詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

スティーヴン・ソダーバーグ監督「チェ 28歳の革命」(★★★★)

2009-01-15 11:47:43 | 映画
監督 スティーヴン・ソダーバーグ 出演 ベニチオ・デル・トロ

 「チェ 39歳別れの手紙」と二部作構成のうちの前編。「モーターバイスクール・ダイヤリー」の続編ともいえるかもしれない。「モーター……」は監督も出演者も違うが、ともにチェ・ゲバラの人間性を浮き彫りにしている。
 映画の魅力は、ベニチオ・デル・トロの熱演によって輝いている。ソダーバーグはベニチオ・デル・トロから誠実さ、真摯さを引き出し、誠実、真摯こそが愛だと語る。そして、その愛が革命のすべてなのだ、と語る。「愛」と「革命」と結びつければ、それはそのまま「キリスト」になるかもしれないが、たぶん、チェにふれた人々(革命軍でいっしょに行動した人々)には、チェは人間の顔をしたキリストに見えただろうと思う。そういう感じが伝わってくる映画である。
 この映画の中で、チェは「愛」を「ことば」と定義している。映画は、ことばによってみせるものではないが、この映画は、むりなく「ことば」を浮かび上がらせている。きわめて珍しく、きわめて美しい映画である。
 象徴的なシーンがいくつもある。
 一。革命軍に参加したくて、農夫や少年がやってくる。彼等に対してチェは「読み書きができるか」を問う。鉄砲を撃つのに「読み書きが」必要か。チェは必要だという。「読み書き」はひとにだまされないためのものだ、という。ことばは「読み書き」をとうして吟味されるのである。それは「反芻」とおなじことである。あることばを「読み」「書き」、そうすることで反芻する。見つめなおす。見つめなおすとき、ことばの奥を貫くものが見えてくる。そういう訓練をしないことには、人間は、しっかりと連帯できない。どんな行動でも、その奥にあるものにまで目が届かないと、ほんとうにおこなわれていることはわからない。チェは、そういう「ほんとう」を探しており、その「ほんとう」をみんなと共有したかったのである。
 二。行軍の途中、休憩する。そのときチェは本を読んでいる。「読み書きを習いたい」といっていた若い兵士は疲れて草の上に横たわろうとする。するとチェは彼に向かって「算数のノートをだして勉強しろ」と言う。「疲れているから」。「そんなことではだめ」。ここでもチェの主張は同じである。銃を撃つのに算数は必要はないかもしれない。しかし、人間を統率するリーダーになるためには、算数や読み書きが必要なのである。算数や読み書きはものごとの奥にある「ほんとう」を発見するための方法なのである。そういうものを発見するという訓練をしないことには、人間の「ほんとう」はつかみきれない。チェはひとから「ほんとう」をつかみだし、チェ自身の「ほんとう」をぶつけ、「ほんとう」と「ほんとう」を組み合わせることで「信頼」をつくっていった。そういうことが、とてもよくわかる。
 三。首都制圧へむけて車で移動する。ジープを、赤い車が追い越していく。兵士が乗っている。チェはそれを留める。どこで手に入れた車か、問う。奪ったものだと知ると、それを返して来いと命令する。相手が「敵」であったとしても、不正はしない。正義をつらぬく。「ほんとう」をつらぬく。その姿勢をかえない。(脱走し、農家から金を奪い、強姦した男を処刑するシーンも出てくる。)
 チェはつねに「ほんとう」を探し、それを結びつけ、「正義」ということばで「信頼」を強固にする。その生き方が、まっすぐに伝わってくる。

 チェは、そんなふうにして、ことばと肉体、ことばと行動をひとつのものにした。ことばを生きる肉体を人の前にさらし、ことばとして輝いた。革命前夜の行動の合間に挿入される国連での演説、インタビュー。そこでもことばが輝いている。ことばを伝える肉体が輝いている。それは、個性というよりは「人柄」である。人間は「個性」にひかれるのではない。いつでも「人柄」に魅了されるのだ--ということを、この映画はしっかりとつたえている。
 骨太の映画である。

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江里昭彦「脱じぱんぐ」ほか

2009-01-15 11:10:08 | その他(音楽、小説etc)
江里昭彦「脱じぱんぐ」ほか(「左庭」12、2008年12月15日発行)

 江里昭彦「脱じぱんぐ」は俳句。10句のなかから2区。

接吻につかう猫舌二枚かな

 「接吻」と「猫舌」のとりあわせが意表をつかれる。「二枚かな」の念押し(?)も楽しい。
 先日読んだ武田肇や高岡修の俳句は、私には古すぎる印象があって、どうも落ち着かない。「文学」のなかから「文学」を蒸留しているような感じがして、透明ではあるけれど、その透明さがちょっと不潔な感じがするのである。
 江里の句からは、そういうものを感じない。「接吻」ということばは、もういまの日本人はつかわないけれど、そういう古さに、「猫舌」という、ほんとうに限られた状況でしかつかわれないことばがぶつかると、あ、日本語っていいなあと思う。「キス」と「猫舌」は音があわないけれど、「接吻」と「猫舌」は音があう。耳の中で音楽になる。その音楽は、華麗なメロディー、かろやかな旋律というものではなく、あ、こういう音楽があったのか、という驚きの響きである。それは、驚きの方が大きくて、まだメロディーにはならない。メロディーになる前の、あらゆる音が一瞬消える瞬間の、生まれる前の音楽である。

暴れるから腿にはさんでひく楽器

 ここにも不思議な発見がある。「文学」から「文学」を蒸留してくるという知的技巧ではなく、江里自身の肉体でつかみ取ってきた世界がある。
 特に「ひく」という優雅ではない音いい。「弾く」と漢字で書くと窮屈だが「ひく」というひらがなが、とてもやわらかくて、肉体を刺激してくる。「腿」は「もも」と読ませるのかなあ。私なら「また」と読ませたい。「もも」だと音が暗い。「また」だと「「ABARERUKARAMATANIHASANDEHIKUGAKKI」と「あ」の響きが明るくなる。もちろん、「もも」と暗い音を交えることで音の領域が広がってより音楽っぽいという感想もあるだろうけれど……。



 江口は「祥月命日」というエッセイも書いている。父が亡くなり、共同墓地の一角を継承するための手続きをした、と書いている。共同墓地の様子を、思い描いている。その部分。

しばしば参る者があって掃除がゆきとどいている所、供花が枯れたままの所、墓石のめぐりが雑草だらけの所、区画を所有しても墓石を購入する資金がないのか、いつまでたっても朽ちた卒塔婆が立っているところなど、家ごとの表情はさまざまである。

 「家ごとの表情はさまざまである。」がとてもいい。墓の様子なのだが、単に墓の様子ではなく、生きて暮らしている現実の「家(家庭)」の姿が浮かび上がってくるところがいい。あ、そうなのだ。どんなときでも、人間は死んでしまった人間ではなく、いま、生きている人間のことを思い浮かべるのである。死んでしまった肉親よりも、生きている、赤の他人のことを思い浮かべるのである。
 これはまた、そんなふうに江里もみられるということを意味している。だから、先の引用のあとには、次の文がくる。

 いずれ私も、いろんな意味で試されることになるのだな、と思う。

 笑ってはいけないのだろうけれど、私は笑ってしまう。この笑いは、生きている人間に対する共感である。生きているって、おかしい、という共感である。
 江里の俳句には、どこかそういう「気分」がある。生きている人間をみつめて、感じていることを書いている--そういう安心感がある。



 岬多可子「あてどなく」は「漢字」を題材に書きはじめている。

<蔓>が<夢>と見えて
延びていった先端が
支えを求めてさまよっているのは
不穏で不安で

 文字で始まった世界は、どうしても「頭」のなかで動くので苦しい。「不穏」「不安」も肉体を刺激せず、「頭」をちくちくする。「ふあん」「ふおん」も、見紛うほど似ている、ということなのかもしれないが、こういうことばの動きは、私には窮屈に感じられる。
 どんなふうにして岬は「頭」からことばを解放するか。3連目。

求めて かなわなければ
<蔓>は<蔓>と 
<夢>は<夢>と
絡み合うしかなく
●われて迷う縄は
みずからの重みに垂れ下がる
 (谷内注・●は「糸」偏に、「陶」のツクリの部分を組み合わせて漢字、「なう」)

うーん、岬は、縄をなったことがあるのかな? そういう経験があって、「なわれてまよう縄は/ みずからの重みに垂れ下がる」と書いているのかな?
「頭」からことばを解放しようとして「文学」のなかへ入って行ってしまっているような気がする。ちょっと、苦しい。
ここから、岬は、もう一度ことばを動かす。

蝉がつながったまま堕ち もう秋

腹部 黒く腫れた塊から
こほこほと
ふきこぼれてくるのだろうか
夢って

「蔓」を捨て去って、死んだ蝉の腹部にまでことばの「蔓」をのばして行って、「夢」だけを救い出している。この「夢」は、しかし、悪夢だね。悪夢にたどりつくことで、 1連目の「不穏」「不安」もやっと落ち着く。でも、こういうことばの運動は苦しいねえ。つらいねえ。楽しくないねえ。
もっと肉体を感じさせることばが読みたい。



ロマンチック・ラブ・イデオロギー―江里昭彦句集
江里 昭彦
弘栄堂書店

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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(4)中井久夫訳

2009-01-15 00:00:01 | リッツォス(中井久夫訳)

眠りの前    リッツォス(中井久夫訳)

彼女は後片づけを終えた。皿も洗い上げた。
あたりはしいと十一時。
靴を脱いでベッドに入ろうとして、
一瞬たじろぎ、ベッドの傍でもたついた。
決着を付けたくないものを忘れていたのか?
家は四角でなくなり、ベッドもテーブルもなくなった。
無意識にストッキングを明かりにかざして
孔を捜す。みえない。でもあると確信している。
壁の中か、鏡の中に--。
夜のいびきが聞こえるのは、この孔からだ。
シーツの上のストッキングの形は
冷たい水に張られた網で、
黄色い盲目の魚が一尾そこを横切ってる。



 孤独な「彼女」。「無意識にストッキングを明かりにかざして」の「無意識に」ということばに胸を揺さぶられる。人間はいつでも「無意識に」逸脱していく。何かしなければならないのだけれど、そんなことをしてはいけないのだけれど、本来の目的とは違ったところへふと迷い込んでしまう。しかし、その「場」は、ほんとうはとても重要な「場」なのかもしれない。重要であるけれど、それを意識できない。--それが無意識。
 そこで、人間は何かを捜す。ありもしないストッキングの孔を捜すように、あるいは、そこにはないからこそ、そのないはずの孔を捜すように。孔の有無が重要なのではなく、捜すという行為が重要なのだ。「場」が重要なのではなく、その「場」においての行為、運動が重要なのだ。
 「彼女」は何をみつけたか。
 盲目の一尾の魚。それは、「彼女」自身の姿である。自分は、ストッキングの網の下で、知らずに泳いでいる魚。盲目だから、「網」もみえない。でも、見えない「網」にとらわれているのだ。そして、そのとらわれていることを「網」は見えないけれど、「無意識に」感じている。「無意識に」感じながら、「無意識に」、どこかに「孔」はないかと捜している。
 「彼女」は自分自身を見つけたのだ。
 夜。みんな寝静まっている。「彼女」は、するべきことはすべてしてしまった。あとは、眠るだけ。すると、どこからか「いびき」が聞こえる。静かに眠っている人間がいる。その眠りから遠いところに「彼女」は、まだ、こうやって起きている。
 取り残された孤独。同じように、同じ家で生きていながら、取り残された孤独。その孤独が、「彼女」を冷たい水の中の、盲目の魚にかえてしまうのだ。

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