監督・脚本・原作 西川美和 出演 笑福亭鶴瓶、瑛太、余貴美子、香川照之、八千草薫
出だしにたいへんおもしろいシーンがある。鶴瓶が鮨をのどに詰まらせた老人の家へゆく。親族が集まっている。雰囲気が、容態を心配するというより、臨終を待っているという感じなのである。
鶴瓶はその雰囲気を察知する。
偽医者だから治療をためらうというより、治療することを親族が「望んでいる」かどうかを推し量っている。(親族が回復よりも死亡を望んでいることは、死んだ瞬間、ひとりがすぐに葬儀屋の手配を指示するところに端的に表れている。)これはもちろん医師倫理に反する行為かもしれない。それは承知で、やはり鶴瓶は悩む。偽医者であるから、「人情」の方が先に出てしまう。老人が生き続けることが、老人にとって、そして老人の家族にとってほんとうにいいことかどうかわからない。家族は、こころのなかで、老人が死んでしまって、介護などめんどうから解放されることをどこかで願っている。
何をしていいいかわからないとき、どうするか。ひとが喜ぶことをする――このキャラクターが、鶴瓶っぽい。あの、眼鏡の奥からひとの表情を窺っているような鶴瓶の顔にぴったりである。ひとの顔色を窺っておいて、何を望んでいるかわかった瞬間、ぱっと笑顔に切り替え、相手を喜ばせることをする。適役である。この映画の成功のひとつは主役に鶴瓶を抜擢したことである。
ひとの喜ぶことをしたい、ひとを喜ばせたい。この欲望で偽医者鶴瓶は動く。
八千草薫の胃がんを知ったときの対応に、それが強烈に表れる。八千草薫には医者の娘がいる。大病院で働いている。しかし娘に心配をかけたくないし、負担もかけたくない。そんな思いを知って、鶴瓶は八千草薫といっしょになって、娘をだますことにする。(はっきりとは覚えていないが、鶴瓶は「いっしょに嘘をつこう」というようなことを八千草薫にいう。
胃がんなのだけれど「胃潰瘍」ということにする。娘の医者に追及されたときにそなえて、胃潰瘍である香川照之の胃の写真さえ用意する。香川照之は薬販売員なのだが、薬を買うことを条件に、香川照之の胃の写真を撮らせてもらうのである。
どうも、みんな(村人を含め)、鶴瓶とかかわった人間は、鶴瓶が偽医者であるらしいことは知っているような感じである。インターンにやってくる若い医者、瑛太以外は。特に、看護婦の余貴美子は完全に偽医者であることを見抜いていて、鶴瓶にかわっててきぱきと診断を下す。救急患者にどう対処すればいいか鶴瓶に指示さえ出す。
医者のいない過疎の村。その不安には耐えられない。だから、鶴瓶が偽医者であったとしても、彼を受け入れる。医者がいると安心する。医者が「大丈夫だよ」といってくれると安心する。その「安心」とひきかえに「うそ」を受け入れる。医者が必要なのは、患者に不安があるからである。不安こそが、医療がとりのぞかなければならない最大の「病気」なのだ。
だからこそ、鶴瓶は、相手の話をよく聞く。昼間、八千草薫の診察をしたのに、わざわざ夜に出向いていく。看護婦も、若いインターンもいないところで、ふたりだけになって、八千草薫の本心を聞き出すためである。そこで、子どものように八千草薫に甘え、夕御飯を食べさせてもらい、子どもが何も知らない親に教えるようにナイター(テレビ)の見方を教える。親密な関係をつくり、相手の思いを聞き出す。そして、それにそって、八千草薫がのぞむ治療をする。八千草薫は死ぬことを恐れてはいない。ただ娘に心配をかけること、苦労をかけてしまうことだけを心配している。そういうことを、聞き出す。
とてもいいシーンである。つくった料理の半分も食べない八千草薫の、その皿を、じーっとみつめる鶴瓶の顔、それからナイターの見方を教えるときの鶴瓶の顔の、その目の輝きの違いなど、とてもいい。
鶴瓶は、八千草薫の娘をだましきれないと悟って、突然、村を逃げ出す。そして、鶴瓶が偽医者であったことが知れ渡る。村人は「ひどい男だ」と口にはするけれど、心底憎んでいるわけではない。八千草薫の娘さえ、鶴瓶を告発しようとする気持ちがだんだん薄れていく。
鶴瓶のしたことは医療としては間違っているのだけれど、完全に間違っているとはいえない部分があることに気がつくからだ。
それに関連するとてもおもしろいシーンがある。刑事が香川照之を訊問する。鶴瓶は偽医者である。それをほんとうに知らなかったのか。知っていたのではないか。知っていて、なぜ、それを受け入れたのか。また、なぜ鶴瓶は偽医者をやったのか。「愛からか」。
このとき、香川照之は突然椅子から転がり落ち、倒れる。すると刑事がびっくりして香川に近づき大丈夫か、たずねる。それをみて、香川が「いま、刑事がとっさに手をさしのべたのは、愛か」とたずねる。「愛」というような偽善ではなく、人間は、そんなことを定義などせず、とっさに何かをしてしまうものである。そこに、すべてがある。
村人の話を聞き、その不安を軽くするために、鶴瓶はとっさに何かをやってしまう。村人が望んでいることをとっさにしてしまう。そのとっさのなかにあるものは、「うそ」「ほんとう」では区別がつかないものである。
西川美和は、『揺れる』でも、何がほんとうかわからない兄弟の間のできごとを描いていた。ひとりの女をめぐっての、とっさの行動。愛しているからか、憎んでいるからか。そんなことは、わからない。わからないものがあるから、人間は、生きている。
ラストシーンも、とてもいい。鶴瓶は病院の配膳係になっている。そして、八千草薫の入院している病院で働いている。当然、そこには八千草薫の娘も働いている。そんなことろで働くことは、「偽医者」で追われている人間にとっては危険である。なぜ、そんなことろで働くか。鶴瓶は、八千草薫がどんな具合か見たかったのだ。元気かなあ、と心配だったのだ。だから、見にきたのだ。八千草薫は、配膳係が鶴瓶であると知って、びっくりする。そして、怒りだすかわりに、思わず「にっこり」笑ってしまう。このときの「思わず」は、「とっさ」と同じである。真理とか正義とかは関係なく、人間には「とっさ」に動く何かがある。そして、それはとても大切な何かなのだ。
「あら、鶴瓶、つかまらずにいたのね。見舞いにきてくれたのね。うれしいわ。」せりふはないけれど、そういうことばが聞こえてくる。とてもいいラストシーンだ。
2009年の邦画のベスト1はまちがいなく、この作品。人間の把握力がすばらしいし、村の美しい自然もいい。八千草薫と娘がふたつの部屋にいるのを、窓越しに撮っているシーン(窓枠のなかに、それぞれふたりがいる)も、とても美しい。
出だしにたいへんおもしろいシーンがある。鶴瓶が鮨をのどに詰まらせた老人の家へゆく。親族が集まっている。雰囲気が、容態を心配するというより、臨終を待っているという感じなのである。
鶴瓶はその雰囲気を察知する。
偽医者だから治療をためらうというより、治療することを親族が「望んでいる」かどうかを推し量っている。(親族が回復よりも死亡を望んでいることは、死んだ瞬間、ひとりがすぐに葬儀屋の手配を指示するところに端的に表れている。)これはもちろん医師倫理に反する行為かもしれない。それは承知で、やはり鶴瓶は悩む。偽医者であるから、「人情」の方が先に出てしまう。老人が生き続けることが、老人にとって、そして老人の家族にとってほんとうにいいことかどうかわからない。家族は、こころのなかで、老人が死んでしまって、介護などめんどうから解放されることをどこかで願っている。
何をしていいいかわからないとき、どうするか。ひとが喜ぶことをする――このキャラクターが、鶴瓶っぽい。あの、眼鏡の奥からひとの表情を窺っているような鶴瓶の顔にぴったりである。ひとの顔色を窺っておいて、何を望んでいるかわかった瞬間、ぱっと笑顔に切り替え、相手を喜ばせることをする。適役である。この映画の成功のひとつは主役に鶴瓶を抜擢したことである。
ひとの喜ぶことをしたい、ひとを喜ばせたい。この欲望で偽医者鶴瓶は動く。
八千草薫の胃がんを知ったときの対応に、それが強烈に表れる。八千草薫には医者の娘がいる。大病院で働いている。しかし娘に心配をかけたくないし、負担もかけたくない。そんな思いを知って、鶴瓶は八千草薫といっしょになって、娘をだますことにする。(はっきりとは覚えていないが、鶴瓶は「いっしょに嘘をつこう」というようなことを八千草薫にいう。
胃がんなのだけれど「胃潰瘍」ということにする。娘の医者に追及されたときにそなえて、胃潰瘍である香川照之の胃の写真さえ用意する。香川照之は薬販売員なのだが、薬を買うことを条件に、香川照之の胃の写真を撮らせてもらうのである。
どうも、みんな(村人を含め)、鶴瓶とかかわった人間は、鶴瓶が偽医者であるらしいことは知っているような感じである。インターンにやってくる若い医者、瑛太以外は。特に、看護婦の余貴美子は完全に偽医者であることを見抜いていて、鶴瓶にかわっててきぱきと診断を下す。救急患者にどう対処すればいいか鶴瓶に指示さえ出す。
医者のいない過疎の村。その不安には耐えられない。だから、鶴瓶が偽医者であったとしても、彼を受け入れる。医者がいると安心する。医者が「大丈夫だよ」といってくれると安心する。その「安心」とひきかえに「うそ」を受け入れる。医者が必要なのは、患者に不安があるからである。不安こそが、医療がとりのぞかなければならない最大の「病気」なのだ。
だからこそ、鶴瓶は、相手の話をよく聞く。昼間、八千草薫の診察をしたのに、わざわざ夜に出向いていく。看護婦も、若いインターンもいないところで、ふたりだけになって、八千草薫の本心を聞き出すためである。そこで、子どものように八千草薫に甘え、夕御飯を食べさせてもらい、子どもが何も知らない親に教えるようにナイター(テレビ)の見方を教える。親密な関係をつくり、相手の思いを聞き出す。そして、それにそって、八千草薫がのぞむ治療をする。八千草薫は死ぬことを恐れてはいない。ただ娘に心配をかけること、苦労をかけてしまうことだけを心配している。そういうことを、聞き出す。
とてもいいシーンである。つくった料理の半分も食べない八千草薫の、その皿を、じーっとみつめる鶴瓶の顔、それからナイターの見方を教えるときの鶴瓶の顔の、その目の輝きの違いなど、とてもいい。
鶴瓶は、八千草薫の娘をだましきれないと悟って、突然、村を逃げ出す。そして、鶴瓶が偽医者であったことが知れ渡る。村人は「ひどい男だ」と口にはするけれど、心底憎んでいるわけではない。八千草薫の娘さえ、鶴瓶を告発しようとする気持ちがだんだん薄れていく。
鶴瓶のしたことは医療としては間違っているのだけれど、完全に間違っているとはいえない部分があることに気がつくからだ。
それに関連するとてもおもしろいシーンがある。刑事が香川照之を訊問する。鶴瓶は偽医者である。それをほんとうに知らなかったのか。知っていたのではないか。知っていて、なぜ、それを受け入れたのか。また、なぜ鶴瓶は偽医者をやったのか。「愛からか」。
このとき、香川照之は突然椅子から転がり落ち、倒れる。すると刑事がびっくりして香川に近づき大丈夫か、たずねる。それをみて、香川が「いま、刑事がとっさに手をさしのべたのは、愛か」とたずねる。「愛」というような偽善ではなく、人間は、そんなことを定義などせず、とっさに何かをしてしまうものである。そこに、すべてがある。
村人の話を聞き、その不安を軽くするために、鶴瓶はとっさに何かをやってしまう。村人が望んでいることをとっさにしてしまう。そのとっさのなかにあるものは、「うそ」「ほんとう」では区別がつかないものである。
西川美和は、『揺れる』でも、何がほんとうかわからない兄弟の間のできごとを描いていた。ひとりの女をめぐっての、とっさの行動。愛しているからか、憎んでいるからか。そんなことは、わからない。わからないものがあるから、人間は、生きている。
ラストシーンも、とてもいい。鶴瓶は病院の配膳係になっている。そして、八千草薫の入院している病院で働いている。当然、そこには八千草薫の娘も働いている。そんなことろで働くことは、「偽医者」で追われている人間にとっては危険である。なぜ、そんなことろで働くか。鶴瓶は、八千草薫がどんな具合か見たかったのだ。元気かなあ、と心配だったのだ。だから、見にきたのだ。八千草薫は、配膳係が鶴瓶であると知って、びっくりする。そして、怒りだすかわりに、思わず「にっこり」笑ってしまう。このときの「思わず」は、「とっさ」と同じである。真理とか正義とかは関係なく、人間には「とっさ」に動く何かがある。そして、それはとても大切な何かなのだ。
「あら、鶴瓶、つかまらずにいたのね。見舞いにきてくれたのね。うれしいわ。」せりふはないけれど、そういうことばが聞こえてくる。とてもいいラストシーンだ。
2009年の邦画のベスト1はまちがいなく、この作品。人間の把握力がすばらしいし、村の美しい自然もいい。八千草薫と娘がふたつの部屋にいるのを、窓越しに撮っているシーン(窓枠のなかに、それぞれふたりがいる)も、とても美しい。
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