林嗣夫「方法」(2)(「兆」142 、2009年05月01日発行)
きのうの「日記」で私は私の感想をきちんと書けたのだろうか。思っていることをきちんと書ける--ということはほとんとないけれど、今回の場合、特に、その心残りのようなものが重くのしかかってくる。
修辞にいらだつときは
こっそりその場を抜け出して
抜け出して
しかし 別に行くところもない
行くところもないということを
軽く
口ずさんでみてはどうか
これも「修辞」といえば「修辞」になるのだろう。
この部分が気になるのは、そこに書かれていることが、たとえば最終連の、
風がやわらかく包もうとしているものを
そのまま
わたしだと言ってみる方法もある
とは違うからだ。
最終連は、ウグイスの「ホーホケホケ」でも何でもいいのだが、「わたし」ははっきり「わたし」ではないものである。
ところが2連目では、「口ずさんでみ」たものは、「わたし」なのか、「わたし」ではないのか、よくわからない。
こそっそり場を抜け出して、そのことを「抜け出して」と口に出してみる。「別に行くところもない」と思い、その思いを「行くところもない」と口に出してみる。「わたし」の行為、「思い」をそのまま、ことばにしてみる。なぞってみる。そのとき、「わたし」は「わたし」のあり方を確認しているのだろうか。
それとも、「ことば」そのものになっているのだろうか。
林の夢(欲望?)は、あるいは「本能」は、「ことば」そのものになることを求めている。ことばが描き出すものが「真実」であるかどうかではない。つまり、「ことば」で真実を書き表したいということではない。もちろん、真実を書き表せればそれはそれにこしたことはないが、真実でなくてもいいのだ。もし、「ことば」そのものになれるなら。
私の感想は、たぶん、多くの補足を必要とする。もっとていねいに書かないと、何を書いているかわからないだろうと思う。--そう、思うけれど、実は、どう書いていいかわからない。
林の書きたいものは「真実」ではない--というとき、私が思い描いている「真実」とは、たとえばプラトンだとかカントだとか、哲学者の完成された「ことば」のことである。現実をことばで分析し、いままでのことばでは見えなかった隠れた事実--現実を動かしている力を明るみにだす--そうやって明るみに出されたものを「真実」だと定義すれば、林の求めていることばは、そういう「真実」とは無関係なことばである、という意味である。
人間の存在そのものにかかわり、人間を、いまある状態から、もっと高みへ育てていくことば、その「修辞」、「修辞的事実」、そういう「真実」とは違うものを、林のことばは求めている。そういうことばとは違ったことばになろうとしている。
「修辞に疲れたときは」というのは、単になにかを「美しく(?)」語ることに疲れたらというのではないと思うのだ。プラトンやカントや、その他だれでもいいのだけれど、なにか「真実」を語ろうとする「強いことば」に疲れたらという意味なのではないのか。そういうものを「ことば」で語ろうとするのではなく、もっと違う『真実』(区別するために、『 』でくくってみた)を語りたいのではないのか。もっと違う『真実』を語ることばになりたいのではないのだろうか。
「強いことば」で語る「真実」とは違うもの、「弱いことば」で語る『真実』。
なにか、そういうものを求めていると感じる。
「真実」を「わたし」と言い換えてみる。
林の求めているのは「強いことば」で語る「わたし」ではない。「弱いことば」で語る『わたし』なのだ。それは「強いわたし」ではなく、『弱いわたし』。
私たちの「肉体」のなかには、「強いわたし」もいれば、『弱いわたし』もいる。「強いことば」があふれているとき、『弱いわたし』はどこかに欠落している。それを、すくいだしたい。ことばで、ちきんと定着させたい。そういう『弱いわたし』のための「ことば」そのものになりたい。
その方法として、
こっそりその場を抜け出して
抜け出して
しかし 別に行くところもない
行くところもないということを
軽く
口ずさんでみてはどうか
という方法がある。
それはどこかで、最終連の、「ホーホケホケ」に「なる」(それをわたしだと言ってみる)という方法につながるのだろうけれど、その、一種の「俳句的境地」にたどりつくまえの、2連目の、不思議に「弱いことば」に私はこころを動かされるのである。
どうしようもない(?)人間のあり方が、ていねいに、正直に描かれていると感じる。だから、何度も何度も読んでしまう。何度も何度も考えてしまう。