詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中神英子『夜の人形』

2009-01-04 13:11:26 | 詩集
中神英子『夜の人形』(思潮社、2008年11月30日発行)

 中神英子の詩はどれも非常に長い。なぜ、長いのか。「あおい実」という作品にキーワードがあった。

かけぬけるもの
必ずその道をかけぬけなければならないものがいて
かけぬけていくその途中に
時折 無数のあおい実がざぁと落ちる

立ち止まる
密かに立ち止まる
密かに立ち止まってあおい実を拾う

必ずかけぬけていくものの
かけぬけていった というものがたりの中に
あおい実をひとつひとつ拾っているいま
秘密の手が隠される

いまの温度にあおい実
熟すことを一途に拒むあおい実
痛ましい大切

 「ものがたり」。これが中神の作品のキーワードである。「ものがたり」とは「いま」(「あおい実をひとつひとつ拾っているいま」の「いま」)という時間が過去を見つめるときに浮かび上がってくる世界である。
 つまり、中神の世界は、常に「いま」から「過去」を見つめ、その「過去」を「ものがたり」にしてしまうことで成立している。「ものがたり」にかないことには「過去」をうけいれられない--そういう「傷」を中神は隠していることになる。この傷を、中神のことばをつかって言い直せば「秘密」である。そして、さらに言い直せば「痛ましい大切」である。「痛ましい大切」なものを、そっと守り抜くために「ものがたり」を必要としている。守り抜くために、そのことばは、どんどんガードを厚くする。そのために作品が長くなる。

 なぜ、「過去」を守らなければならないのか。「過去」とは「熟すことを一途に拒むあおい実」(別の作品では、たとえば「草の白い根の様子の/髪の短い少女」という表現になってあらわれる)であり、それは無防備なものだからである。
 そして、これは一種の矛盾なのだが、その「あおい実」は、「あおい実」であるときから、傷つくことを知っている。
 「あおい実」の後半の1連。

その内の遠くで
唯一熟したあおい実を
平然と食べる面影がある

 どんなに「熟することを一途に拒」んでも、そのなかにも「成熟」はある。たとえば、その「一途」そのものが一種の「成熟」である。
 中神は、そういうことに「いま」ではなく、「過去」に気がついた。それが中神のほんとうの苦悩--思想である。
 いつでも、どんなときでも、人は「あおい実」を食べる。食べる理由がある。守らなければならないのに、それを守らずに食べてしまう。実際に、食べてしまった。(これは、知ってしまった、と同義である。)
 その矛盾と向き合うために、中神はことばをくりだす。
 矛盾を内包してことばを動かすには、「ものがたり」が必要である。「詩」は「ものがたり」を逸脱して存在する。「ものがたり」を破ることで存在する。詩は、いわば、矛盾の破裂だが、中神は、その矛盾を破裂させたくないのである。じっと、あたため保護したいのである。(そして、保護するための道具(?)が、たとえば「あおい実」や「白い根の少女」なのである。)保護している、という気持ちになったとき、きっと中神は静かに落ちつく。
 詩は、中神にとって、自分自身を静かに落ち着かせるための生き方なのだろう。



夜の人形
中神 英子
思潮社

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リッツォス「反復(1968)」より(6)中井久夫訳

2009-01-04 11:43:40 | リッツォス(中井久夫訳)
ペネロペの絶望    リッツォス(中井久夫訳)

彼の乞食の仮装が篝火の弱い光で分からなかったわけではなかった。
そうではなかった。はっきり証拠が見えた。
膝頭の傷跡。筋肉質の身体。素早い目配り。
ぞっとして壁に倚りかかり言い訳を考えた。自分の考えをもらさないために
答えを避ける暇が欲しかった。あの男のためにむなしく二十年待ち、夢を見ていたのか?
あのいとわしい異邦人、血塗らの髭の白い男のためだったのか?
無言で椅子に倒れ、己の憧憬の骸を見る思いで床の求婚者たちの骸をとくと眺めてから
「おかえりなさいまし」と言った。
自分の声が遠くから聞こえ、ひとの声のようだった。
部屋の隅の機織り器が天井の上に籠のような影を作った。
今まで織っていた、緑の木の葉のあいだにきらきら輝く赤い鳥は、灰色と黒になって
終わりのないこれからの忍耐という平べったい空を低く舞った。



 20年ぶりにオディッセウスにあったペネロペ。そのときの思いを想像して詩にしている。驚きではなく「絶望」を。叙事詩ではなく、抒情詩に。題材が知られているだけに、叙事ははぶくことができる。はぶくことのできるものすべてをはぶき、こころの動きにことばをしぼりこむ。--これはリッツォスの詩の特徴である。

ぞっとして壁に倚りかかり言い訳を考えた。自分の考えをもらさないために
答えを避ける暇が欲しかった。
 
「おかえりなさいまし」と言った。
自分の声が遠くから聞こえ、ひとの声のようだった。

 この自分を客観視した冷徹さが詩に緊張を与えている。詩を清潔にしている。
 リッツォスの詩の特徴のひとつに「孤独」の清潔さがあるが、この孤独、そして清潔さは、こういう客観視からきている。自分にべったり没入するのではなく、外からながめる。己さえも、己に距離をおく。その距離が孤独と清潔さをもたらす。

 最後の1行はとても素晴らしいが、この行は最初の中井の訳では違った形をしていた。前の形と比べると、現在の形の素晴らしさが、いっそうきわだつ。最初は、

彼女の最後の忍耐という平べったい空を低く舞った。

 「彼女の」はたしかに日本語の文法(日本語の訳)では邪魔だろう。所有形を省略されることで、読者は「彼女の」気持ちではなく、自分の(読者の)気持ちとして、ペネロペの絶望そのものを味わうことになる。「彼女の」があると、あくまで他人の絶望になって、抒情が遠くなる。
 「最後の」も抽象的すぎる。「最後の」というのは、「今までの20年の」の「最後の」という意味だが、わかりにくい。頭で考えないと、なぜ「最後の」なのか、わからない。頭で考えてはじめて、あ、そうか、この絶望以外の絶望は彼女にはやってこないのだ、ということがわかる。これでは、まだるっこしい。
 「おわりのないこれからの」は、「今までの20年」を無視している。そういう意味では「正確な訳」ではないように感じられるかもしれないが、そうではない。ペネロペの「いま」の絶望は「今までの20年」の絶望とは比べられない。それをはるかに上回っている。それは永遠につづくことがわかっているからだ。希望のかけられないからだ。それが「今までの20年」とはあきらかに違っている。そういうことを、頭で考えなくてもわかることば、「肉体」を通ったことばで中井は訳出している。

 別なことばで言い直そう。
 「最後の」の方が、いわばデジタルな言語である。「おわりのない」「これからの」はアナログである。デジタルとアナログの違いは「連続感」である。そして、その「連続」というのは「今」と「連続」しているということである。「今」は必然的に「肉体」を含む。
 「最後の」は、「今」ここにいる「肉体」とは連続せず(関係せず)、「今までの20年」と関係する。いわば、そこには「断絶」がある。「切断」がある。断絶、切断という区切り(デジタルの要素)を導入することで成立することばである。
 「おわりのないこれからの」は「今」の「肉体」に結びつき、そこには断絶、切断がない。そして、その「今」は「今までの20年」とも連続している。「肉体」は時間に断絶、切断を持ち込まない。「肉体」のなかに時間があるからだ。「肉体」の変化と「時間」の変化は重なり合うからだ。それは切り離せない。
 その「切り離せない」ということが、そのまま、ペネロペとオディッセウスの関係にも重なり合い、絶望がさらに強くなる。

 「おわりのないこれからの」。
 今から先、永遠に、希望のない日々がつづくのだ。その「事実」がどすんと「肉体」に響いてくる。

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