詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小池昌代、林浩平、吉田文憲編『生きのびろ、ことば』

2009-01-29 11:18:48 | 詩集
小池昌代、林浩平、吉田文憲編『生きのびろ、ことば』(三省堂、2009年02月05日発行)
 詩人たちの、詩に関する(あるいは、ことばに関するというべきなのか)エッセイである。そのうちの、小池昌代の「言葉以前」にちょっと不思議な文章があった。中年になって、自然に目が向くようになった。自然は、ことばをもたない、と書いたあと。

 たとえば、夏の朝、朝顔が三つ、四つ咲いているのを見ただけでも、わたしはうれしい。ほんとうにうれしい。最初は、そんな自分の感情にとまどった。なんとババ臭い現象だろうと。でも飽きない。ほんとに飽きない。携帯電話はじっと見つめていられないけれど、朝顔というものは永遠に見つめていていいといわれたら、できそうな気がする。それは生命というものが変化するから。
 そこには何の言葉も介在しない。ダイレクトに、わたしと朝顔の命が結びついている。世界にそのように感応したとき、これはわたしの癖かもしれないが、その経験を、言葉に置き換えておきたいという欲望が生まれる。

 私は、とても違和感を感じた。小池と私は同一人物ではないから違う感じを持って当然なのだが、一か所、不思議でしようがない文がある。

携帯電話はじっと見つめていられないけれど、

 え、そうなんだ。そうなのか? どうして? と思わず私は声に出してしまった。
 私も自然を見つめるのが好きである。小池が書いているようにことばを持たないからである。私が何度も書いてきたことばを繰り返せば、自然は「非情」だからである。人間が何を考えているか、少しも考えてくれないからである。人間のことなど少しも配慮しない。自然はわがままに生きている。私が悲しかろうがうれしかろうが、そんなこととはかかわりなく勝手に生きている。
 そして、私にとっては、携帯電話も同じように非情である。携帯電話は何にも考えていない。私のことなど何の配慮もしない。私は、こういうものは、いつまでも見つめていることができる。
 私がじっーと見つめていることができないもの、それは人間である。あるいは、ある種の動物である。私も反応するけれど、相手も反応する。これは、面倒くさい。見つめていることができない。ことばをつかわなくても、ことばが行き来する。ことばをつかわないときの方が面倒くさい。ことばにならない分だけ、よけいに何かが行き来する。ことばにするときは、なんといっても「話すスピード」に限界がある。ところが、ことばを「声」にしないと、それはとんでもないスピードで動いてしまうし、とんでもない飛躍もする。実際にことばをかわすと、飛躍すると、「飛躍だ」「矛盾だ」と批判がかえってくるが、ことばにしないと、それはまったく無軌道にどこまでも動いてしまう。これは面倒くさい。
 私が自然が好きなのは、そういう無軌道なことばを自然はいっさい配慮しない点である。反論しない。肯定もしない。「勝手にしたら」とでも思っているのかもしれないが、その無反応、無配慮が、なんというのだろう、こころをさっぱりと洗ってくれる。
 これは携帯電話も同じである。私のことばに反論もしなければ肯定もしない。さっぱりしたものである。携帯電話に限らない。机や椅子、鞄、手袋もマフラーも同じである。私には、自然と人工物の区別がない。どちらも見ていて飽きない。いつまでも見ていることができる。それはことばをもたない。もたないゆえに、いつでも私のことばを洗い流してくれる。

 小池は、自然(朝顔)は「生命が変化する」と書いている。それはそのとおりだと思う。一方、私には携帯電話も「生命が変化する」と感じてしまう。人間の作ったあらゆるものは、「生命が変化する」。それは草木のように枯れて死んで行くという形はとらないかもしれないが、動かなくなったり、つかわれなくなったりして、無用のものとなる。無用のものとなったあとも、やはりいのちは変化しつづけているのだが、その変化を測る尺度が人間の「いのち(寿命)」を測る単位と違うから見えにくいだけなのだと思う。携帯電話などの人工物にとって「いのち」というのは2種類ある。ひとつは、存在そのものの「寿命」。もうひとつは、それをつくったひとの「思い」。いずれも人間の「寿命」を測る単位とは違っているので、なかなか見えにくい。
 いいかえれば、携帯電話は、やはりことばをもたないけれど、それは私と直接かわすことばをもたないというだけであって、そこには「ことば」がある。それをつくりあげた人間の「ことば」がある。自然(朝顔)も、自生のものではなく栽培しているものだったら「ことば」をもっているかもしれない。つまり、それを育てた人の「思い」というものをもっているかもしれない。栽培された草花よりも、野に咲く花々の方がさっぱりしていて、さびしくて、気持ちがいいのは、それらは人間の「思い」とは無関係に生きているからだろうと思う。

 そして、とても不思議なことだけれど。あるいは、いままで書いていることと矛盾してしまうかもしれないけれど。
 私が自然や携帯電話をいつまでも見つめていることができるのは、そこには私のつかっていることばとは違っていることばが「いのち」として存在するからである。はじめて聞く外国語のように、それは何を言っているかさっぱりわからない。そういうとき、人間は、聞こえていても聞こえていないことにする。私の方から「無関係」をつくりだしてしまう。「無関係」をつくりだしても、自然や携帯電話はいやな顔などしない。そこがいい。そして、ふとした瞬間、その私からの「無関係」と、自然・携帯電話からの「無関係」が出会ってしまって、突然会話することがある。それはナンセンスな会話である。それまでの私の思いとは無関係、それまでの自然・携帯電話の思いとは無関係。どこにも「根っこ」がない。ほんとうはあるのかもしれないけれど、とりあえず、そんなものはない。無意味なもの。そのことば--そこに、私は詩があると思う。私から「無関係」になってしまったことば--それが詩だと思う。



 伊藤比呂美は「まじない」という文章を書いている。このエッセイはおもしろかった。ことばを書いていて、それがかってに動いていく。「まじない」というのは科学的ではない。いいかげんなものである。そのいいかげんなところ、つまり、はっきりと解明されていない部分に、「いのち」を受け入れてくれるものがある。
 詩の朗読会での体験。

 わたしは不穏な、霊的な舞台にしゃがみこんだ。祖母が廊下を拭きあげるような姿勢であった。うつむいて、声は閉じ、意識を集中させた。すると(以下、冗談をいっているのではありません)目の前にことばのうずが見えた。それをつかんで自分の中に取り込んでみたら、ことばが勝手にふくれあがって、自分の声でない声が出ていった。声はことばに、ことばは力になり、わたしから出ていって、人々につかみかかった、ところまでは見た。それからどうなったか。

 「わたしから出ていって」。こういう現象を私は「無関係」という。「出て行かない」とき、それは「関係」そのものなのだ。私から出ていってしまえば、それが何をしようが、それは伊藤とは関係ない。関係がないから「それからどうなったか」はわかりっこない。たぶん、わかったら、詩ではなくなってしまう。
 詩はあらゆる「無関係」のなかにある。



 平田俊子の「悩める東京タワー」は、ことばが「無関係」になるまでをだらだらと(?)、どこまでもまじめにまじめにまじめに書いたものである。そういう意味で、エッセイではなく、詩である。平田の中からことばが出ていって、平田から独立してしまう。そこにはもちろん平田の感受性だとか思想だとかがあるのだけれど、まあ、関係ない。ナンセンスである。そして、無関係だから、「笑い」がある。笑いは硬直した「関係」をたたき壊すものである。




生きのびろ、ことば
小池 昌代,吉田 文憲,林 浩平
三省堂

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リッツォス「廊下と階段(1970)」より(4)中井久夫訳

2009-01-29 00:39:25 | リッツォス(中井久夫訳)
軽率に   リッツォス(中井久夫訳)

古代の壁の後ろ、
壕の穴をすかし、
石の位置のずれが作った穴をとおして、
死者たちは
物質にかえった眼を見開いて
眺めていた、
若いハンターが
円柱の壊れた柱頭にオシッコをするのを。

だから、人生が嘘を吐くなら
死も嘘を吐くのさ。



 墓地。若いハンターがオシッコをしている。それを、「死者」の視線で描いている。墓の蓋がずれている。そこから「死者」が見える、というのではなく、「死者」が、若いハンターがオシッコをするのを見ている、と。
 若いハンターはオシッコをしたということを認めないだろう。つまり、嘘をつく。そうであるなら、死者もまた嘘をつく権利を持っている。若いハンターがオシッコをするのを目撃したと。死者に口なし、などということはない。死者は口をもっている、という嘘をついたってかまわない。
 --論理的には、そういう構造の作品である。

 詩はしかし論理ではない。論理をおもしろがっても仕方がない。
 この詩は、「円柱の壊れた柱頭にオシッコをするのを。」を起点にして、大きく転換する。その転換点として「オシッコ」という「俗」が存在するということだろう。
 リッツォスは何度も「俗」と「聖」をぶつけ合う。「俗」と「聖」がぶつかるとき、笑いの中でその両方が輝く。両方もっているのが人間の「いのち」のありかたなのだ。リッツォスは、その両方を肯定している。


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