『旅人かへらず』のつづき。
三〇
春には
うの花が咲き
秋には
とちの実が落ちる庭
池の流れに
小さな水車(みずぐるま)のまはる庭
何人も住まず
せきれいの住む
古木の梅は遂に咲かず
苔の深く落ちくぼみ
永劫のさびれにしめる
「の」の連続。それは2行目の「うの花」の「の」からはじまっている。ふつう(私だけ?)の感覚では「卯の花」というのはそれ全体でひとつのものであり「の」の意識はない。けれども西脇は「の」を意識する。
「の」という音そのものが西脇は好きなのだと思う。
「小さな水車のまはる庭」の「の」。「せきれいの住む」の「の」。「苔の深く落ちくぼみ」の「の」。これは、いまの日本語(?)なら「が」になるかもしれない。けれど西脇は「の」と書く。
西脇が「が」を鼻濁音で発音したかどうか、私は知らないが、もしかすると鼻濁音ではなかったのかもしれない。鼻濁音なら「が」でも、鼻へ息がぬけていくときの快感があるけれど、「が」を口蓋で破裂させたまま、開いた唇から息を逃がすときは、肉体に快感がない。(これは、あくまで私の肉体感覚。)「の」にかえると、舌の位置は違うのだけれど、鼻を空気が通るときの快感は残る。
この「の」は口語の「の」というよりも「文語」の「の」。その「文語」の感覚というか、ことばの動きが最終行をぐいとねじる。
永劫のさびれにしめる
「さびれにしめる」というのは、口語ではない。というか、「さびれにしめる」といわれたとき(聞いたとき)、「さびれ」と「しめる」を「意味」として受け止めることができるかどうか、私はわからない。
たぶん、「いま、なんていった?」と聞き返すだろう。
「せきれいの住む」「苔の(深く)落ちくぼみ」なら瞬時に「の」が「が」であることがわかる。「さびれにしめる」では、「に」の動きが、なんといえばいいのだろう、漢文調である。何か、文体がギュッとつまった感じになる。
そして、それが「ギュッとつまった感じ」という意識から、もういちど「の」を見直すと、「せきれいの住む」「苔の(深く)落ちくぼみ」の「の」にもギュッとつまった感じがする。「が」だと音が解放されてしまって、凝縮した感じがしない。
特に、鼻濁音ではない「が」の場合、凝縮感は完全に消える。
鼻濁音だと、鼻腔を通るときの感じ、口蓋に比べて狭い通路、長い(狭いから長く感じるだけか)通路を通るので、なんとはなしに、少しつまった感じになる。
そんなことろにも、私は、西脇の「音楽」を感じる。ことばを「音」で動かしているという印象を持つ。
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