詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(24)

2009-07-10 07:38:09 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 
 『旅人かへらず』のつづき。

一三
梨の花が散る時分
松の枝を分けながら
山寺の坊主のところへ遊びに行く
都に住める女のもとに行つて留守
寺男から甘酒をもらつて飲んだ
淋しきものは我身なりけり

 1行目の「時分」という音が私は好きだ。古びた味がある。「ころ」とか「季節」ではあじわえない音の響きがある。「じぶん」。濁音がそう感じさせるのだと思う。
 濁音は濁った音、美しくないという人もいるが、私は、とても美しいと感じる。特に西脇のつかう濁音はとても耳に、いや、喉に気持ちがいい。私は音読しないが、声に出さなくても喉が動く。そのときの喉の不思議な解放感がある。
 濁音は2行目に「えだ」「ながら」、3行目に「やまでら」「ぼうず」「あそび」と出で来る。5行目「あまざけ」「のんだ」、6行目「さびしき」(私は「さみしき」ではなく「さびしき」と読んでいる)「わがみ」と出てくるが、4行目だけは出てこない。
 そして、その濁音の出てこない4行目で世界が転調する。「起承転結」の「転」のような感じで世界が動く。
 これが、私には非常におもしろい。
 4行目は「都に住める女のもとに行つて留守だった」とも「都に住める女のもとに行つて留守である」とも書くことができる。しかし、そんなふうに「だった」「である」と書くと濁音が登場することになる。
 西脇は、この行では意識的に濁音を避けているのだと思う。そうすることで、「意味」だけではなく、「音楽」そのものとしても転調しているだ。

 各行にでてくる「の」の音もとても気持ちがいい。「の」という音は鼻をくすぐる。空気の流れが、鼻をとおる。そのときの快感がある。



日本の詩歌〈第12〉木下杢太郎,日夏耿之介,野口米次郎,西脇順三郎 (1969年)

中央公論社

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時里二郎「さねのこのみ」(2)

2009-07-10 01:03:47 | 詩(雑誌・同人誌)
時里二郎「さねのこのみ」(2)(「現代詩手帖」2009年07月号)

 ことばを追いかけること、ことばから追いかけられること、ことばから離れること、ことばの内部に入り込んでしまうこと--この矛盾した動きが、いつでも時里の詩、ことばの運動なかにある。
 そうした矛盾のなかにやってくる「至福」というものが、ある。矛盾は「至福」とは無関係のもののように思えるが、(対立することが「矛盾」だからね)、時里の場合は、あるとき、その矛盾のなかに「至福」がやってくる。だからこそ、時里はことばを書くことができる。
 どんなふうにやってくるか。

 教わった古老の言うところによれば、投げあげた実が頂点に達して束の間静止する、その時にカタリモノの男は意表を突かれてひといきを飲む。その刹那に、物語の「さね」が彼の身体にすうっと入り込むのであると言う。

 「意表を突かれて」。この瞬間が「至福」である。ことばを動かしつづける、というのは意識的な操作である。ことばは、どこまでも意識のもとに動いていく。ことばは、意識しながら動かしていくものである。「矛盾」なら「矛盾」で、それ意識しながら、その拮抗がことばに影響する力をみきわめながら、どこまでも意識的に動かしていくものである。
 そのことばが、ある一点に達すると、ふいに止まる。動かなくなる。その瞬間、意識が空白になる。ことばを動かしていた意識に、ふいに「空白」がやってくる。この「空白」を「意表を突かれる」と呼ぶことができる。
 それまでのことばの運動ではつかみきれない何か。ことばを超えた何か。ことばを超えたことば。(そんなものは、ない、という人がいるかもしれないけれど。)
 それはことば以前のインスピレーションのようなものかもしれない。そして、それが至福である。ことばにならない、ということが「至福」である。なぜなら、詩人とは、いままでのことばにあきあきしている人間のことだからである。ことばにならないことばがあるなら、それこそ詩なのだから。それを書き留めることができれば、だれでも最高の詩人、絶対詩人(?)になることができる。
 ことろが、ことば以前であるから、それは絶対にことばにならない
 --ここにも、矛盾が出てくる。

 矛盾。矛盾。矛盾。
 これを時里はどうやって動かしていくのか。詩の最後の部分。

 もちろん潔斎などやらない余所者のわたしに、「さねのこのみ」のことだまが入り込むわけがない。採取した木の実の中に、それを見わける霊力はわたしにはない。したがって、「さねのこのみ」が流れ着かなくなったことを証すことはできない。

 「もちろん」や「したがって」という「論理構造」を借りて、むりやり動かしていく。「詩」が突然あらわれる「空白」(意表を突くもの)であるとすれば、この「論理構造」はその「空白」を越えていくための飛躍、ジャンプである。なにが「もちろん」か、なにが「したがって」か、その根拠などない。しかし、「もちろん」や「したがって」ということばは、強引にそこに「論理」という道筋をでっち上げてしまう。
 おそらく、時里は「もちろん」や「したがって」という強引に論理を作り上げることばがこの世界になかったら、ことばを動かしていくことができない人間のひとりである。(と、私は、思う。)
 この「むりやり」のことをなんというか。

 ただわたしは、さきほど古老の語ってみせた木の実の見分け方に、あきらかに「カタリ」を見た。「さねのこのみ」が流れ寄らなくなった原因を見た。文字どおり「カタル」に落ちたのだ。重さの失せた「さねのこのみ」を紡ぎ出した島嶼のことばが、「さね」の入らぬ木の実ばかりを砂浜に漂着させているのだと。

 時里の「むりやり」を「カタリ」という。「カタリ」とは「語り」であると同時に「騙り」でもある。だまし、である。「もちろん」「したがって」などの論理のことばは「だます」ことをめざして動くのである。ほんとうのことを言うのではなく、うそをつく。
 詩が真実だとすれば、論理はうそなのである。

 ことばがたどりつけるのは、うそばっかり。けっして、真実にはたどりつけない。

 けれど、そのことが、この詩の最後のように、「さね」の入らぬ木の実ばかり(つまり、うそばかり)を漂着させているというとき、その指摘は、うそ? それとも、ほんとう?
 うそつきが、私はうそつきである、と告白するとき、それはうそ? それともほんとう?
 「矛盾」ではなく、その瞬間に、あらわれる「空白」。
 時里は、そんなふうにして、空白を、つまり詩を出現させる。


現代詩手帖 2009年 07月号 [雑誌]

思潮社

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