時里二郎「さねのこのみ」(2)(「現代詩手帖」2009年07月号)
ことばを追いかけること、ことばから追いかけられること、ことばから離れること、ことばの内部に入り込んでしまうこと--この矛盾した動きが、いつでも時里の詩、ことばの運動なかにある。
そうした矛盾のなかにやってくる「至福」というものが、ある。矛盾は「至福」とは無関係のもののように思えるが、(対立することが「矛盾」だからね)、時里の場合は、あるとき、その矛盾のなかに「至福」がやってくる。だからこそ、時里はことばを書くことができる。
どんなふうにやってくるか。
教わった古老の言うところによれば、投げあげた実が頂点に達して束の間静止する、その時にカタリモノの男は意表を突かれてひといきを飲む。その刹那に、物語の「さね」が彼の身体にすうっと入り込むのであると言う。
「意表を突かれて」。この瞬間が「至福」である。ことばを動かしつづける、というのは意識的な操作である。ことばは、どこまでも意識のもとに動いていく。ことばは、意識しながら動かしていくものである。「矛盾」なら「矛盾」で、それ意識しながら、その拮抗がことばに影響する力をみきわめながら、どこまでも意識的に動かしていくものである。
そのことばが、ある一点に達すると、ふいに止まる。動かなくなる。その瞬間、意識が空白になる。ことばを動かしていた意識に、ふいに「空白」がやってくる。この「空白」を「意表を突かれる」と呼ぶことができる。
それまでのことばの運動ではつかみきれない何か。ことばを超えた何か。ことばを超えたことば。(そんなものは、ない、という人がいるかもしれないけれど。)
それはことば以前のインスピレーションのようなものかもしれない。そして、それが至福である。ことばにならない、ということが「至福」である。なぜなら、詩人とは、いままでのことばにあきあきしている人間のことだからである。ことばにならないことばがあるなら、それこそ詩なのだから。それを書き留めることができれば、だれでも最高の詩人、絶対詩人(?)になることができる。
ことろが、ことば以前であるから、それは絶対にことばにならない
--ここにも、矛盾が出てくる。
矛盾。矛盾。矛盾。
これを時里はどうやって動かしていくのか。詩の最後の部分。
もちろん潔斎などやらない余所者のわたしに、「さねのこのみ」のことだまが入り込むわけがない。採取した木の実の中に、それを見わける霊力はわたしにはない。したがって、「さねのこのみ」が流れ着かなくなったことを証すことはできない。
「もちろん」や「したがって」という「論理構造」を借りて、むりやり動かしていく。「詩」が突然あらわれる「空白」(意表を突くもの)であるとすれば、この「論理構造」はその「空白」を越えていくための飛躍、ジャンプである。なにが「もちろん」か、なにが「したがって」か、その根拠などない。しかし、「もちろん」や「したがって」ということばは、強引にそこに「論理」という道筋をでっち上げてしまう。
おそらく、時里は「もちろん」や「したがって」という強引に論理を作り上げることばがこの世界になかったら、ことばを動かしていくことができない人間のひとりである。(と、私は、思う。)
この「むりやり」のことをなんというか。
ただわたしは、さきほど古老の語ってみせた木の実の見分け方に、あきらかに「カタリ」を見た。「さねのこのみ」が流れ寄らなくなった原因を見た。文字どおり「カタル」に落ちたのだ。重さの失せた「さねのこのみ」を紡ぎ出した島嶼のことばが、「さね」の入らぬ木の実ばかりを砂浜に漂着させているのだと。
時里の「むりやり」を「カタリ」という。「カタリ」とは「語り」であると同時に「騙り」でもある。だまし、である。「もちろん」「したがって」などの論理のことばは「だます」ことをめざして動くのである。ほんとうのことを言うのではなく、うそをつく。
詩が真実だとすれば、論理はうそなのである。
ことばがたどりつけるのは、うそばっかり。けっして、真実にはたどりつけない。
けれど、そのことが、この詩の最後のように、「さね」の入らぬ木の実ばかり(つまり、うそばかり)を漂着させているというとき、その指摘は、うそ? それとも、ほんとう?
うそつきが、私はうそつきである、と告白するとき、それはうそ? それともほんとう?
「矛盾」ではなく、その瞬間に、あらわれる「空白」。
時里は、そんなふうにして、空白を、つまり詩を出現させる。