アレクサンドル・ウラノフ「エゴン・シーレ」(たなかあきみつ訳)、今村秀雄「葡萄の蔓の下で」(「coto」17、2009年01月24日発行)
アレクサンドル・ウラノフ「エゴン・シーレ」(たなかあきみつ訳)の文体は変わっている。一読すると、散文には感じられない。一つ一つの文が独立して拮抗している。いや、一つ一つの文どころか、句点「。」でくくられた一つの文の中でもことばが対立している。そのために散文を読んでいるという印象がない。こんなむちゃくちゃな文章は詩である--というと、詩に叱られるか……。
次のような感じなのだ。
何がいいたい? 要約できる? 私には要約できない。つまり、これは散文ではないからだ。詩だからだ。詩は要約不能のことばである。そのまま受け入れるしかないことばである。「クリーム色であり赤黄色であり暗褐色である。」って、どんな色? ことばのスピードが速いので、読んでいて、何かを感じた気持ちになるが、きっとことばのスピードを感じているだけで、ほかは何も感じていない。何も理解していない。(少なくとも、私は。)
こうしたことばが詩であるとき、その「思想」はどこにあるか。どのことばがアレクサンドル・ウラノフの「思想」であるのか。
「思想」はいつでも、「肉体」としてあらわれる。その「肉体」を私は「これまた」ということばに見る。「神経はこれまた木である。」それは必然的に紛れ込んだことばである。「神経は木である」と「神経はこれまた木である」とでは、「神経=木」という「意味」は同じである。しかし、そこにつかわれていることばが違う。一方は「これまた」ということばが多い。そういう「余分」なことばが「肉体」であり、「思想」である。「これまた」ということばを通らないと、ことばは「頭」まで行ってくれないのである。人間が必然的に迂回してしまう「ことば」を私は「思想」と呼ぶ。そして、そういうことばは、ほんとうは随所にある。そして、どうしてもそれを書かないとことばがつながらないときにだけことばとして姿をあらわす。それまでは隠れている。
たとえば、「クリーム色であり赤黄色であり暗褐色である。」は「思想」のことばを迂回すれば、
なのである。
「これまた」を
アレクサンドル・ウラノフは別なことばでも置き換えている。(たなかあきみつは別なことばで翻訳しなおしている。) その部分。
「と同時に」は「これまた」と同じである。先の文章は、
になる。これは、どういうことか。簡単に言えば、アレクサンドル・ウラノフはシーレを一つの基準で生きている「単純さ」で理解しようとしているのではなく、複数の時間を生きている人間として把握しようとしているということである。「複数の時間」を生きる画家がシーレであり、シーレに複数の時間を生きるようしむけるのがアレクサンドル・ウラノフなのだ。
それは、つぎのように言い換えられもする。
人間は開くものである「と同時に」開かれるものである。人間はひらくものであり「これまた」開くものである。ここにアレクサンドル・ウラノフの特徴がある。「複数の時間」は単に複数であるだけではなく、反対の「時間」なのである。対立する「時間」なのである。
私のがこれまでつかってきたことば(このブログで何度もつかってきたことば)でいえば、「矛盾」した時間を「同時に」生きるのが人間である。その「矛盾」を通り抜ける(あるいはつなぎとめる)ことばが、「と同時に」なのである。
詩は、いつでも「矛盾」をただ組み合わせる。それを止揚して別の次元にもっていこうとはしない。それを別の次元へもっていくのは読者の仕事であって、詩人の仕事ではない。詩人は、ただ「矛盾」を平然と「矛盾」のまま提出するだけである。「矛盾」を「矛盾」のまま提出できる天才を詩人というのである。
アレクサンドル・ウラノフは、「矛盾」を「矛盾」のまま書きつらねてエゴン・シーレを詩として出現させているのである。彼の文章は、私にはシーレの絵よりもおもしろい。
*
今村秀雄「葡萄の蔓の下で」は「よい友だちであるために、わたしはあなたと毎日セックスするわ。」ではじまる。その最後の1行がとてもいい。
その途中にはさまれた読点「、」--それが、実は、引用しなかった部分である。一気に言ってしまえないものが、読点「、」のなかにつまっている。「、」があってもなくても「意味」は同じである。けれど、今村は「、」を書かずにはいられない。そして、ほんの一息の「、」をわたるためには沢山のことばがいる。沢山のことばをつかっている。ばかげたことかもしれないけれど、そのばかげた部分が「思想」であり、「肉体」だ。そこを渡らないことには、ことばは永遠にことばにならない。その、ことばの「無駄遣い」が詩である。
詩は流通はしない。ただ無駄に浪費されるのである。無駄遣いをする喜び、無駄をしないことには生きていけないという「矛盾」--詩は、そういう矛盾があるから楽しい。
アレクサンドル・ウラノフ「エゴン・シーレ」(たなかあきみつ訳)の文体は変わっている。一読すると、散文には感じられない。一つ一つの文が独立して拮抗している。いや、一つ一つの文どころか、句点「。」でくくられた一つの文の中でもことばが対立している。そのために散文を読んでいるという印象がない。こんなむちゃくちゃな文章は詩である--というと、詩に叱られるか……。
次のような感じなのだ。
彼の季節は秋。クリーム色であり赤黄色であり暗褐色である。葉のない木はひときわくっくりしてひときわ真摯である。空間へ食い込みながら。風にあおられる木。神経はこれまた木である。たとえ盛夏であっても人間の内部には秋の木がある。
何がいいたい? 要約できる? 私には要約できない。つまり、これは散文ではないからだ。詩だからだ。詩は要約不能のことばである。そのまま受け入れるしかないことばである。「クリーム色であり赤黄色であり暗褐色である。」って、どんな色? ことばのスピードが速いので、読んでいて、何かを感じた気持ちになるが、きっとことばのスピードを感じているだけで、ほかは何も感じていない。何も理解していない。(少なくとも、私は。)
こうしたことばが詩であるとき、その「思想」はどこにあるか。どのことばがアレクサンドル・ウラノフの「思想」であるのか。
「思想」はいつでも、「肉体」としてあらわれる。その「肉体」を私は「これまた」ということばに見る。「神経はこれまた木である。」それは必然的に紛れ込んだことばである。「神経は木である」と「神経はこれまた木である」とでは、「神経=木」という「意味」は同じである。しかし、そこにつかわれていることばが違う。一方は「これまた」ということばが多い。そういう「余分」なことばが「肉体」であり、「思想」である。「これまた」ということばを通らないと、ことばは「頭」まで行ってくれないのである。人間が必然的に迂回してしまう「ことば」を私は「思想」と呼ぶ。そして、そういうことばは、ほんとうは随所にある。そして、どうしてもそれを書かないとことばがつながらないときにだけことばとして姿をあらわす。それまでは隠れている。
たとえば、「クリーム色であり赤黄色であり暗褐色である。」は「思想」のことばを迂回すれば、
クリーム色であり(これまた)赤黄色であり(これまた)暗褐色である。
なのである。
「これまた」を
アレクサンドル・ウラノフは別なことばでも置き換えている。(たなかあきみつは別なことばで翻訳しなおしている。) その部分。
緊張し金縛りになり機能不全である--と同時に剥き出しである。
「と同時に」は「これまた」と同じである。先の文章は、
クリーム色であると同時に赤黄色であると同時に暗褐色である。
になる。これは、どういうことか。簡単に言えば、アレクサンドル・ウラノフはシーレを一つの基準で生きている「単純さ」で理解しようとしているのではなく、複数の時間を生きている人間として把握しようとしているということである。「複数の時間」を生きる画家がシーレであり、シーレに複数の時間を生きるようしむけるのがアレクサンドル・ウラノフなのだ。
それは、つぎのように言い換えられもする。
こうして人間ははじまる、開くものにして開かれるものは。
人間は開くものである「と同時に」開かれるものである。人間はひらくものであり「これまた」開くものである。ここにアレクサンドル・ウラノフの特徴がある。「複数の時間」は単に複数であるだけではなく、反対の「時間」なのである。対立する「時間」なのである。
私のがこれまでつかってきたことば(このブログで何度もつかってきたことば)でいえば、「矛盾」した時間を「同時に」生きるのが人間である。その「矛盾」を通り抜ける(あるいはつなぎとめる)ことばが、「と同時に」なのである。
詩は、いつでも「矛盾」をただ組み合わせる。それを止揚して別の次元にもっていこうとはしない。それを別の次元へもっていくのは読者の仕事であって、詩人の仕事ではない。詩人は、ただ「矛盾」を平然と「矛盾」のまま提出するだけである。「矛盾」を「矛盾」のまま提出できる天才を詩人というのである。
アレクサンドル・ウラノフは、「矛盾」を「矛盾」のまま書きつらねてエゴン・シーレを詩として出現させているのである。彼の文章は、私にはシーレの絵よりもおもしろい。
*
今村秀雄「葡萄の蔓の下で」は「よい友だちであるために、わたしはあなたと毎日セックスするわ。」ではじまる。その最後の1行がとてもいい。
わたしはいつもあなたとセックスをする、用意をして濡れているわ。
その途中にはさまれた読点「、」--それが、実は、引用しなかった部分である。一気に言ってしまえないものが、読点「、」のなかにつまっている。「、」があってもなくても「意味」は同じである。けれど、今村は「、」を書かずにはいられない。そして、ほんの一息の「、」をわたるためには沢山のことばがいる。沢山のことばをつかっている。ばかげたことかもしれないけれど、そのばかげた部分が「思想」であり、「肉体」だ。そこを渡らないことには、ことばは永遠にことばにならない。その、ことばの「無駄遣い」が詩である。
詩は流通はしない。ただ無駄に浪費されるのである。無駄遣いをする喜び、無駄をしないことには生きていけないという「矛盾」--詩は、そういう矛盾があるから楽しい。