詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

天沢退二郎「オホーツク波寄せ歌」、鈴木志郎康「蒟蒻のペチャプルル」

2009-01-09 12:23:22 | 詩(雑誌・同人誌)
天沢退二郎「オホーツク波寄せ歌」、鈴木志郎康「蒟蒻のペチャプルル」(「現代詩手帖」2009年01月号)

 天沢退二郎「オホーツク波寄せ歌」と鈴木志郎康「蒟蒻のペチャプルル」は似ているわけではないが、似ている。「音」から始まるのである。
 天沢退二郎の作品の書き出し。

スパヤー
スパヤー
シュワーッ
 
  スパヤー
  スパヤー
  シュワーッ

 2連目は、実際は1連目よりも活字の大きさが小さいのだが、そう想像して読んでください。
 これは、波の音。海岸線を「妻と私」は歩いている。規則正しい波の音を聞きながら。波を見ながら。ところが、突然、規則正しいはずの波が乱れ、高波になって二人を襲う。一度は難を免れるが、2度目、妻は波に倒される。ぐっしょり濡れて、

海神の手を振りきった●ーナスさながら
この世へ生還したのだ

スパヤー
スパヤー
シュワーッ

(次のが来たら今度は
沖へさらわれるぞ)
(大丈夫よ もう
敵の手は読めたから)
妻は濡れた長い髪をかき上げながら
まったく何の屈託もなく笑った

スパヤー
スパヤー
シュワーッ
  スパヤー
  スパヤー
  シュワーッ
    (谷内注・●は、「イ」の旧かなに濁点。「ヴィ」、最後の3行も小さい活字)

 なんとも気楽なのだ。波の音が繰り返され、それがそのまま音が苦になっているからだ。
 一方で、波の音以外の部分は、たとえば「この世へ帰還したのだ」というような、ちょっと時代がかったことばで書かれている。その対比が絶妙で、あれよあれよ、という感じでことばを読んでしまう。
 これは何?
 
 これは、詩?

 詩を書いていない人に聞かれたら、ちょっと説明に困るだろうなあ。深遠な志が書かれているわけではない。美しい風景が書かれているわけではない。冬の海に倒れこみ、ぐっしょり濡れたのに、そのまま歩いていて大丈夫?などと突っ込まれたら、きっと困ってしまう。
 そういうとき、でも、私はこういうだろう。
 ほら、この「スパヤー/スパヤー/シュワーッ/スパヤー/スパヤー/シュワーッ」って、大きい音と小さい音の繰り返しって、ほんとうの波みたいじゃない? 思い出さない? ほんとうの音を聞きに行ってみたくならない?
 ほんとうの波の音はきっと文字にはできない。けれど、それを文字にしてしまう。音にしてしまう。それが楽しい。その音を引き立てるために、「わざと」妻が波にさらわれそうになった、なんて書いているんだよ。どんな話だって、わざとする部分ってあるでしょう? そうやって、ことばを遊ぶのが詩なんです。
 音の楽しみにあわせて、ことばがどこまで動いて行けるか、その音にあわせて人間はどこまで動いていけるか--それを楽しんでいる。
 ほんとうのことなんか、どうでもいい。ことばで楽しく遊べればいい。今まで知らなかったことがら、波の音が「スパヤー/スパヤー/シュワーッ/スパヤー/スパヤー/シュワーッ」大きく、小さく繰り返す。それで、もう私は満足。音だけじゃなく、白い泡まで見えてくるからねえ。
 天沢はとってもいい耳をしている。音に敏感なだけではなく、そこには色や形まであるからね。すごい。



 鈴木志郎康「蒟蒻のペチャプルル」も、音が楽しい。書き出し。

コンニャクが
わたしの手から滑って、
台所のリノリュームの床に落ちた、
蒟蒻のペチャプルル。
瞬間のごくごく小さな衝撃と振動。
ペチャプルル。
夕方のペチャプルル。
わたしが手を滑らせ、
スルリと落下、
手加減が狂って、
75センチ下の床に
コンニャクが落ちた。
ただそれだけのこと。

 「ペチャプルル」。コンニャクが落ちてペチャと音を立て、プルルと震えている。もう、これ以外に床に落ちたコンニャクを描写する音はないね。天沢の波の音と同じように、そこには「音」だけではなく「視覚」も含まれている。「音」のなかに聴覚と視覚が融合している。いいなあ、こういう感覚の融合。
 鈴木のおもしろいことろは、しかし、それだけではない。コンニャクを落としたということを、コンニャクを落とした日に書いているのではないのだ。実は。そして、蒟蒻だけを描いているのでもないのだ。

それからひと月余り経って、
今夜、晩秋の雨の夜、
庭の枯れ葉が雨滴に濡れて揺れ、
窓からの光に照らされ、
雨水が光っているのをしばらくの間、見ていた。
闇の中に植物の葉が光っている。
小さな光に見とれる人、
わたしこと、一個の詩人。
滴を落とした葉が震えるのを見る。
コンニャクが手元から落ちて震えた。
それが、言葉を思い立って、
この十日余りの筋肉のストーリー、
蒟蒻のペチャプルルのストーリー、
ペチャプルルのストーリー、
究極の瞬間の小さな衝動と振動、
ペチャプルル。
葉を揺らす雨滴はスヌヌッーと無音の
極極の小さな衝撃と振動。
光が震える。

だから、どうだっていのう。
じれったいね。一個の詩人さん。

晩秋の雨の夜の
わたしの脳内を巡る小さな衝撃と振動と筋肉のストーリー。
蒟蒻軟体を持つべき指の力の加減の無意識の衰退が問題。
掴んだ蒟蒻が手の中で揺れる、
オットトット、
そこで加減の衰退から生じた
ペチャプルル。
ペチャプルル。

 「滴を落とした葉」と「蒟蒻を落としたわたし」が重なり、「滴を落とした葉の震え」が「蒟蒻を落としたわたしの筋肉の震え(衰退)」と重なり合う。重なり合うことで「ストーリー」が生まれる。
 「ストーリー」というのは、そして、鈴木の場合、その構造の中へ鈴木自身がはいっていく、あるいはその構造を鈴木自身の「肉体」の構造に同一化させるということなのだ。(自己拡張、と鈴木はいうだろうけれど。)
 蒟蒻は床に落ちてペチャプルルと震えるだけではなく、その震えは鈴木の肉体そのものをも震わせる。床に落ちたのは蒟蒻というより、蒟蒻の形をした鈴木の肉体(筋力の衰えた肉体)なのだ。自分自身の肉体を蒟蒻の中に見ることができたとき、鈴木はやっと安心する。ことばを獲得した、という気持ちになる。そういう詩人だ。



 天沢も鈴木も「音」に対して敏感である。その「音」には音だけではなく、視覚も触覚も含まれている。融合している。それも共通している。
 しかし、まったく違った風に「音」をつかっている。
 天沢は自分から抜け出すために、遊ぶために「音」を活用している。鈴木は自分から抜け出すように見えて、実は、外にあるものを肉体に取り込むために「音」を利用している。天沢は、どこまで遠くへいけるか、ということを狙って(楽しんで)、ことばを動かしている。鈴木は、自分の外にある何かをどこまで自分の内部に取り込むことができるかを狙って(楽しんで)、ことばを動かしている。
 二人の詩をつづけて読むと、そういう印象が生まれる。




人間の運命―黄変綺草集
天沢 退二郎
思潮社

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リッツォス「棚(1969)」より(5)中井久夫訳

2009-01-09 00:47:44 | リッツォス(中井久夫訳)

訊問室    リッツォス(中井久夫訳)

長い廊下。両側は閉じた扉。
煙突。ストーヴはどこだろう。少し煙が出てる。
廊下のもう一方の端に黒づくめの男が五人。同じ格好の覆面。彼を眺めてる。
彼は扉を叩く。無音。次の扉。第三の扉。最後の扉まで
反応なし。こんどは反対側。叩く。一つづつ。
扉が尽きた。反応なし。覆面男は不動。
はたしてそうか。戸口から出ると戸口はひとりでに閉まった。
暗くなった。外は雨だった。
彼はトタン板を打つ雨を聞く。中庭のタイルにしぶく音も。
思い出した。記憶の中だ。濡れたアスファルトが
ガラス張りの新しい理髪店を映していた。淡青の高い肘掛け椅子を入れた店だった。



 廊下があり、両側に「訊問室」があるのだろうか。よくわからない。だが、とても不気味だ。「訊問室」の扉を叩いて歩く「彼」を「男が五人」眺めている。「訊問室」には誰もいないので、反応がない。「五人」はそれを知っているはずである。知っていて、「彼」にそういう無意味なことをさせているのだろう。無意味なことをさせられる、という不気味さがある。
 この前半と、「はたしてそうか。」以後の後半ががらりと変わる。
 「記憶」というか、精神がふいにいきいきと動きだすのを感じる。前半の不気味さとはまったく違う。
 「濡れたアスファルトが/ガラス張りの新しい理髪店を映していた。」はテオ・アンゲロプロスの映像(映画)を見ているように美しい。「淡青の高い肘掛け椅子」も、濡れたアスファルトの色と響きあって、雨の日の湿った空気が見えるようだ。この鮮やかさは、いったい何なのだろう。

 ふいに、何の理由もなく、私は思うのだ。
 前半は、「彼」の現実ではない。扉を叩いてまわっているのは「彼」ではない。「彼」は「訊問室」にいる。扉は閉じている。そして、その「訊問室」のなかで、扉を叩いている誰かの動きを思い描いている。扉を叩く回数によって、その廊下のまわりに幾つ同じ部屋があるのか想像している。探っている。それは、同じようにして「訊問」されている仲間が何人いるか、想像しているということと同じだろう。扉を叩いている「彼」は「訊問」が順調に進んでいるか、確かめているのかもしれない。
 そして、最後。
 彼の部屋の扉が開く。「訊問官」(?)がやってくる。彼が訊問される番なのだ。そのときが、やってきたのだ。
 そのとき、ふいに思い出すのだ。彼がとらえられた(拘束された)のは雨の日だった。雨の音が聞こえた。最後に彼が見た「訊問室」以外の風景--拘束されている場所以外の風景は、濡れたアスファルトに映った新しい理髪店。そして、その店の美しい椅子。--ああ、それに比べると、この「訊問室」の、この椅子はいったいなんだろう……。

 私が想像するようなことは、ほんとうは書いてはないのかもしれない。しかし、なぜか、そんなシーンが、まるで映画のなかのシーンのように思い浮かぶ。ことばがかってに「物語」をつくっていく。リッツォスのことばにふれると、私のなかで「物語」が動きはじめる。

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