詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

辻井喬「大きな角の鹿」

2009-01-06 22:49:37 | 詩(雑誌・同人誌)
辻井喬「大きな角の鹿」(「現代詩手帖」2009年01月号)

 辻井の詩も、谷川の詩と同じように「想像」からはじめている。書き出しの2行。

大きな角を持った鹿の哀しさを
想像するのはむずかしい

 谷川の作品と辻の作品を大きく分けるのは、対象と自己との距離の取り方である。谷川が「無名の娘」を書きながら、しだいに「男」の方に逸脱して行った。
 もちろん、谷川の作品は「締め切りをひかえて詩を書く男は机の前に座った」というのが書き出しの1行なのだから、「主役」は最初から「詩を書く男」であり、その「詩を書く男」が登場させた「娘」は脇役である、という視点から見つめなおせば、谷川の作品には「逸脱」はないといえるかもしれない。「娘」が「逸脱」なのであって、「男」は一度も逸脱していない、といえるかもしれないが、タイトルはあくまで「無名の娘」であった。タイトルの「無名の娘」を「主役」ととらえれば、「男」の方が「逸脱」していった。
 これに辻の作品では「主役」は「大きな角の鹿」であり、そこから辻は「逸脱」してゆかない。逆に、「鹿」のなかに「ぼく」が侵入していく。そして「鹿」になってしまう。「鹿」になって、何事かを語りはじめる。もし「逸脱」というものがあるとすれば、それは辻が「鹿」になってしまうことである。
 架空の自己として、「鹿」がそのとき誕生する。そして、その「鹿」は「ぼく」の精神を代弁することになる。そのとき、いわば「架空」が「ぼく」の現実になり、その現実というのは、「意味」のことである。辻には書きたい「意味」があり、その「意味」のために最初から「鹿」を用意しているのだ。「鹿」を書いているうちに「意味」がかってに動きだしたという見方もあるかもしれないが、私には、最初から辻には書きたいことがあったというふうにしか読めない。
 「鹿」を動かしていくことばは、たとえば「草の匂い」とか「水のありか」というようなものではなく、「自由」という抽象的なものだからである。(2連目の書き出しに、「かれはその鷲の自由が欲しかった」という具合に、「自由」が登場する。)「鹿」は人間なのではないのだから、たとえ「自由」を求めたとしても「自由」ということばなどをつかって「自由」を考えないだろう。「自由」には、最初から、人間の、辻の「意識」「意味」が反映されているのである。そして、その「自由」を、辻はまた、「孤独」と結びつけて、「意味」をより強いものにしていく。「大きな角の鹿」のように特別な存在の、「自由」と「孤独」の関係--という「意味」を語る。まるで、辻自身の苦悩を語るかのように。
 最終連。

ある日かれは断崖から落ちた
まっしぐらに黒い塊りとなって
ある兎はかれが身を投げたのだと言い
別の兎は頭が重くて踏み外したのだと解説した
いろいろ分析が行われたが
だれも彼の孤独については語らなかった
跳躍こそ翼を与える 跳躍せよと言った時
その鷲の言葉に嘘はなかったのだが
ただ大きな角にはあてはまらなかった
それだけの矛盾だったのだ
だから墜落の原因は孤独の重さと
ほんの少しの傲慢さのせいだという事実は
ついに解明されることのないまま
今日も夕焼けは空を染めている

 この最終連は、とてもおもしろい。「事実」「原因」「解明」。それがつながるとき「意味」が生まれると辻は考えている。そして、ここでは「事実は/ついに解明されることのないまま」という表現で、逆説的に「解明」されている。謎が謎として残っているわけではない。辻はきちんと「解明」している。
 「矛盾」ということばが出てくるが、この「解明されないまま」も「矛盾」である。そして、その「矛盾」が辻にとっての詩である。辻はなんでも「解明」してしまう。「解明」して「意味」を明確にする。一方で、その「意味」は自分にしかわからない。他人には共有されないままである、とわざわざ書くのである。
 「孤独」ということばも出てくるが、辻は、一方的に「孤独」にとじこもるのである。「事実」「原因」「解明」がつくりだす「意味」をきちんと書きながら、それを「解明されないまま」今日にいたっていると、一方的に他者を(たとえば、この詩の「兎」や「鷲」を)除外する。一方的に除外して、

孤独の重さ

というセンチメンタルなことばを抱きしめる。
 あ、まるで思春期の少年のようだ、と私は思ってしまう。「ぼく」の「孤独の重さ」をだれもわかってくれない。あらゆる行為が「孤独の重さ」を原因としているのに、それは「解明されないまま」残っている。そう、つぶやく辻。
 それは「解明されないまま」なのではなく、「解明されたくない」ものなのだろう。「解明されたい」けれど、「解明されては困る」ということかもしれない。だれにでも、知ってほしいというこころと、いや知られたくないという気持ちが共存している。なぜなら、知られることによって、現実が変わってしまうからである。たとえば、誰かを好きという気持ち。それは相手に知ってもらいたい。けれど知られて、その結果、あなたは私の対象外と拒絶されると、好きという現実のままではいられなくなる。その不安。不安の中で、深まる孤独。重くなる孤独。
 そういう「矛盾」があるために、ひとのこころは様々に動く。そして、ことばを動かす。その結果、辻は「鹿」にさえなってしまうのである。自己を放棄し(?)、つまり人間であることをやめて、「鹿」にさえなってしまうのである。
 ことばは人間を「鹿」にさえしてしまう。その動きのなかに、詩がある。




自伝詩のためのエスキース
辻井 喬
思潮社

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アレクサンドル・アジャ監督「ミラーズ」(★)

2009-01-06 11:27:36 | 映画
監督 アレクサンドル・アジャ 出演 キーファー・サザーランド、ポーラ・パットン、エイミー・スマート

 鏡は不思議な存在である。私たちは鏡に自分の姿を映してみる。そして、それが左右が逆であるにもかかわらず、それを自分の姿と認識する。でも、「逆」とはなんだろう。なぜ、鏡の世界を「逆」と感じるのだろう。もしかすると、私の方が「逆」で、鏡が「正」なのではないだろうか。鏡がほんとうの世界で、私たちの世界は鏡が描こうとしている世界を反映させたものなのではないだろうか。
 こういう疑問は、想像力が逸脱してしまう幼少期にだれもが一度は考えること、感じることである。この映画は、そういう不安定な感覚を出発点にしてつくられている。
 鏡に触れると、そこに手形がついて、それが鏡と私たちの世界の出入り口になる、というか、鏡に手形が刻印されて、鏡の世界からのがれられなくなる--という構造は、なかなかおもしろく、ホラー映画の出だしとしては快調だと思う。鏡だけではなく、磨かれたテーブル、水面、ドアのノブなど、ようするに姿を映しだすものすべてが、そういうものへの入り口だとする設定も、鏡の領域をひろげるものとしておもしろい。
 ただし、そうやって鏡を増幅させ、感覚がどんどん鋭敏になり、存在しない世界を描き出していくのならいいのだけれど、この映画は非常に後味が悪い。人が殺される(死んでいく)ときの映像が、ただただどぎつく、不気味なまでに悪趣味である。キーファー・サザーランドの妹がバスタブの中で死んでいくシーンは、彼女自身が鏡を見ていないのだから、そういうことが起こりうるはずがない。観客をこわがらせるだけのためにつくられたシーンである。
 さらに、ストーリーが「危険」である。「危険」をはらんでいる。
 ストーリーの説明に「統合失調症」を利用しているが、こういう利用のしかたは「統合失調症」への誤解・偏見をあおることになるのではないのか。
 「統合失調症」は、この映画では万華鏡の乱反射のようにとらえている。「統合失調症」の人間の内部には、複数の人間の魂が存在し、それが凶暴に暴れ回っている。その複数の魂と、人間を閉じ込める「万華鏡」をとおして直面することで、自己のすべてを認識することで完治するかのように説明される。万華鏡に映し出される映像の乱反射は、どれがどれかわからないけれど、それをしっかり識別できれば、そして識別したものを自分ではないと「外」へ出してしまえば、「統合失調症」はなおると説明される。ただし、そうやって「外」に出された複数の魂は、なんとかしてもとにもどりたいと(つまり、一人の人間の内部にもどりたいと)熱望しており、その欲望が怪奇現象を引き起こしていると説明される。
 この映画は、最終的に「統合失調症」だった少女が完治したために不可解な現象が起きたと説明され、その少女(映画の中では最終的に老人になっている)が「統合失調症」にもどり、様々な魂を受け入れたまま焼け死んでいくことで解決する。
 あ、ひどい。
 これでは、キーファー・サザーランドの「家族を助けてくれ」という願いを聞いた少女(老女)が救われない。「統合失調症」の人間が「統合失調症」のまま死んでいかないかぎり、世界は呪われたままである、怪奇現象が起きる、というのは、「結末」としてひどすぎる。

 映画では、そのあと、奇妙なオチがついている。少女(老女)を殺して、家族を救ったあと、キーファー・サザーランドは瓦礫のなかから這い出し街に出る。しかし、その街はすべて「鏡像」になっている。鏡に自分の姿を映してみると、そこには自分の姿は映らない。そして、鏡に触れた手形だけは鏡面に刻印される。--キーファー・サザーランドは、鏡の内部に入ってしまって、もう自分の姿を見ることができない。自分の姿を見るためには、少女(老女)のように鏡が向き合った万華鏡の世界へ行くしかない。
 こんなことで、「統合失調症」に対して、何か謝罪した(?)とでも言い訳するつもりなんだろうか。



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リッツォス「棚(1969)」より(2)中井久夫訳

2009-01-06 10:17:19 | リッツォス(中井久夫訳)
眠りの再構成    リッツォス(中井久夫訳)

夜だった。大きな石膏の塊が天井から剥がれて寝台の上に落下した。身体を横たえる余地がなくなった。鏡も割れていた、粉々に。回廊の石膏像は煤をかぶっていた。指で触れられない。勝手に愛の姿態を取らせておけ。大腿にも膝にも唇にも掌にも黒い染みがついていた。水道、電気、電話が切られて何ケ月にもなっていた。台所の大理石板の卓子の上に、煙草の吸いさしの傍で大きなレタスが二個腐りつつあった。



 この詩も一種の「聖」と「俗」の取り合わせである。最後の「腐りつつあった」が「俗」にあたる。ただ、この作品では、「レタス」の前に登場する「もの」がそれぞれ「いのち」をうしなったものであるだけに「俗」の印象が弱い。全体が「死」のイメージにおおわれているため、衝撃が少ない。つづけて読んでいて、意識が覚醒する感じがしない。遠心・求心がない。
 それでも、やはり「聖」と「俗」なのだと、私は思う。
 「石膏」「鏡」などは無機物である。それらは腐ることがない。「レタス」だけが腐るのである。腐らないものが「聖」。腐るものが「俗」である。この詩の中では。


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