詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(44)

2009-07-31 06:54:44 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

六九
夕顔のうすみどりの
扇にかくされた顔の
眼(まなこ)は李(すもも)のさけめに
秋の日の波さざめく

 「さ行」の音が響きあっている。この詩でも最終行「波さざめく」には助詞がない。助詞がないことによって、ことばのスピードが速くなっている。

七〇
都の街を歩いてゐた朝
通りすがつた女の後(うしろ)に
ベラームのにほひがした
これは小説に出てゐたことだ
誰の書いた小説か忘れた
さほど昔のことならねど

 詩は体験を書くわけではない。ことばを書く。
 実際に女の匂いをかいだように書いて、それは実は小説のことである、と切り返す。その瞬間、頭のなかに浮かんだ光景が、ことばそのものになる。
 その軽さがとても楽しい。

七二
昔法師の書いた本に
桂の樹をほめてゐた
その樹がみたさに
むさし野をめぐり歩いたが
一本もなかつた
だが学校の便所のわきに
その貧しき一本がまがつてゐた
そのをかしさの淋しき

 この詩は西脇の嗜好をとてもよくあらわしている。「まがつてゐ」の木。そして、それが「便所」という俗なもののそばにあること。この場合「俗」はほとんど「永遠」とおなじである。「聖」よりも「俗」が永遠なのだ。そこには、人間の暮らしがあるからだ。
 「俗」のおかしみ。そしてそれを「淋しさ」と結びつけている。
 わび・さびというものが対象に属するとしたら、淋しさは対象ではなく、その対象にむけられた人間のいのちのなかにある。わび・さびは共有できるが「淋しさ」とその美しさは、たぶん、共有できない。共有できないからこそ、それを西脇は書く。書くことで、そこに成立させる。



西脇順三郎詩集 (1965年) (新潮文庫)
西脇 順三郎
新潮社

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杉本徹『ステーション・エデン』(2)

2009-07-31 00:02:24 | 詩集
杉本徹『ステーション・エデン』(2)(思潮社、2009年06月30日発行)

 杉本徹『ステーション・エデン』の作品群は、ことばが、ことばを求めている。最初から書きたいことばがあるのではないのだ。あることばを書く。そうすると、そのことばが、別のことばを求めるのだ。
 詩集のタイトルの「ステーション・エデン」。書き出し。

移りゆく日付は彗星から来た。歩道橋より垂れて滲むラテラノの光を踏み、環状道のさす夜行性鹿(ディア)たちの、背を数えて。

 これは単なる倒置法ではない。倒置法ではないことは、「歩道橋より……」を冒頭にもってきて、「移りゆく日付は彗星から来た。」を末尾にもってくればわかる。ふつうの文章にしても、書いてあることがわからない。(と、書くのは申し訳ないけれど……。)
 最初に句点「。」のある文章が来て、それにつづく文章が「数えて」と連用形でおわると、どうしても倒置法の文章だと思ってしまうが、そうではないのだ。
 「移りゆく日付は彗星から来た。」と書いたとき、杉本には、それが何を書こうとしているのかまだわかっていない。これは、悪い意味で行っているのではない。
 杉本がことばを書いているというより、ことばが、杉本に「移りゆく日付は彗星から来た。」と書かせているのだ。ことばが、杉本なら、そのことばを、きちんと沈黙と闘わせることができると判断して、杉本を書き手として選んでいるのだ。詩人とは、ことばを選ぶ人ではなく、ことばによって選ばれる人なのである。

移りゆく日付は彗星から来た。

 主語も述語も、全部わかる。ことばとして、ひとつひとつの「意味」はわかる。けれど、それが現実のどのようなこと指しているのか、それは、わからない。(私にはわからない、ということで、私以外の読者のなかには、書かれている「意味」がわかる人もいるかもしれないが……。)
 そのひとつひとつはわかるけれど、全体としてはわからないことばは、どうやって存在しうるのか。それは、新たなことばを求めることで存在している。音楽のひとつの音が別の音を求め、和音をつくるように、杉本のことばは「和音」をつくることばを求めている。
 彗星は夜。夜は人工の光「ラテラノ」(ランタン、のことだろうと思って読んだが、違うかもしれない。私は外国語がわからない)を呼び出す。そして、そこには車が走りはじめる。--冒頭の2行は、環状線を走る車の描写を連想させるが、「ステーション」というくらいだから、「環状道」というのは道路ではなく、線路かもしれない。呼び出されることば、イメージが、冒頭のことば同様、ひとつひとつの単語はわかるが(私には「ラテラノ」が正確にはわからなかったけれど)、全体としてぼんやりしたイメージとしてしか把握できないのは、「移りゆく日付は彗星から来た」自体が明確なイメージ、現実に対応した「流通言語」ではないからだ。
 あいまいなもの、正確(?)ではない言語、いや、流通言語を逸脱していくことばは、積み重ねれば積み重ねるほど流通言語を逸脱していく。ますます、わからないものになる。それは必然である。
 だが、意味はあいまいになるけれど「和音」のようなものはしだいに安定してくる。ひとつのことばだけでは不安定だったものが、響きあうことばと出会うことで、不思議な安定感を持ちはじめる。広がるのである。単独であることを超越して、広さをもった何かに変わるのである。
 繰り返しになるが、冒頭の2行で書こうとしていることは、私には正確にはわからないけれど、わからないなりに、そのことばから夜の風景が浮かんでくる。夜の風景になろうとする何かが浮かんでくる。
 杉本にしても、最初からイメージがあって、それにあわせてことばを探してくるというよりも、最初のことばに反応してあらわれる次のことばから、これは響きあう(和音になる)と判断したものだけを選んでいるのだと思う。ピアノでメロディー、和音をつくるように、ひとつのことば(音)を中心にして、いくつかのことば(音)の間を組み合わせてみる。そして、そのなかで自分の耳に(感性に)あったものだけを選びつづけるのだと思う。
 このとき、杉本がことば(音)を選んでいるのではなく、ことば(音)が杉本を選んでいる、と私は思う。ことば(音)に選ばれる喜びのようなものが、その文体に滲んでいる。杉本の書いていることがらは、どちらかといえば悲劇的というか、冷たい感じのするものだが、そこには不思議な祝祭のような響きもある。喜びがある。

 いくつものことばが杉本を通りすぎる。そして、杉本がことばを選ぶのではなく、ことばによって杉本が選ばれる。その選ばれる瞬間、一瞬の「間」として、ここでも読点「、」がいきいきと動いている。読点「、」があることによって、ことばそのものが「空間」というか「間」をつくり、「間」によって「和音」が美しく響く。ことばとことばが競合せず、「間」のなかに不思議な触れ合いの余裕ができる。
 ことばは連続するのではなく、触れ合うのだ。
 冒頭の書き出しに戻る。それが倒置法なら、文章を入れ換えることで完全に接続する。連続する。けれど、もともと連続を求めていないことばなのである。連続するのではなく、触れ合うこと、触れ合うことで、ひとつでは存在しなかった響きを感じさせるための句点「。」なのである。そして、句点「。」の方が、読点「、」より「間」が大きいのだ。読点「、」のような一瞬ではない。深い、遠い、距離がある。そして、それが深く、遠いからこそ、その「間」を超えてくることばは、より現実から遠いものになる。
 「数えて」というような連用形は、広がりすぎた「間」をなんとか縮めようとする言語操作かもしれない。拡大していく「和音」を最初のシンプルな音に戻すための操作かもしれない。
 この詩では、すべての連が、あくまで「倒置法」を装った、連用形や助詞などで終わっているが、それは、ことばを再出発させるためである。ことばに、杉本を選ばせ直すためである。

 タイトルの「ステーション」にそういう意図があるかどうかわからないが、句点「。」はまさにステーション(駅)なのだ。そこにはいくつもの方向から列車がやってくる。ひとはそこで触れ合い、また別の方向へ動いていく。
 句点「。」という駅は、は巨大な沈黙の補給基地かもしれない。

 タイトルの「ステーション」にそういう意図があるかどうかわからない--と書いたが、それがことばに選ばれるということなのだ。杉本の意図とは無関係に、そういう意図があると誤読できる。そういう誤読を誘うことばが存在するということが、選ばれるということだ。
 誰も誤解しないような「正確な」ことばは、ことばによって選ばれた結果ではない。法律用語のように、何重にもしばりあげた(選択しつづけた)結果、やっと成り立つものである。
 誤解されるようなことばを選ばされてしまう--それが詩人の特権というものかもしれない。



十字公園
杉本 徹
ふらんす堂

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