金太中『高麗晴れ』(思潮社、2009年05月15日発行)
金太中『高麗晴れ』のなかの「百済観音」は静かな作品である。
静けさは、1連目の「ともかく」から生まれてきている。「ともかく」は最終行の「未だに知らない」と呼応している。「知らない」けれども「ともかく」魅了された。
「知らない」ことを乗り越えていく思いが「ともかく」である。そこには、ことばにならないものがある。ことばにならないとわかっていても、いま、知っていることば、それをつないで、思っていることを書いてみる。
そのとき、金のことばは特別詩的(?)に動くわけではない。むしろ、平凡である。「魅了」「名状し難い恍惚の境」。これでは「詩」ではない、という批判もあるかもしれない。その、いわゆる「詩」ではない部分が、静かなのである。「ともかく」なのである。「ともかく」書くしかないのである。
「ともかく」にこめられた思い--それは、あらゆる作品にある。つまり、どの作品にも「ともかく」を補って読むことができる。また、それと呼応する「未だに知らない」も補って読むことができる。
たとえば「道」。
「わたしの道」を誰かが歩いている。その理由を金は知らない。けれど、「わたしの道」は「ともかく」「わたしの道」なのだ。
金は「それでも」と書いているが、この「それでも」は「ともかく」なのである。「それでもともかく」ということばが省略されて「それでも」になっている。
「ふるさと感傷旅行」にも「ともかく」は深く深く隠れる形で存在する。
引用部分の最終行は、「ふるさとへの思慕は(ともかく)現にまさる」と読むことができる。夢の中にしかないふるさと、そのふるさとへの思慕は「ともかく」現にまさる。そして、このとき、その理由を金は「未だ知らない」わけではない。知っている。
そうなのだ。「未だ知らない」と書くとき、金はほんとうにそのことを「知らない」わけではないのだ。知っている。強く知っている。ことばにしなくてもいいくらい知っている。ことばにする必要がないくらい知っている。「血」が、つまり「肉体」が知っている。それは「肉体」に深くなじんでいて、「肉体」に深く溶け込んでいて、ことばにする必要がない。他人には説明できないけれど、その他人に説明できない形のまま、金の「肉体」のなかで、すべては「納得」されてしまっている。「ことば」を「肉体」にしずめたまま、金はすべてをつかみとる。
静かさは、ことばを排除する静けさなのだ。この静けさは、かなしみになる。かなしみを大声で叫ぶのではなく、静かさの中にしずめている。このときの「しずめる」は「鎮魂」の「鎮」にかさなるかもしれない。金ひとりの「魂」ではなく、彼につながる父母の、そしてその父母の「魂」につながる。
ゆっくり読まなければならない詩集である。どんな詩集もゆっくり読むものかもしれないけれど、とりわけゆっくり読まなければならない詩集である。
金太中『高麗晴れ』のなかの「百済観音」は静かな作品である。
今から四十年ほど前のこと
百済観音像を
半日もの間 飽かずながめていたことがある
本体が今のように
ケースに収まっていなかったころで
わたしは
この観音につよく惹かれた
どこで造られたか知る由もなかったが
ともかく
百済観音は
わたしを魅了してやまなかった
痩躯のみ佛は
美形というわけではないが
わたしを名状しがたい恍惚の境に
誘ってくれた
わたしは
百済観音が法隆寺の境内に在ることすら忘れ
拝むでもなく
ただ手を合わせて
呆けて見とれていたが
その故を
未だに知らない
静けさは、1連目の「ともかく」から生まれてきている。「ともかく」は最終行の「未だに知らない」と呼応している。「知らない」けれども「ともかく」魅了された。
「知らない」ことを乗り越えていく思いが「ともかく」である。そこには、ことばにならないものがある。ことばにならないとわかっていても、いま、知っていることば、それをつないで、思っていることを書いてみる。
そのとき、金のことばは特別詩的(?)に動くわけではない。むしろ、平凡である。「魅了」「名状し難い恍惚の境」。これでは「詩」ではない、という批判もあるかもしれない。その、いわゆる「詩」ではない部分が、静かなのである。「ともかく」なのである。「ともかく」書くしかないのである。
「ともかく」にこめられた思い--それは、あらゆる作品にある。つまり、どの作品にも「ともかく」を補って読むことができる。また、それと呼応する「未だに知らない」も補って読むことができる。
たとえば「道」。
わたしの道は
生まれたときからつづいている
わたしの道を
いつも誰かが歩いている
わたしの道はまだ天に届いてはいない
さりとて
地の底につながっているわけでもない
それでも
わたしの道は
だれの道でもなく
わたしの道
「わたしの道」を誰かが歩いている。その理由を金は知らない。けれど、「わたしの道」は「ともかく」「わたしの道」なのだ。
金は「それでも」と書いているが、この「それでも」は「ともかく」なのである。「それでもともかく」ということばが省略されて「それでも」になっている。
「ふるさと感傷旅行」にも「ともかく」は深く深く隠れる形で存在する。
わたしは異境に生まれた子
だから
わがふるさとはいつも夢のなかだ
ふるさとへの思慕は現(うつつ)にまさる
引用部分の最終行は、「ふるさとへの思慕は(ともかく)現にまさる」と読むことができる。夢の中にしかないふるさと、そのふるさとへの思慕は「ともかく」現にまさる。そして、このとき、その理由を金は「未だ知らない」わけではない。知っている。
そうなのだ。「未だ知らない」と書くとき、金はほんとうにそのことを「知らない」わけではないのだ。知っている。強く知っている。ことばにしなくてもいいくらい知っている。ことばにする必要がないくらい知っている。「血」が、つまり「肉体」が知っている。それは「肉体」に深くなじんでいて、「肉体」に深く溶け込んでいて、ことばにする必要がない。他人には説明できないけれど、その他人に説明できない形のまま、金の「肉体」のなかで、すべては「納得」されてしまっている。「ことば」を「肉体」にしずめたまま、金はすべてをつかみとる。
静かさは、ことばを排除する静けさなのだ。この静けさは、かなしみになる。かなしみを大声で叫ぶのではなく、静かさの中にしずめている。このときの「しずめる」は「鎮魂」の「鎮」にかさなるかもしれない。金ひとりの「魂」ではなく、彼につながる父母の、そしてその父母の「魂」につながる。
ゆっくり読まなければならない詩集である。どんな詩集もゆっくり読むものかもしれないけれど、とりわけゆっくり読まなければならない詩集である。
![]() | 高麗晴れ金 太中思潮社このアイテムの詳細を見る |