する。それはほとんど「いま」と同義語である。だから、私たちはそれをわすれてしまっている。「いま」だけにしばられて忙しく生きているように感じる。でも、そうではなく、いつでもそばにある。いつでもその「永遠」のなかを生きている。それに気がつかないだけだ。

 「肉体」のなかにある「永遠」。時をこえるなつかしさ。60年生きた「肉体」が、そういうものを静かに抱きしめている。あたたかい、とてもあたたかくて、いい詩だ。


詩集 空、ノーシーズン―早矢仕典子詩集
早矢仕 典子
ふらんす堂

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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(7)中井久夫訳

2009-01-18 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
第三の男    リッツォス(中井久夫訳)

男が三人、海をみつめていた。窓の下に坐って。
一人が海を語った。二人目が聴いた。三人目は語りもせず、
聴きもしなかった。海中深く潜っていた。浮かび上がった。
窓ガラスの向う側で彼の動きがひどくのろのろして見えた。
うすい青色に染まってはっきり見えた。沈んだ船を探検しているのだ。
その生命の失われた時鐘を鳴らしてみた。こまかな泡が
かすかな音とともにどっと昇って行った。
--突然「あいつ、溺れたのか?」と誰かが尋ねた。聞かれた相手は
「うん、溺れたね」と言った。三人目が海中から絶望して二人を見た、
溺れた人間を見る目付きで--。



 この詩は2種類の読み方ができる。1行目の「三人」というのは実は3人ではない。昔は3人でいっしょに行動していた。友達だ。3人のうち1人が溺れ死んだ。2人は、その彼のことを思い出して語っている。溺れたときの様子を。1人が語り、もう1人が聞いている。それは、ある意味での追悼である。
 もう一つ別の読み方ができる。生き残ったのは1人である。2人は溺れ死んでしまった。そして、その遺体はまだあがっていない。残された1人は、2人の遺体を探して沈没した船へと潜っている。そして、夢を見ている。溺れたのが2人ではなく、ほんとうはじぶんひとりが溺れ、残された2人は、溺れた彼のことを窓の下で坐って思い出し、語っている--と。2行目から3行目の「三人目は語りもせず/聴きもしなかった」は、そういうことを想像させる。3人目は、2人と自分が逆だったらどんなにいいだろうと思いながら2人を探しているのである。かわれるなら、かわってやりたい。そういう強い友情で結びついているのだろう。

 リッツォスの詩は、いつも不思議なドラマを内包している。そのドラマは、読者の読み方によってさまざまにかわる。かわることを受け入れて、読者に向かって開かれている。ドラマとは、たぶん、読者のなかにあるのだ。ストーリーはいつでも読者のなかにあるのだ。その眠っているストーリー、ドラマを呼び覚ますのが詩である。リッツォスの詩である。
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