詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(30)

2009-07-17 07:13:03 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

三〇
春には
うの花が咲き
秋には
とちの実が落ちる庭
池の流れに
小さな水車(みずぐるま)のまはる庭
何人も住まず
せきれいの住む
古木の梅は遂に咲かず
苔の深く落ちくぼみ
永劫のさびれにしめる

 「の」の連続。それは2行目の「うの花」の「の」からはじまっている。ふつう(私だけ?)の感覚では「卯の花」というのはそれ全体でひとつのものであり「の」の意識はない。けれども西脇は「の」を意識する。
 「の」という音そのものが西脇は好きなのだと思う。
 「小さな水車のまはる庭」の「の」。「せきれいの住む」の「の」。「苔の深く落ちくぼみ」の「の」。これは、いまの日本語(?)なら「が」になるかもしれない。けれど西脇は「の」と書く。
 西脇が「が」を鼻濁音で発音したかどうか、私は知らないが、もしかすると鼻濁音ではなかったのかもしれない。鼻濁音なら「が」でも、鼻へ息がぬけていくときの快感があるけれど、「が」を口蓋で破裂させたまま、開いた唇から息を逃がすときは、肉体に快感がない。(これは、あくまで私の肉体感覚。)「の」にかえると、舌の位置は違うのだけれど、鼻を空気が通るときの快感は残る。

 この「の」は口語の「の」というよりも「文語」の「の」。その「文語」の感覚というか、ことばの動きが最終行をぐいとねじる。

永劫のさびれにしめる

 「さびれにしめる」というのは、口語ではない。というか、「さびれにしめる」といわれたとき(聞いたとき)、「さびれ」と「しめる」を「意味」として受け止めることができるかどうか、私はわからない。
 たぶん、「いま、なんていった?」と聞き返すだろう。
 「せきれいの住む」「苔の(深く)落ちくぼみ」なら瞬時に「の」が「が」であることがわかる。「さびれにしめる」では、「に」の動きが、なんといえばいいのだろう、漢文調である。何か、文体がギュッとつまった感じになる。
 そして、それが「ギュッとつまった感じ」という意識から、もういちど「の」を見直すと、「せきれいの住む」「苔の(深く)落ちくぼみ」の「の」にもギュッとつまった感じがする。「が」だと音が解放されてしまって、凝縮した感じがしない。
 特に、鼻濁音ではない「が」の場合、凝縮感は完全に消える。
 鼻濁音だと、鼻腔を通るときの感じ、口蓋に比べて狭い通路、長い(狭いから長く感じるだけか)通路を通るので、なんとはなしに、少しつまった感じになる。

 そんなことろにも、私は、西脇の「音楽」を感じる。ことばを「音」で動かしているという印象を持つ。
詩論 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
筑摩書房

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宮田浩介『Current 』(4)

2009-07-17 01:09:15 | 詩集
宮田浩介『Current 』(4)(思潮社、2009年06月10日発行)

 巻末におさめられた「エドワード・トマスに」という作品が大好きだ。

過ぎ去る前に「ウェウェヨンダ」と声に出してごらん、
「うねうねと曲がる水流の土地」。燃え上がった夕焼けが
薄らぐところを、ゆっくり下りていけば、その間に

闇に頼る音がまた見つかる。ブレイクネック、
メイプル・グランジ、ラズベリー・ホロウ、燃える夕焼けが
また見える高台を人々は飽きることなく

地名を植え歩いていった。大地のなだらかな
起伏が延々と続くその先で夕焼けの色は
藍に変わり、予期していた町々を抜けながら

みな自分の故郷であり得たと思う。庭には
プラスチックのカボチャの塔が輝くころ、すでに空は
遠い星のもの、ベガ、アルタイ…… でも俺たちは

俺たちの星へ戻る。284 、ローズ・モロウ・ロード、
ゴージ・ロードが飛び込んできて音も立てず爆発する。

 書き出しの1行がとてもいい。「ウェウェヨンダ」が何を意味するか私は知らない。詩集を読みながら宮田の旅を追いかけているかぎり、それは絶対にわからないものだと思う。けれども、いつか、宮田がバイクで走り抜けた大陸をバイクで走っていれば、ある土地に出会い、その瞬間「ウェウェヨンダ」の意味することがきっとわかると思う。
 それは、土地そのものに属した音。土地の音。「名前」ではなく、土地そのものが発する「声」。それがきっと空中に漂っている。いや、空気をつくっている。そう信じることができる。
 その見知らぬことばは、日本語の「うねうね曲がる水流」と響きあう。その響きあいが正しいかどうかなど問題ではない。見知らぬ土地の、見知らぬ声が宮田に語りかける。そうすると、その声に反応して、「うねうね曲がる水流」という声が宮田の内部から溢れてくる。その声の意味するものは「ウェウェヨンダ」には何のことかわからない。わからないけれど、共鳴するのだ。

 わからないまま、共鳴する音。声。その瞬間の「音楽」。「意味」がわからなくても、ことばを超えて、何かが交流する。そのときの快感。

 「ブレイクネック、/メイプル・グランジ、ラズベリー・ホロウ、」--これは土地の名前か、草の名前か、それともオレンジやアップルのように果物の名前か。あるいは夕焼けを描写するための「色」のことか。
 わからないけれど、そのわからない音の中を、私は動いていく。
 そのとき、そういう「音」を支えている「空気」が見える。「空気」を感じることができる。その「空気」は「ベガ、アルタイ」という星の名前のことろまで続いている。「空気」そのものは続いていないかもしれないけれど、「空間」を意識するこころは、そういう宇宙の果てまで一気に旅する。
 「音」を求めて。「音」を支える「空気・空間」を求めて。

 一方、肉体は「道」、「ロード」の上を移動する。「ロード」を駆け抜けることが、宇宙の果てまで旅することにかわる瞬間--それを支えているのが「音」の誘惑、「音楽」の誘惑なのだ。
 その「音楽」に誘われるまま、疾走する。そのとき、「土地」はどこかにあるのではなく、走っていく宮田(私という肉体)に向かってぶつかってくる。
 そんなことを思いながら、この詩集を読んだ。



Current
宮田 浩介
思潮社

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