詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アレクサンドル・ウラノフ「エゴン・シーレ」(たなかあきみつ訳)、今村秀雄「葡萄の蔓の下で」

2009-01-27 09:19:55 | 詩(雑誌・同人誌)
アレクサンドル・ウラノフ「エゴン・シーレ」(たなかあきみつ訳)、今村秀雄「葡萄の蔓の下で」(「coto」17、2009年01月24日発行)

 アレクサンドル・ウラノフ「エゴン・シーレ」(たなかあきみつ訳)の文体は変わっている。一読すると、散文には感じられない。一つ一つの文が独立して拮抗している。いや、一つ一つの文どころか、句点「。」でくくられた一つの文の中でもことばが対立している。そのために散文を読んでいるという印象がない。こんなむちゃくちゃな文章は詩である--というと、詩に叱られるか……。
 次のような感じなのだ。

 彼の季節は秋。クリーム色であり赤黄色であり暗褐色である。葉のない木はひときわくっくりしてひときわ真摯である。空間へ食い込みながら。風にあおられる木。神経はこれまた木である。たとえ盛夏であっても人間の内部には秋の木がある。

 何がいいたい? 要約できる? 私には要約できない。つまり、これは散文ではないからだ。詩だからだ。詩は要約不能のことばである。そのまま受け入れるしかないことばである。「クリーム色であり赤黄色であり暗褐色である。」って、どんな色? ことばのスピードが速いので、読んでいて、何かを感じた気持ちになるが、きっとことばのスピードを感じているだけで、ほかは何も感じていない。何も理解していない。(少なくとも、私は。)
 こうしたことばが詩であるとき、その「思想」はどこにあるか。どのことばがアレクサンドル・ウラノフの「思想」であるのか。
 「思想」はいつでも、「肉体」としてあらわれる。その「肉体」を私は「これまた」ということばに見る。「神経はこれまた木である。」それは必然的に紛れ込んだことばである。「神経は木である」と「神経はこれまた木である」とでは、「神経=木」という「意味」は同じである。しかし、そこにつかわれていることばが違う。一方は「これまた」ということばが多い。そういう「余分」なことばが「肉体」であり、「思想」である。「これまた」ということばを通らないと、ことばは「頭」まで行ってくれないのである。人間が必然的に迂回してしまう「ことば」を私は「思想」と呼ぶ。そして、そういうことばは、ほんとうは随所にある。そして、どうしてもそれを書かないとことばがつながらないときにだけことばとして姿をあらわす。それまでは隠れている。
 たとえば、「クリーム色であり赤黄色であり暗褐色である。」は「思想」のことばを迂回すれば、

クリーム色であり(これまた)赤黄色であり(これまた)暗褐色である。

 なのである。
 「これまた」を
アレクサンドル・ウラノフは別なことばでも置き換えている。(たなかあきみつは別なことばで翻訳しなおしている。) その部分。

 緊張し金縛りになり機能不全である--と同時に剥き出しである。

 「と同時に」は「これまた」と同じである。先の文章は、

クリーム色であると同時に赤黄色であると同時に暗褐色である。

 になる。これは、どういうことか。簡単に言えば、アレクサンドル・ウラノフはシーレを一つの基準で生きている「単純さ」で理解しようとしているのではなく、複数の時間を生きている人間として把握しようとしているということである。「複数の時間」を生きる画家がシーレであり、シーレに複数の時間を生きるようしむけるのがアレクサンドル・ウラノフなのだ。
 それは、つぎのように言い換えられもする。

こうして人間ははじまる、開くものにして開かれるものは。

 人間は開くものである「と同時に」開かれるものである。人間はひらくものであり「これまた」開くものである。ここにアレクサンドル・ウラノフの特徴がある。「複数の時間」は単に複数であるだけではなく、反対の「時間」なのである。対立する「時間」なのである。
 私のがこれまでつかってきたことば(このブログで何度もつかってきたことば)でいえば、「矛盾」した時間を「同時に」生きるのが人間である。その「矛盾」を通り抜ける(あるいはつなぎとめる)ことばが、「と同時に」なのである。

 詩は、いつでも「矛盾」をただ組み合わせる。それを止揚して別の次元にもっていこうとはしない。それを別の次元へもっていくのは読者の仕事であって、詩人の仕事ではない。詩人は、ただ「矛盾」を平然と「矛盾」のまま提出するだけである。「矛盾」を「矛盾」のまま提出できる天才を詩人というのである。
 アレクサンドル・ウラノフは、「矛盾」を「矛盾」のまま書きつらねてエゴン・シーレを詩として出現させているのである。彼の文章は、私にはシーレの絵よりもおもしろい。



 今村秀雄「葡萄の蔓の下で」は「よい友だちであるために、わたしはあなたと毎日セックスするわ。」ではじまる。その最後の1行がとてもいい。

 わたしはいつもあなたとセックスをする、用意をして濡れているわ。

 その途中にはさまれた読点「、」--それが、実は、引用しなかった部分である。一気に言ってしまえないものが、読点「、」のなかにつまっている。「、」があってもなくても「意味」は同じである。けれど、今村は「、」を書かずにはいられない。そして、ほんの一息の「、」をわたるためには沢山のことばがいる。沢山のことばをつかっている。ばかげたことかもしれないけれど、そのばかげた部分が「思想」であり、「肉体」だ。そこを渡らないことには、ことばは永遠にことばにならない。その、ことばの「無駄遣い」が詩である。
 詩は流通はしない。ただ無駄に浪費されるのである。無駄遣いをする喜び、無駄をしないことには生きていけないという「矛盾」--詩は、そういう矛盾があるから楽しい。

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リッツォス「廊下と階段(1970)」より(2)中井久夫訳

2009-01-27 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
逃げられぬ・・・    リッツォス(中井久夫訳)

裏通り。通りの向う側。非常口が並んでる。
壊れた植木鉢。割れた水指し。
犬の死体。虫の死骸。死んでいる銀蠅。
金物屋たちがオシッコをしてる。肉屋も。旋盤工も。
こどもたちは夜脅える。星たちがあまり大声で叫ぶから。
星たちは叫ぶ。みんないなくなってしまうみたいに--。
銅像のことは二度と俺に言うな。そう彼は言った。我慢ならぬ。わかったか。
もう言い訳は利かぬ。下の大きな地下室では
やせた女たちが細長い腕でボイラーの煤を集めて、
さて、塗りたくる。自分の眼を、歯を、台所の戸を、水指しを、
こうすると見えなくなると思って、いや、目につかないくらいにはなると思って。
だが、彼らが壁に身をすりつけてひそかに出入りしても、
柱廊の鏡、骸骨のような鏡が迫ってくる。
黄色い草むらの中で探照灯がくっきり照らし出す。



 短い単語を積み重ね、状況を描写する。しかし、説明はしない。この説明を拒絶した文体がリッツォスの魅力のひとつである。それは良質の映画のようである。いや、良質な映画がリッツォスの詩に似ているのである。
 「もの」にはそれぞれ「物語」がある。「時間」がある。そして、その「物語」「時間」は「もの」と「もの」との出会いで、一定のものが浮かび上がってくる。たとえば「裏通り」「非常口」「壊れた植木鉢」。そたには、隠れされた「物語」がある。人目にさらすことのできない「物語」というものがある。そこでは「オシッコ」をする人間もいる。見せるためではない。隠れた「暮らし」である。
 そういう状況を描写したあとで、人間が動き出す。そこでは、どうしても人間は隠れた動きをする。隠れた動きをするしかない「時代」なのだ。隠れても隠れても見つけ出されてしまうが、それでも隠れて暮らすしかない悲しみ。
 そうしたことばのなかにあって、

こどもたちは夜脅える。星たちがあまり大声で叫ぶから。

 がとても美しい。チェホフの短編だったと思うが、泥棒が跋扈しているとき、星が美しく輝いているという描写があった。泥棒に脅える人々。泥棒。そういう人間とは無関係に(非情に)、星は輝く。そこに宇宙の美しさがある。その絶対的な美しさをこどもは無意識にかんじとってしまい、脅える。
 同じように、

柱廊の鏡、骸骨のような鏡が迫ってくる。

 もとても印象的だ。「鏡」の非情さ。何もかも映し出してしまう非情さ。人間は、そういう非情なものといっしょにくらしている。非情さが人間のかなしみを洗い清める。

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