詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

市島三千雄「ひどい海」

2009-01-21 09:29:36 | 詩(雑誌・同人誌)
市島三千雄「ひどい海」(「市島三千雄生誕百年記念誌」2008年11月25日発行)
 
 市島三千雄は、鈴木良一の書いている「編集後記」によれば2007年11月20日に生誕百年を迎えたらしい。新潟の詩人である。私はこの冊子ではじめて市島三千雄を知った。
 「ひどい海」の初出は大正14年の「日本詩人・2で月号」ある。その、書き出し。

雨がどしや降つてマントを倍の重さにして、しまふた

 途中にはさまれた読点「、」が魅力的である。一瞬、呼吸がある。その呼吸が魅力的である。
 なぜ、市島は、ここで呼吸をしたのだろう。
 たぶん、いま書いている文体が、いつもの意識とは違うからである。「雨がどしや降つてマントを倍の重さにしてしまふた」ということばは、どことなく、日本語とは違う。ちょっと翻訳調のような感じがする。「雨がどしや降つて、マントが倍の重さになつた」なら、翻訳調ではなく、ふつうの日本語の感じになるかもしれない。ふつうの日本語、ふつうの口語の感じとは違うところへ踏み込んでしまった、という意識がどこかにあって、それが「倍の重さにして」で、一瞬、迷ったのである。
 ことばが自然に動いて、「雨がどしや降つてマントを倍の重さにして」までやってきて、そこで少し立ち止まる。それを無理やり動かすのではなく、そこからもう一度ことばが自然に動いてくれるのを待つ。そして、その自然に動いてくれるのを待っていたら、「しまふた」ということばがやってきたのだ。
 あ、詩人だなあ、と思う。
 こんなふうにことばが動いてくるまで待っていられるのは詩人の特徴であり、ひとつの能力だ。凡人は、むりやり動かしてしまう。言いたいことを言ってしまう。そして、むりやり言ってしまったために、ほんとうに言いたかったことからずれていってしまう。
 市島はそういうことはしない。ことばが自然に動いてくれるのを待つ。そして、動きはじめたら、そのことばに乗って、ことばの動くにまかせてしまう。
 ことばを動かすのではなく、ことばに動かされてしまうのが詩人なのである。詩人がことばをつかまえるのではなく、ことばが詩人をつかまえ、ことばの動くがままを、間違えずに追いかけることができるのが天性の詩人なのだ。
 「しまふた」をそのまま引き継いで、ことばは動いていく。

つめたい雨が一層貧弱にしてしまふた
波がさかさまになつて
広くて低い北国が俺のことを喜ばしてゐる
臆病なくせして喜んでゐる
なんと寂しい。灰色に火がついて夕方が来たら俥が風におされて中の客はまたたくまに停車場に来た

 このことばの自在な動きはとても美しい。
 「つめたい雨が一層貧弱にしてしまふた」は、「何を」貧弱にしてしまったのだろう。マントを? マントのようでもあるが、たぶんマントではない。マントを着ている「俺を」貧弱にしたということだろう。「俺を」と書かれないこと(書かないこと、ではなく、書かれないことなのだ)が、ことばをより自在にする。
 わからないものを含むことは、1行目の読点「、」がことばがやってくるのを待っていたのに対して、逆に、ことばに追い越されていくという感じがする。ほんとうは「何を」があったのに、ことばが速すぎたのだ。受け止める間もなく詩人をとおりぬけてしまった。「何を」を受け止められないまま、ことばのスピードにのみこまれたのである。スピードにのみこまれながらも、そのことばの全部ではなくても、一部はしっかりつかみ取ってしまう。これも詩人のなせる業である。ふつうは、「何を」を受け止め損ねると、そのあとのことばがひとつもつかめなくなる。詩人は、あることばをつかみそこねても、それにつづくことばを本能的につかみ取ってしまう。
 そして、「波がさかさまになつて」という行。この波は日本海の波であると同時に、ことばの波である。詩人の背丈を超えて、高く高く立ち上がり、それから転げ落ちる。さかさまに。「さかさまに」と書いてあるけれど、そのとき見えるのは「さかさま」とは逆にただ高い高い波である。高すぎるので、さかさまになって落ちてくることが予感として肉体に迫ってくる。
 そういう高さを描いておいて、「広くて低い北国が俺のことを喜ばしてゐる」。書かれなかった「高さ」と書かれる「低さ」。この距離が不思議だ。とても美しい。そして、この行にも書かれないことばがある。「空」である。低いのは北国の空、冬の空である。たぶん、さかさまになるまで高く高く上り詰めた波が、空を超えてしまったのだ。空は、今は波よりも低いところにある。逆転しているのだ。世界が。その逆転が、感覚を酔わせる。そして、その酔いが「喜び」である。
 波と空が、高さにおいて逆転する。それは価値観の逆転である。詩は、ある意味では、価値観の逆転をことばの衝突のなかに浮かび上がらせるものである。
 逆転は、次々に逆転を呼ぶ。「臆病なくせして喜んでゐる」。この、矛盾。この美しさ。矛盾でしかいえない真実がある。こころは、逆転をとおして解放される。こころは、そんなふうにすべてを逆転していくことばの運動にただ身をまかせるだけだ。
 次の、「なんと寂しい。灰色に火がついて夕方が来たら俥が風におされて中の客はまたたくまに停車場に来た」という強引な1行もすばらしい。「なんと寂しい。」のあとに改行があれば散文になるが、ここでもことばのスピードが改行をのみこんでしまうのだ。意識がことばを制御するのではなく、ことばがあらゆる感情をつくりだして行く。そして、そこには感情すらもないのかもしれない。あるのは、スピードだけである。ことばのスピードだけである。
 また、この1行のなかにも、ことばのスピードのなかにのみこまれてしまったことばがある。「灰色に火がついて夕方が来たら」とは「灰色の空に火がついて」ということだろう。「空が」ガのみこまれてしまっている。すでに波にのみこまれて空はなく、ただ意識のなかにだけあるから、書かれることはないのかもしれない。その、存在しない「空」に赤い夕焼け--火がついたまぼろし。なんとも美しい。なんともすばらしい。

 私は新潟を知らない。けれどもその近くの海は知っている。冬の海は知っている。冬の雨も知っている。市島のことばは、その、私の知っている冬と海と夕暮れを、まるで暴れ回る北風のようにでたらめに動かす。自在に動かす。酔ってしまう。
 市島の詩は、まだまだつづくのだが、この疾走することばはランボーよりも、私には強烈に見える。
 (詩のつづきは、冊子で読んでください。)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(10)中井久夫訳

2009-01-21 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
処刑を前に    リッツォス(中井久夫訳)


壁を背にして立つ。払暁。目隠しなしだ。
十二丁の銃が狙う。彼は静かに思う、
若くてハンサムな自分を。きれいに髭を剃れば映えると思う。
遠くの地平がうっすらあからむ。あれが俺になる。
うん、ちんぽこの大きさはいつも並だ。
あったかいところがちょっぴり悲しい。宦官の目が行く箇所だ。
やつらの狙う箇所だ。もう自分の銅像になっちまったか?
自分で自分の銅像を見る。裸体。ギリシャの夏のきらきらしい日なか。
広場の空にすくっと立つ。群衆の肩の向うに、貪欲な観光の女たちの肩の向うに。
三人組の向うに--黒い帽子をかぶった三人の老婆の向うに。



 前半がとても美しい。リッツォスの描く「聖」が鮮やかに出ている。特に4行目。

遠くの地平がうっすらあからむ。あれが俺になる。

 最後の「なる」がいい。ひとは何かに「なる」。それが遠い地平線の、うっすらとした暁の色。あかるみ。もう人間ではない。人間を超越する。そのときが、詩。詩そのものの瞬間。そしてそれは、死んでいく男の祈りである。
 しかし、人間は、簡単には何かになれない。なりたいけれど、なれない。いつでも「肉体」がついてまわる。気になるのは「こころ」ではなく、「肉体」だ。「肉体」こそが「こころ」だからである。

うん、ちんぽこの大きさはいつも並だ。

 の「うん」という、自分自身への言い聞かせも、とても気持ちがいい。「肉体」に語りかけることばは、いつでも「口語」である。「口語」が歩いてまわる「場」はとても限られている。そこにはいつも体温がある。次の行の「あったかい」がとても自然なのは、この「口語」の力によるものだ。
 そこから出発して、男は、いまの「現実」をとらえなおす。もう一度、自分が何に「なる」か(なれるか)、祈りを点検する。現実が見えてくれば見えてくるほど、4行目の祈りが透明になる。4行目にもどって、その行だけを読んでいたいという気持ちに襲われる。
 こういうときの気持ちを「共感」というのかもしれない。あらゆる行を振り払って、そのなかの1行だけを抱きしめていたいと思う気持ちを。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする