辻井喬「大きな角の鹿」(「現代詩手帖」2009年01月号)
辻井の詩も、谷川の詩と同じように「想像」からはじめている。書き出しの2行。
谷川の作品と辻の作品を大きく分けるのは、対象と自己との距離の取り方である。谷川が「無名の娘」を書きながら、しだいに「男」の方に逸脱して行った。
もちろん、谷川の作品は「締め切りをひかえて詩を書く男は机の前に座った」というのが書き出しの1行なのだから、「主役」は最初から「詩を書く男」であり、その「詩を書く男」が登場させた「娘」は脇役である、という視点から見つめなおせば、谷川の作品には「逸脱」はないといえるかもしれない。「娘」が「逸脱」なのであって、「男」は一度も逸脱していない、といえるかもしれないが、タイトルはあくまで「無名の娘」であった。タイトルの「無名の娘」を「主役」ととらえれば、「男」の方が「逸脱」していった。
これに辻の作品では「主役」は「大きな角の鹿」であり、そこから辻は「逸脱」してゆかない。逆に、「鹿」のなかに「ぼく」が侵入していく。そして「鹿」になってしまう。「鹿」になって、何事かを語りはじめる。もし「逸脱」というものがあるとすれば、それは辻が「鹿」になってしまうことである。
架空の自己として、「鹿」がそのとき誕生する。そして、その「鹿」は「ぼく」の精神を代弁することになる。そのとき、いわば「架空」が「ぼく」の現実になり、その現実というのは、「意味」のことである。辻には書きたい「意味」があり、その「意味」のために最初から「鹿」を用意しているのだ。「鹿」を書いているうちに「意味」がかってに動きだしたという見方もあるかもしれないが、私には、最初から辻には書きたいことがあったというふうにしか読めない。
「鹿」を動かしていくことばは、たとえば「草の匂い」とか「水のありか」というようなものではなく、「自由」という抽象的なものだからである。(2連目の書き出しに、「かれはその鷲の自由が欲しかった」という具合に、「自由」が登場する。)「鹿」は人間なのではないのだから、たとえ「自由」を求めたとしても「自由」ということばなどをつかって「自由」を考えないだろう。「自由」には、最初から、人間の、辻の「意識」「意味」が反映されているのである。そして、その「自由」を、辻はまた、「孤独」と結びつけて、「意味」をより強いものにしていく。「大きな角の鹿」のように特別な存在の、「自由」と「孤独」の関係--という「意味」を語る。まるで、辻自身の苦悩を語るかのように。
最終連。
この最終連は、とてもおもしろい。「事実」「原因」「解明」。それがつながるとき「意味」が生まれると辻は考えている。そして、ここでは「事実は/ついに解明されることのないまま」という表現で、逆説的に「解明」されている。謎が謎として残っているわけではない。辻はきちんと「解明」している。
「矛盾」ということばが出てくるが、この「解明されないまま」も「矛盾」である。そして、その「矛盾」が辻にとっての詩である。辻はなんでも「解明」してしまう。「解明」して「意味」を明確にする。一方で、その「意味」は自分にしかわからない。他人には共有されないままである、とわざわざ書くのである。
「孤独」ということばも出てくるが、辻は、一方的に「孤独」にとじこもるのである。「事実」「原因」「解明」がつくりだす「意味」をきちんと書きながら、それを「解明されないまま」今日にいたっていると、一方的に他者を(たとえば、この詩の「兎」や「鷲」を)除外する。一方的に除外して、
というセンチメンタルなことばを抱きしめる。
あ、まるで思春期の少年のようだ、と私は思ってしまう。「ぼく」の「孤独の重さ」をだれもわかってくれない。あらゆる行為が「孤独の重さ」を原因としているのに、それは「解明されないまま」残っている。そう、つぶやく辻。
それは「解明されないまま」なのではなく、「解明されたくない」ものなのだろう。「解明されたい」けれど、「解明されては困る」ということかもしれない。だれにでも、知ってほしいというこころと、いや知られたくないという気持ちが共存している。なぜなら、知られることによって、現実が変わってしまうからである。たとえば、誰かを好きという気持ち。それは相手に知ってもらいたい。けれど知られて、その結果、あなたは私の対象外と拒絶されると、好きという現実のままではいられなくなる。その不安。不安の中で、深まる孤独。重くなる孤独。
そういう「矛盾」があるために、ひとのこころは様々に動く。そして、ことばを動かす。その結果、辻は「鹿」にさえなってしまうのである。自己を放棄し(?)、つまり人間であることをやめて、「鹿」にさえなってしまうのである。
ことばは人間を「鹿」にさえしてしまう。その動きのなかに、詩がある。
辻井の詩も、谷川の詩と同じように「想像」からはじめている。書き出しの2行。
大きな角を持った鹿の哀しさを
想像するのはむずかしい
谷川の作品と辻の作品を大きく分けるのは、対象と自己との距離の取り方である。谷川が「無名の娘」を書きながら、しだいに「男」の方に逸脱して行った。
もちろん、谷川の作品は「締め切りをひかえて詩を書く男は机の前に座った」というのが書き出しの1行なのだから、「主役」は最初から「詩を書く男」であり、その「詩を書く男」が登場させた「娘」は脇役である、という視点から見つめなおせば、谷川の作品には「逸脱」はないといえるかもしれない。「娘」が「逸脱」なのであって、「男」は一度も逸脱していない、といえるかもしれないが、タイトルはあくまで「無名の娘」であった。タイトルの「無名の娘」を「主役」ととらえれば、「男」の方が「逸脱」していった。
これに辻の作品では「主役」は「大きな角の鹿」であり、そこから辻は「逸脱」してゆかない。逆に、「鹿」のなかに「ぼく」が侵入していく。そして「鹿」になってしまう。「鹿」になって、何事かを語りはじめる。もし「逸脱」というものがあるとすれば、それは辻が「鹿」になってしまうことである。
架空の自己として、「鹿」がそのとき誕生する。そして、その「鹿」は「ぼく」の精神を代弁することになる。そのとき、いわば「架空」が「ぼく」の現実になり、その現実というのは、「意味」のことである。辻には書きたい「意味」があり、その「意味」のために最初から「鹿」を用意しているのだ。「鹿」を書いているうちに「意味」がかってに動きだしたという見方もあるかもしれないが、私には、最初から辻には書きたいことがあったというふうにしか読めない。
「鹿」を動かしていくことばは、たとえば「草の匂い」とか「水のありか」というようなものではなく、「自由」という抽象的なものだからである。(2連目の書き出しに、「かれはその鷲の自由が欲しかった」という具合に、「自由」が登場する。)「鹿」は人間なのではないのだから、たとえ「自由」を求めたとしても「自由」ということばなどをつかって「自由」を考えないだろう。「自由」には、最初から、人間の、辻の「意識」「意味」が反映されているのである。そして、その「自由」を、辻はまた、「孤独」と結びつけて、「意味」をより強いものにしていく。「大きな角の鹿」のように特別な存在の、「自由」と「孤独」の関係--という「意味」を語る。まるで、辻自身の苦悩を語るかのように。
最終連。
ある日かれは断崖から落ちた
まっしぐらに黒い塊りとなって
ある兎はかれが身を投げたのだと言い
別の兎は頭が重くて踏み外したのだと解説した
いろいろ分析が行われたが
だれも彼の孤独については語らなかった
跳躍こそ翼を与える 跳躍せよと言った時
その鷲の言葉に嘘はなかったのだが
ただ大きな角にはあてはまらなかった
それだけの矛盾だったのだ
だから墜落の原因は孤独の重さと
ほんの少しの傲慢さのせいだという事実は
ついに解明されることのないまま
今日も夕焼けは空を染めている
この最終連は、とてもおもしろい。「事実」「原因」「解明」。それがつながるとき「意味」が生まれると辻は考えている。そして、ここでは「事実は/ついに解明されることのないまま」という表現で、逆説的に「解明」されている。謎が謎として残っているわけではない。辻はきちんと「解明」している。
「矛盾」ということばが出てくるが、この「解明されないまま」も「矛盾」である。そして、その「矛盾」が辻にとっての詩である。辻はなんでも「解明」してしまう。「解明」して「意味」を明確にする。一方で、その「意味」は自分にしかわからない。他人には共有されないままである、とわざわざ書くのである。
「孤独」ということばも出てくるが、辻は、一方的に「孤独」にとじこもるのである。「事実」「原因」「解明」がつくりだす「意味」をきちんと書きながら、それを「解明されないまま」今日にいたっていると、一方的に他者を(たとえば、この詩の「兎」や「鷲」を)除外する。一方的に除外して、
孤独の重さ
というセンチメンタルなことばを抱きしめる。
あ、まるで思春期の少年のようだ、と私は思ってしまう。「ぼく」の「孤独の重さ」をだれもわかってくれない。あらゆる行為が「孤独の重さ」を原因としているのに、それは「解明されないまま」残っている。そう、つぶやく辻。
それは「解明されないまま」なのではなく、「解明されたくない」ものなのだろう。「解明されたい」けれど、「解明されては困る」ということかもしれない。だれにでも、知ってほしいというこころと、いや知られたくないという気持ちが共存している。なぜなら、知られることによって、現実が変わってしまうからである。たとえば、誰かを好きという気持ち。それは相手に知ってもらいたい。けれど知られて、その結果、あなたは私の対象外と拒絶されると、好きという現実のままではいられなくなる。その不安。不安の中で、深まる孤独。重くなる孤独。
そういう「矛盾」があるために、ひとのこころは様々に動く。そして、ことばを動かす。その結果、辻は「鹿」にさえなってしまうのである。自己を放棄し(?)、つまり人間であることをやめて、「鹿」にさえなってしまうのである。
ことばは人間を「鹿」にさえしてしまう。その動きのなかに、詩がある。
自伝詩のためのエスキース辻井 喬思潮社このアイテムの詳細を見る |