杉本徹『ステーション・エデン』(2)(思潮社、2009年06月30日発行)
杉本徹『ステーション・エデン』の作品群は、ことばが、ことばを求めている。最初から書きたいことばがあるのではないのだ。あることばを書く。そうすると、そのことばが、別のことばを求めるのだ。
詩集のタイトルの「ステーション・エデン」。書き出し。
移りゆく日付は彗星から来た。歩道橋より垂れて滲むラテラノの光を踏み、環状道のさす夜行性鹿(ディア)たちの、背を数えて。
これは単なる倒置法ではない。倒置法ではないことは、「歩道橋より……」を冒頭にもってきて、「移りゆく日付は彗星から来た。」を末尾にもってくればわかる。ふつうの文章にしても、書いてあることがわからない。(と、書くのは申し訳ないけれど……。)
最初に句点「。」のある文章が来て、それにつづく文章が「数えて」と連用形でおわると、どうしても倒置法の文章だと思ってしまうが、そうではないのだ。
「移りゆく日付は彗星から来た。」と書いたとき、杉本には、それが何を書こうとしているのかまだわかっていない。これは、悪い意味で行っているのではない。
杉本がことばを書いているというより、ことばが、杉本に「移りゆく日付は彗星から来た。」と書かせているのだ。ことばが、杉本なら、そのことばを、きちんと沈黙と闘わせることができると判断して、杉本を書き手として選んでいるのだ。詩人とは、ことばを選ぶ人ではなく、ことばによって選ばれる人なのである。
移りゆく日付は彗星から来た。
主語も述語も、全部わかる。ことばとして、ひとつひとつの「意味」はわかる。けれど、それが現実のどのようなこと指しているのか、それは、わからない。(私にはわからない、ということで、私以外の読者のなかには、書かれている「意味」がわかる人もいるかもしれないが……。)
そのひとつひとつはわかるけれど、全体としてはわからないことばは、どうやって存在しうるのか。それは、新たなことばを求めることで存在している。音楽のひとつの音が別の音を求め、和音をつくるように、杉本のことばは「和音」をつくることばを求めている。
彗星は夜。夜は人工の光「ラテラノ」(ランタン、のことだろうと思って読んだが、違うかもしれない。私は外国語がわからない)を呼び出す。そして、そこには車が走りはじめる。--冒頭の2行は、環状線を走る車の描写を連想させるが、「ステーション」というくらいだから、「環状道」というのは道路ではなく、線路かもしれない。呼び出されることば、イメージが、冒頭のことば同様、ひとつひとつの単語はわかるが(私には「ラテラノ」が正確にはわからなかったけれど)、全体としてぼんやりしたイメージとしてしか把握できないのは、「移りゆく日付は彗星から来た」自体が明確なイメージ、現実に対応した「流通言語」ではないからだ。
あいまいなもの、正確(?)ではない言語、いや、流通言語を逸脱していくことばは、積み重ねれば積み重ねるほど流通言語を逸脱していく。ますます、わからないものになる。それは必然である。
だが、意味はあいまいになるけれど「和音」のようなものはしだいに安定してくる。ひとつのことばだけでは不安定だったものが、響きあうことばと出会うことで、不思議な安定感を持ちはじめる。広がるのである。単独であることを超越して、広さをもった何かに変わるのである。
繰り返しになるが、冒頭の2行で書こうとしていることは、私には正確にはわからないけれど、わからないなりに、そのことばから夜の風景が浮かんでくる。夜の風景になろうとする何かが浮かんでくる。
杉本にしても、最初からイメージがあって、それにあわせてことばを探してくるというよりも、最初のことばに反応してあらわれる次のことばから、これは響きあう(和音になる)と判断したものだけを選んでいるのだと思う。ピアノでメロディー、和音をつくるように、ひとつのことば(音)を中心にして、いくつかのことば(音)の間を組み合わせてみる。そして、そのなかで自分の耳に(感性に)あったものだけを選びつづけるのだと思う。
このとき、杉本がことば(音)を選んでいるのではなく、ことば(音)が杉本を選んでいる、と私は思う。ことば(音)に選ばれる喜びのようなものが、その文体に滲んでいる。杉本の書いていることがらは、どちらかといえば悲劇的というか、冷たい感じのするものだが、そこには不思議な祝祭のような響きもある。喜びがある。
いくつものことばが杉本を通りすぎる。そして、杉本がことばを選ぶのではなく、ことばによって杉本が選ばれる。その選ばれる瞬間、一瞬の「間」として、ここでも読点「、」がいきいきと動いている。読点「、」があることによって、ことばそのものが「空間」というか「間」をつくり、「間」によって「和音」が美しく響く。ことばとことばが競合せず、「間」のなかに不思議な触れ合いの余裕ができる。
ことばは連続するのではなく、触れ合うのだ。
冒頭の書き出しに戻る。それが倒置法なら、文章を入れ換えることで完全に接続する。連続する。けれど、もともと連続を求めていないことばなのである。連続するのではなく、触れ合うこと、触れ合うことで、ひとつでは存在しなかった響きを感じさせるための句点「。」なのである。そして、句点「。」の方が、読点「、」より「間」が大きいのだ。読点「、」のような一瞬ではない。深い、遠い、距離がある。そして、それが深く、遠いからこそ、その「間」を超えてくることばは、より現実から遠いものになる。
「数えて」というような連用形は、広がりすぎた「間」をなんとか縮めようとする言語操作かもしれない。拡大していく「和音」を最初のシンプルな音に戻すための操作かもしれない。
この詩では、すべての連が、あくまで「倒置法」を装った、連用形や助詞などで終わっているが、それは、ことばを再出発させるためである。ことばに、杉本を選ばせ直すためである。
タイトルの「ステーション」にそういう意図があるかどうかわからないが、句点「。」はまさにステーション(駅)なのだ。そこにはいくつもの方向から列車がやってくる。ひとはそこで触れ合い、また別の方向へ動いていく。
句点「。」という駅は、は巨大な沈黙の補給基地かもしれない。
タイトルの「ステーション」にそういう意図があるかどうかわからない--と書いたが、それがことばに選ばれるということなのだ。杉本の意図とは無関係に、そういう意図があると誤読できる。そういう誤読を誘うことばが存在するということが、選ばれるということだ。
誰も誤解しないような「正確な」ことばは、ことばによって選ばれた結果ではない。法律用語のように、何重にもしばりあげた(選択しつづけた)結果、やっと成り立つものである。
誤解されるようなことばを選ばされてしまう--それが詩人の特権というものかもしれない。