詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金太中『高麗晴れ』

2009-07-13 12:51:17 | 詩集
金太中『高麗晴れ』(思潮社、2009年05月15日発行)

 金太中『高麗晴れ』のなかの「百済観音」は静かな作品である。

今から四十年ほど前のこと
百済観音像を
半日もの間 飽かずながめていたことがある
本体が今のように
ケースに収まっていなかったころで
わたしは
この観音につよく惹かれた
どこで造られたか知る由もなかったが
ともかく
百済観音は
わたしを魅了してやまなかった

痩躯のみ佛は
美形というわけではないが
わたしを名状しがたい恍惚の境に
誘ってくれた

わたしは
百済観音が法隆寺の境内に在ることすら忘れ
拝むでもなく
ただ手を合わせて
呆けて見とれていたが
その故を
未だに知らない

 静けさは、1連目の「ともかく」から生まれてきている。「ともかく」は最終行の「未だに知らない」と呼応している。「知らない」けれども「ともかく」魅了された。
 「知らない」ことを乗り越えていく思いが「ともかく」である。そこには、ことばにならないものがある。ことばにならないとわかっていても、いま、知っていることば、それをつないで、思っていることを書いてみる。
 そのとき、金のことばは特別詩的(?)に動くわけではない。むしろ、平凡である。「魅了」「名状し難い恍惚の境」。これでは「詩」ではない、という批判もあるかもしれない。その、いわゆる「詩」ではない部分が、静かなのである。「ともかく」なのである。「ともかく」書くしかないのである。
 「ともかく」にこめられた思い--それは、あらゆる作品にある。つまり、どの作品にも「ともかく」を補って読むことができる。また、それと呼応する「未だに知らない」も補って読むことができる。
 たとえば「道」。

わたしの道は
生まれたときからつづいている
わたしの道を
いつも誰かが歩いている

わたしの道はまだ天に届いてはいない
さりとて
地の底につながっているわけでもない
それでも
わたしの道は
だれの道でもなく
わたしの道

 「わたしの道」を誰かが歩いている。その理由を金は知らない。けれど、「わたしの道」は「ともかく」「わたしの道」なのだ。
 金は「それでも」と書いているが、この「それでも」は「ともかく」なのである。「それでもともかく」ということばが省略されて「それでも」になっている。

 「ふるさと感傷旅行」にも「ともかく」は深く深く隠れる形で存在する。

わたしは異境に生まれた子
だから
わがふるさとはいつも夢のなかだ
ふるさとへの思慕は現(うつつ)にまさる

 引用部分の最終行は、「ふるさとへの思慕は(ともかく)現にまさる」と読むことができる。夢の中にしかないふるさと、そのふるさとへの思慕は「ともかく」現にまさる。そして、このとき、その理由を金は「未だ知らない」わけではない。知っている。
 そうなのだ。「未だ知らない」と書くとき、金はほんとうにそのことを「知らない」わけではないのだ。知っている。強く知っている。ことばにしなくてもいいくらい知っている。ことばにする必要がないくらい知っている。「血」が、つまり「肉体」が知っている。それは「肉体」に深くなじんでいて、「肉体」に深く溶け込んでいて、ことばにする必要がない。他人には説明できないけれど、その他人に説明できない形のまま、金の「肉体」のなかで、すべては「納得」されてしまっている。「ことば」を「肉体」にしずめたまま、金はすべてをつかみとる。
 静かさは、ことばを排除する静けさなのだ。この静けさは、かなしみになる。かなしみを大声で叫ぶのではなく、静かさの中にしずめている。このときの「しずめる」は「鎮魂」の「鎮」にかさなるかもしれない。金ひとりの「魂」ではなく、彼につながる父母の、そしてその父母の「魂」につながる。
 ゆっくり読まなければならない詩集である。どんな詩集もゆっくり読むものかもしれないけれど、とりわけゆっくり読まなければならない詩集である。



高麗晴れ
金 太中
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(27)

2009-07-13 09:59:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 
 『旅人かへらず』のつづき。

二一
昔の日
野ばらのついた皿
廃園の昼食
黒いてぶくろ
マラルメの春の歌
草の葉先に浮く
白玉の思ひ出
無限の情

 ここでは音がゆっくり動いている。ひらがなの効用だろうか。特に「黒いてぶくろ」に、そのゆったりした音の動きを感じる。「てぶくろ」の「ろ」の音が「マラルメ」のなかで見え隠れするのも楽しい。
 「意味」はなにかしらあるのかもしれない。マラルメの詩に「てぶくろ」が出てくるのだろうか。それともマラルメは、次の行に出てくる「露」(だろうと思う)を引き出すためのものなのか……。
 「草の葉先に浮く」は、前の行とつづけて「春の歌/草の葉先に浮く」と読むとき、いくつかの音が抜け落ちて「春の(歌/草の)葉先に浮く」と「は」の音が私の発声器官のなかで響く。そして、遠くで、その抜け落ちた「草」の「く」と「黒い」の「く」が呼び合っている。
 こんなことを思うのも「てぶくろ」という表記がゆったりしているからだ。

白玉の思ひ出
無限の情

 この2行は、「てぶくろ」に比べると非常に速い。音が速い。唐突に消えていく感じがする。「無限の情」と書いてあるが、私には、それがどんなものか感じる「時間」の余裕がない。つまり、何も感じない。何も感じないので、「無限の情」が重くない。実にさっぱりしている。
 「無意味」というさっぱりさ、一種のナンセンスな軽さがある。

 私は、無意味なナンセンスの軽さを、とても愛している。わたしのことばは、そういうものをもっていない。だから、そういうものに、とてもひかれる。

二二
あの頃桜狩りに
荒川の上流に舟を浮かべ
モーパッサンを読む
夕陽に葦の間に浮かぶ
下駄の淋しさ

 最後の「下駄」はいっしゅの「聖」と「俗」のとりあわせの「俗」に属するものかもしれない。「桜狩り」「舟(遊び)」「モーパッサン」という風雅、「夕陽」という哀惜に対して、「下駄」(捨てられた下駄)という俗。
 風雅と俗の対比--そこから浮かび上がる「淋しさ」。
 でも、それ以上に、「げた」という音の破壊力がすごい。濁音の破壊力がすごい。「靴」では、この破壊力がない。「ハイヒール」では、きっとぎょっとしてしまう。
 西脇の詩において、「もの」そのものではなく、「音」が選ばれている、と感じるのは、こういうことがあるからかもしれない。


名訳詩集 新装版 (青春の詩集 外国篇 11)

白凰社

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番外篇・IE8はダウンロードするな

2009-07-13 00:54:15 | その他(音楽、小説etc)

マイクロソフト製品への苦情である。私は「win95」時代にたいへん苦労した。今回も同じ苦労をしている。IEバージョンによるパソコンの不具合である。

パソコンを立ち上げるとIE8のダウンロードを勧められる。その勧めにしたがってダウンロードしたところ、たいへんな不具合が生じた。
私はワープロは富士通のオアシスをつかっている。キーボードは親指シフトである。
既存の文書を開こうとしたらエラーメッセージが出る。

「プロシャージャエントリーポイント??V@YAXPAX@ZダイナミックライブラリーMSVCRT.dllがみつかりませんでした。」

そして、そのエラーメッセージをつげるウインドウが「OK」ボタンを押しても、右上の×印を押しても閉じない。そればかりかパソコンが終了できなくなる。「コントロール」「オルト」「ディレート」キーを押してもだめである。コンセントを抜くしかない。
ネットで不具合情報を集めようにも、キーボードが正確に反応しない。URLすら打ち込めない。

家にある別のパソコンで、家人に、ネットで詳報を集めてもらった。やはり不具合を体験した人がいるらしい。IE8を削除すると、なんとかなるらしい。
しかし、これは、ほんとうに「なんとか」である。
私の場合、なんとか過去の文書(オアシス文書)を開けるところまできた。(まだ、印刷は試していない。)しかし、文字が打ち込めない。追加の書き込みはできない。アルファベットも日本語もキーボードと違った文字が出てくる。
いまは、あれこれキーボードを動かして、なんとか書けるところまできたが、あした書けるかどうかはわからない。だから、書ける内に「警告」を書いておく。

IE8はダウンロードするな

IE8にかぎらず、マイクロソフト製品はダウンロードするな、と私はいいたい。

「win95」時代の、とんでもない体験を書いておく。
IEの新バージョンをダウンロードした。そのときも、不具合が生じた。なにをしても、このなにをしても、というのは本当になにをしてもなのだ。すぐに「IEのページ違反」というメッセージが出てく、何もできなくなる。文章を書いていても、ゲームをしても、ネットを閲覧してもである。パソコンを立ち上げ、ソフトを立ち上げた瞬間に、そのメッセージが出る。(当時、私は富士通のパソコン、ワープロはオアシス、キーボードは親指シフトをつかっていた。)
困り果てて、富士通に問い合わせた。「わからない」
マイクロソフト(東京)に問い合わせた。そのとき応対したのは「松下」と名乗る人物だった。
松下「そのIEはこうにゅうしたものですか?」
私「マイクロソフトのサイトからダウンロードしたものです」
松下「マイクロソフトから直接購入した顧客以外の質問、苦情には対応しないことになっています」
私「IEを直接購入するというのはメーカー以外にないのではないのか。私のパソコンにはIEは最初から組み込まれていた。そして、つかっているとバージョンアップしてつかうよう、メッセージがとどいたのでダウンロードしただけ。街の家電店にもネットスケープはCDで売っているが、IEは売っていない。直接購入しろというなら購入するけれど、どこで購入できるのか」
松下「しかたありません。特別に、極秘情報を教えます。ニフティーのサイトで質問してください。私はマイクロソフトの社員なので、ここではこたえられないけれど、ニフティーのサイトでこたえています」
な、なんなんだ、この答えは。
この「松下」とな名乗ったマイクロソフトの社員は、IEの新バージョンが不具合を起こすことを知っている。それだけではなく、その解決方法も知っていて、マイクロソフトの社員であることを隠してニフティーで情報を提供している。マイクロソフトの社員としては情報提供をできないが、匿名でなら、情報を提供できる、というのである。

この段階で、私は、ぶちきれてしまった。こんな詐欺をマイクロソフトはやっているのか。

しかし、私は、ワープロがつかえないと(パソコンがつかえないと)いろいろ困るので、ニフティーのサイトへ行ってみた。
そこには、いろいろな情報が書いてある。もう、忘れてしまったが、ほんとうにいくつもいくつも対処方法が書いてある。そのいくつかを試してみた。けれど、どれもうまくいかない。改善しない。

もう一度、富士通に電話してみた。
富士通「パソコンをフォーマットしなおすしかないでしょうね」
ということで、私は、パソコンをフォーマットしなおした。フロッピー(なつかしい)に保存してなかったものは、すべて消えてしまった。詩も、批評も。
今と違ってUSBもない時代。周辺機器の接続やソフトのインストールに半日かかった。

この経緯は、当時あった(いまもあるかもしれない)「パソコンおやじ倶楽部」(だったかな?)のパソコンで困ったことというテーマでの体験に応募して、「1位」に選ばれた。「1位」はひとりではなく10人ほどいたので、商品に「吟醸酒」をもらった。

マイクロソフトは、たしかに「(ダウンロードしたことによる)損害などに対していっさい責任を負いません」という文章を出している。しかし、それは新バージョンをダウンロードして、障害が起きて、どうすればいいのだろうと探し回ったときにみつかるものにすぎない。
「更新情報があります」のメッセージを送りつけておいて、ダウンロードして障害が起きると「知りません」というのはひどすぎる。「これこれの機種、これこれのソフトとの互換性を確認済みです。これこれの機種、これこれのソフトをつかっている人のみ安全につかえます」くらいのことを先に言うべきだろう。

もう一度、書いておく。

IE8はダウンロードするな

さらに、ほんとうは、こういいたい。
マイクロソフトの商品は買うな、つかうな。


私は一度もつかいたいと思ったことがない。それなのに、なぜつかっている。親指シフトのキーボードが大好きだからだ。アルファベット入力もするけれど(会社では親指シフトキーボードがないから)、文字を書くのに時間が倍かかってしまう。(私は、アルファベットも親指シフトもブラインドでつかえる。)キーボードを叩く回数が2倍違う。いまは、どうかしらないが、以前はマックは親指シフトに対応していなかった。
コメント (2)
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