詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

平出隆「日雷 ほか」

2009-01-10 12:23:52 | 詩(雑誌・同人誌)
平出隆「日雷 ほか」(「現代詩手帖」2009年01月号)

 平出隆「日雷 ほか」は、どう読む詩なのだろう。「日雷 ほか」とあるけれど、「*」を挟んで3行ずつ書かれている。

蒐めるときに価値が壊れるので、あれらの断片はあなたかよいように選んでください。

だれも、雲の晴れ間ほどの自分しか掴めないとしても、思考の進行をとどめる手捌きがここでの
行為のすべてなのでしょう。日かみなりがまたしています。意のあるところをお汲みくださるように。



あるがままの自分を、自分抜きにして、自分から少しずつ離していくと、
この世界に属していない、と自分で自分にうそぶけるようになる。

小用(こよう)に起きて梅の花。夢の潜り戸をくぐると、まだそれはつづいていた。

 前半には「日かみなり」ということばがあるので、前半の部分は「日雷」というタイトルなのかもしれない。もしそうであるなら、後半は? まさか「ほか」ではあるまい。
 これはつまらないことのようだけれど、とても重要なことだと思う。
 平出の作品は、実は何が書いてあるか、わからない。たとえば、前半の部分。「あれら」と書かれているものは何? 後半の「それはつづいていた」の「それは」って何? 誰にもわからない。
 もしかすると平出にもわからないかもしれない。
 そんなわからないものを対象にして、ことばを動かせるのか。そういう疑問があるかもしれない。答えは決まっている。動かせる。ことばは、「いま」「ここ」も、そして描いている対象さえも不明にしたまま動かすことができる。そして、そうやって詩として提出することができる。
 平出が書いているのは、ある対象ではない。ことばは、こんなふうにして動くことができる--という実践である。そして、その運動のことを、平出は「思考の進行」と呼んでいる。
 「思考の進行をとどめる手捌きが」という表現が象徴的だが、平出が書いているのは、そして、その「手捌き」なのである。ことばの処理の余韻とでも言うべきものなのである。
 「雲の晴れ間ほどの自分しか掴めないとしても」というような、いったい何のこと、といいたくなるような、比喩。わからないけれど、あ、美しいことばだなあ、と強く印象づけることば。短いことばだが、「日かみなり」も「梅の花」も同じである。それは、平出の文体(文脈)のなかで、美しく輝く。
 それは、どこかで「日本語の古典」とつながっている。「日本語の呼吸」とつながっている。
 「意のあるところをお汲みくださるように」も暗示的な表現だか、平出は「日本語の呼吸」と、その呼吸がつくりだす「空気」を「空気」のまま提出しようとしているのである。美意識の「呼吸」、美意識の「空気」と言い直すこともできると思う。
 そういう意味で、平出の作風と、高貝弘也の作風は少し似通っているかもしれない。高貝が「単語」の距離を置いて配置することで、その距離の中に詩を(空気を)浮かび上がらせるが、平出は「単語」ではなく、文体で、句読点で、改行で、「呼吸」(空気)を表現する。
 
 こういう作品を楽しく読むには、平出の作品に、そして平出が親しんできた作品に精通する必要があるかもしれない。精通といっても、別に、何もかも知っていなければならないというのではない。というよりも、なんというのだろう、おおざっぱに、「肉体」として知っている必要があるのだと思う。
 1行目の「あれら」、最終行の「それ」が象徴的である。よく、日常で、親しい間柄で「あれは、どうした?」「あれ、とって」というような会話をする。それは親しい人ならわかる。いっしょに暮らしている人なら見当がつく。けれど、第三者にはわからない。
 そういうときの「あれ」「それ」である。

 平出は、ごくごく親しい人に向けて、ほら、日本語の呼吸はこんなに美しい、私(平出)はこんなに微妙な呼吸を表現できるところまで、ことばをつかいこなしている--と告げているのかもしれない。
 あ、たしかに美しい呼吸、美しい空気ですね、とは思うけれど。2篇(?)だけでは、実際のところ、こころもとない。1冊の詩集になれば、たぶん、もっと呼吸、空気の美しさがページ全体に広がるのだとは思うけれど。
 詩集になったら、もう一度読み直してみよう。違った感想が浮かぶかもしれない。


ベルリンの瞬間
平出 隆
集英社

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リッツォス「棚(1969)」より(6)中井久夫訳

2009-01-10 00:57:51 | リッツォス(中井久夫訳)
それほど小さくない    リッツォス(中井久夫訳)

もうすこし。何だって? 彼は自分が分かってない。付け加えるんだ。何に付け加える?
どうする? 彼は分かってない。分かってないのだ。これだけの意志だ。彼のものだ。
巻き煙草を一本取る。火を付ける。外は風だ。教会の墓地の棕櫚の樹が倒れるのでは?
でも時計の中には風が入らない。時間は揺れない。九時、十時、十一時、十二時、一時。隣りの扉の部屋には食卓をしつらえつつある。皿を運んでる。老婆が十字を切る。匙が口に動く。パンが一片テーブルの下に落ちている。



 これは何を描いているのだろうか。リッツォスの詩は説明がないので想像力がいる。
 私はこの作品を死んだ男を描写していると読んだ。葬儀(?)のとき、棺のなかの男。その遺体に「付け加える」。何を? 言った本人もわからないかもしれない。ただ今のままでは不憫だ。そういう思いがあふれてきて、思わず「付け加えるんだ」と言ってしまった。
 その場所からは教会の墓地が見える。そこに埋葬される男。

 そういうことを具体的に書かないのは、リッツォスにとって書きたいことが、男の死そのものではないからだろう。
 何を書きたいか。
 たとえば、たばこ。葬儀のとき、埋葬の前の時間。そういう時でも、人間は日常を繰り返す。たばこを吸う。たばこを吸いながら外の景色を見る。風が強いなあ、と思ったりする。死んだ男のことを考えているわけではない。
 同じように、葬儀のあとには会食がつきものである。そういう準備が扉の向こう、隣の部屋で進んでいる。
 一方に死があり、他方に日常がある。その日常の時間は、ある意味で非情である。時間そのもののように決まった形で進んで行く。そこには何も入り込むことはできない。悲しみにうちひしがれる人を描くのではなく、悲しいときにも日常があると正確に書く。それは、もしかすると、その日常が悲しみにくれているだけの余裕がないからだともいえる。たとえば、内戦の最中であるとか……。

 そして、また、この非情な日常が、人間の孤独を浮き彫りにする。どんなときでも生きていかなければならないという淋しさを浮き彫りにする。--そういう、きっぱりとした生きる力をいつもリッツォスに感じる。

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