詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(18)

2009-07-04 12:06:47 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』。その「一」。

旅人は待てよ
このかすかな泉に
舌を濡らす前に
考へよ人生の旅人
汝もまた岩間からしみ出た
水霊にすぎない
この考へる水も永劫には流れない
永劫の或時にひからびる
ああかけすが鳴いてやかましい
時々この水の中から
花をかざした幻影の人が出る
永遠の生命を求める夢は
流れ去る生命のせせらぎに
思ひを捨て遂に
永劫の断崖より落ちて
消え失せんと望むはうつつ
さう言ふはこの幻影の河童
村や町へ水から出て遊びに来る
浮雲の影に水草ののびる頃

 同じことばが何度も登場する。「旅人」「考へ」「永劫」「幻影」「永遠」「生命」。そして、その一連のことばは、互いに緊密に関係しながら「論理」を積み上げていくというぐあいには動かない。たがいに、そこで出会い、互いを照らしあう。
 そうしたことばのなかにあって、

ああかけすが鳴いてやかましい

 この1行だけが、まったく異質なもののように感じられる。そして、その「異質」であることによって、この1行がすばらしく美しいものに私には感じられる。
 それは思念のなかに、突然あらわれた「もの」である。
 その1行において、「やかましい」と書かれているのは「かけす」の鳴き声である。けれども、まわりの思念のことばとと対比した時、「やかましい」のは思念の方であって、かけすの方は逆に透明なくらい静かではないだろうか。
 「旅人」はかけすの鳴き声が「やかましい」という。しかし、かけすから見れば、「やかましい」のは旅人の思念の方ではないだろうか。「永劫」だの「幻影」だの「永遠」だの「生命」だのというものは、「頭」のなかにある。そういうものが動き回っている方が「やかましい」。かけすの声は、そういう「やかましさ」を浮かび上がらせる「自然」である。

 かけすの「やかましさ」のなかにある「静けさ」。かけすの「やかましさ」と同時に存在する「静けさ」。その「静けさ」を「やかましい」と言ってしまうときの「思念」の悲しみ。言わざるを得ない切なさ。
 西脇は、思念の動きと同時に、そういう情の世界を描いている。

 そのとき「淋しさ」はどちらに属することになるのか。「思念」の側か、情念の側か。そのどちらにも属さない。両方をつなぐものとして動く。



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財部鳥子「えひもせすん」、池井昌樹「甃」

2009-07-04 00:40:22 | 詩(雑誌・同人誌)
財部鳥子「えひもせすん」、池井昌樹「甃」(「鶺鴒通信」夏号、2009年07月01日発行)

 財部鳥子「えひもせすん」は美しい。この作品には「祖父」が出てくるのだが、その祖父は「わたし」(財部)がほんとうに見た姿なのか、それとも伝聞で聞いた姿なのか、よくわからさない。そして、その「よくわからない」こと、「現実」と「伝聞」の区別がつかないということのなかで、「真実」になるということが、その美しさなのである。

青田を吹く風は
音もなく後ろ山からやってきて
ひそひそと笑いながら広がっていた
水音ばかりひびく係累の故里
あさきゆめみし
えひもせすん

木蓮の低いひくい枝に
ひるまの仕事に汗びっしょりの
じゅばんが一まい干してある
袖無しだった
乾いたらそれをはおって
祖父はまた木を挽きはじめるだろう
じゅばんは干されほされて
汗の塩噴き おもくかたくなっている
わたしが返り血のように抱きしめる
かれの木挽きのしごと

初夏の丘へのぼって
水音だけのしずかな村を見わたすと
木の間隠れに白いじゅばんを見つけてしまう
るりは るりは
祖父に会ったことはないけれど
えひもせすん

 財部が書いていることが現実かどうかよくわからないのは、たぶん、そこに「うた」の調子がまじっているからだろう。
 「うた」の調子というのは、2連目の「低いひくい枝」「じゅばんは干されほされて」というようなことばの繰り返しのリズム、繰り返しのことをいう。
 そして、その繰り返しは、いま引用した1行のうちの、同じことばという形をとくだけではない。
 1連目の「あさきゆめみし/えひもせすん」は「いろはうた」。その「うた」は財部が彼女自身のことばでつくった「うた」ではなく、語り伝えられた「うた」である。その「うた」を引用するという形で繰り返すとき、財部は、「ひとびと」の記憶をくりかえしていることになる。他人の記憶を引用し、繰り返すから、それが財部の見た現実か、それとも他人の見た記憶(つまり、伝聞)かわからなくなるのだが、それは悪いことではない。美しいことである。引用し、繰り返すことで、財部は「ひとびと」と一体になる。その「ひとびと」は「係累」である。財部は、祖父を通じて、血のつながる「一族」と一体になる。「祖父の記憶」をとおして、「一族」になる。「故里」そのものになる。
 「故里」のひとびとはひたすら働く。汗がじゅばんに染みこんだら、そのじゅばんを脱いで干す。そしてじゅばんが乾くまでは休むけれど、じゅばんが乾けばまたそれを着て働きはじめる。繰り返し干されるじゅばんは汗のなかの塩のために「おもくかたく」なる。それほどまでに働く。そうやって「故里」そのものをつくってきた。
 初夏の「故里」へかえるたびに(現実に、か、夢のなかで、かはわからないが)、財部は、その「祖父のじゅばん」を見る。それは現実か、伝聞で聞いた人の話かわからないが、それが見える。祖父のじゅばんを見つけてしまう。そして、それが財部自身の(財部だけの)「記憶」ではないと知ったとき、彼女はもういちど「変身」する。「故里」の「ひとびと」、「係累」(一族)ではなく、「故里」にいる鳥、「るり」に。
 「るり」になって、財部は「故里」へ帰っているのだ。「故里」に帰ったとき、財部は「るり」になる。そして、実際には会ったことはないけれど、何度もことばのなかで、繰り返される「うた」のなかで会っている祖父の、真っ白なじゅばんを見る。木の枝に干されたじゅばんを。
 それは、「ゆめ」の帰郷である。

あさきゆめみし
えひもせす

* 

 池井昌樹「甃」もまた、繰り返される「うた」である。繰り返すことで、池井は池井自身でありながら、池井ではない存在、繰り返しのなかでいきている「いのち」になる。池井の場合、繰り返される「いのち」とは「詩人」のことである。

おまえのうまれるはるかむかし
ここにはしじんがくらしていた
しじんといってもなんのことやら
かいもくおれにはわからなかった
よつゆにぬれたいしだたみ
よちよちあるきのてをひいて
すあしのままで
たのしげだったなああれは
いつしかぼうやはいなくなり
さんざんまわりにうとまれた
しじんもいつしかいなくなり
きのどくだったがさっぱりとした
さっぱりとした
ひばちのはいをならしながら
はなしてくれたそのひとも
とおのむかしにいなくなり
あたりはかわってしまったけれど
このいしだだみはかわらない
よつゆにぬれたいしだだみ
すあしのままで
あのひのように
あのひ あのとき だれからも
わすれさられたわたしのほねが
しらじらとまだ
とんがっていて

 「あのひ」と変わったものと、変わらぬものがある。変わらぬものを「核」にして、「うた」は繰り返され、繰り返されることで「いのち」になる。「いのち」につながる。その「つながり」こそが、この世の変わらぬものなのだ。
 --というのは、はかない「ゆめ」だろうか。ゆめであっても、いい。

あさきゆめみし
えひもせすん




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