詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(21)

2009-07-07 07:08:40 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 
 『旅人かへらず』のつづき。


十二月になつてしまつた
名越の山々の
麓を曲る小路に
はみ出た蒼白の岩かどに
海しだの墨色(すみいろ)のみどり
ふるへる
たんぽぽの蕾
あざみの蕾

 書き出しの「なつてしまつた」の音が私はとても好きである。「なつた」ではなく「なつてしまつた」。促音「っ」が重なることで、何か距離ができる。「った」「った」と繰り返されることで、一回の「った」よりも遠くへ放り出された感じがする。
 そして、その遠く離れた場所から、もと(?)の場所へ近づいて行くときの、そのリズムが好きである。「名越の山々の」で繰り返された「の」が、次々にくりかえされる。「の」を経由しながら、近づいて行く。そして、その「の」の小路(こみち、ではなく、しょうじ、と私は読みたい)の、繰り返される「曲る」という行為--それがおもしろい。 
 直線的に進むのではなく、ことばは「の」を経由しながら曲がりつづける。
 そこには「墨色のみどり」というような、えっ、どっち?といいたくなるような「色」まで出てくる。それは、ことばが曲がった拍子に、曲がり切れずにカーブで逸脱した「色」である。
 いったんことばが逸脱すると、それはさらに逸脱する。

たんぽぽの蕾
あざみの蕾

 十二月に、なぜ、そんなものがある?
 ここに書かれているのは「現実」ではない。ことばが動いていって、無意識につかみ取った「音楽」なのである。
 「たんぽぽ」の「ぽ」という音、半濁音が、必要だったのだ。
 なぜ、それが必要か。そんなことは、わからない。「ふるへる」の「は行」の動きから「たんぽぽ」の「ぽ」、「蕾」の「ぼ」へと動いていくとき、喉や唇が楽しい。「意味」ではなく、ただ音が楽しい。(その音の楽しさのなかに、何か「意味」があるかもしれないけれど、私は、それについては考えない。--考えてもわからないことは、私は考えないことにしている。)

 このあと、詩は、さらに動いていく。「たんぽぽの蕾」「あざみの蕾」へと逸脱したことを忘れたかのように、「十二月」に戻っていく。

砂に埋もれ
小さい赤い実を僅かにつけた
やぶかうじの根
苔と落葉の中にふるへる
この山々の静けさ
早く暮れる日影を拝む

 「やぶかうじ」という音が楽しい。この「やぶかうじ」にかぎらず、西脇はこのころ「旧仮名遣い」でことばを書いている。そこには「文字」と「音」の「ずれ」がある。「文字」は、「文字」それ自身の「音」ではなく、隠れている「音」をひきだしてくる。
 そのとき、何か不思議な「音楽」がはじまる。--それが「ふるへる」。そして、それが「静けさ」(静か)なのだと思う。
 「やかましい」ではなく、「静けさ」の「音楽」がそこにあると思う。
 最終行の「日影」も「日の影」ではなく、「日の光」という意味での「影」だろう。「ひかり」ではなく「かげ」というときの音の静かさ・美しさ、そして濁音独特の落ち着き--そういうもののすべてが「音楽」である。





西脇順三郎と小千谷―折口信夫への序章
太田 昌孝
風媒社

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粕谷栄市「丙午」「幽霊」

2009-07-07 00:01:09 | 詩(雑誌・同人誌)
粕谷栄市「丙午」「幽霊」(「現代詩手帖」2009年07月号)

 粕谷栄市は、あるような、ないような、どうでもいい(?)ことがらを、読点「、」の多い文体で書き綴る。そのあるような、ないような--、つまりほんとうはありえないことをことを書いているのだが、どうして、そんなことを書きつづけることができるのか。その「秘密」というか、そういう文体をつくりあげる「キーワード」は何か。
 「丙午」と「幽霊」から探してみる。
 まず、「丙午」。

 若し、おれが、その丙午の歳、午の日、午の刻に生ま
れていたら、おれは、太鼓の午の皮を張る職人になる。
 水呑み百姓の子沢山の家に生まれたおれは、十二歳か
ら、太鼓作りの親方について、撥棒で打たれながら、何
年もそのやり方を習う。二十四歳で、やっと一人前の太
鼓作り、それも専ら太鼓の皮を張る職人になる。
 それからは、毎日、そのことばかりに明け暮れる。つ
まり、おれは、殺された午の皮を剥いでは、板に釘で打
ちつけ、干して、鞣して、さらに、それを裁って、太鼓
を張る仕事を、朝から晩まで、やるわけだ。

 「午の皮」って、何? と思うことなんか許されず、「午」を信じ込まされて(おしつけられて?)、ことばの運動を追いながら、3連目で、そのことばの運動の「キーワード」に出会う。
 「つまり」。
 粕谷は、同じことを言い換えるのである。「丙午」に生まれ、太鼓の皮張り職人になる。ただ、それだけのことを、「つまり」を繰り返すことで、延々と語る。「つまり」は頻繁には出てこないが、それは書かれていないというだけのことであり、あらゆるところに「つまり」を挿入することができる。挿入してみれば、粕谷の書いていることが繰り返しであることがよくわかる。
 たとえば2段落のはじまり。「水飲み百姓の……」の前に「つまり」を挿入すれば、2段落目が1段落目を、視点を少しずらして言い直しただけのことがわかる。太鼓の皮張り職人にならざるを得ないのは、水飲み百姓の息子に生まれたから云々というわけである。
 粕谷はあらゆることばを省略された「つまり」で結びつける。それが省略されるのは「つまり」が粕谷にとっては「肉体」(思想)になってしまっていて、書く必要がないからである。無意識になってしまっているからである。
 そうやって世界を少しずつ言い直していくとき、最終的に(?)、その世界はどんなふうになるか。

(この世に、午などという生きものが、その皮を張った
太鼓などというの物が、本当に存在するのだろうか。)
 どこかで、でたらめな賽ころが転がって、その丙午の
歳、午の日、午の刻、結局、おれは、この世から消され
るのだと、そのときは、淋しく考えているのだ。

 ふつう、といっていいかどうかわからないけれど、「つまり」とことばを重ねていくと、はっきりしなかったものがだんだんはっきりしてくる。わかるようになる。ところが、粕谷のことばの運動では「つまり」と言い直せば言い直すほど、世界は「幻」にかわっていく。
 「つまり」の一瞬一瞬は、世界が断片的に見えるのだが、繰り返すと、それは消えてしまう。粕谷にならっていえば、そのとき、
 つまり、
 淋しさが残る。あるかないかわからない、「夢」が残る。「夢」こそが、「人間の淋しさ」だ。

 人間の淋しさ--それは、「つまり」を繰り返してしまうところにある。「つまり」は他人に説明するようであって、結局、自分自身に言い聞かせることばだからである。自分に言い聞かせるからこそ、省略もされるのである。

 「幽霊」の最後の部分。「淋しい」と書いたあと、次のようにつづく。

 わずかに、願うことといえば、やはり、どこかの貧し
く心ぼそい一生を送っている男に、そんな小さな提灯の
ようなものの夢を見てもらうことだ。
 つまり、一昔前のありきたりの絵草紙にあるように、
傾いて立つ墓石と風に揺れる枯れ芒の寒い優空に、ぽつ
んと、浮かんでいる古い小さな提灯の夢だ。

 「つまり」につづくことばは、粕谷の「肉体」のなかにあることがらだけで成り立っている。だから、つづければつづけるほど、現実からとおざかる。つまり、現実ではなく「夢」になる。「夢」をみるしかない「人間の淋しさ」にたどりついてしまうのである。



続・粕谷栄市詩集 (現代詩文庫)
粕谷 栄市
思潮社

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