詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西川美羽監督「ディア・ドクター」(★★★★★)

2009-07-06 10:12:56 | 映画
監督・脚本・原作 西川美和 出演 笑福亭鶴瓶、瑛太、余貴美子、香川照之、八千草薫

 出だしにたいへんおもしろいシーンがある。鶴瓶が鮨をのどに詰まらせた老人の家へゆく。親族が集まっている。雰囲気が、容態を心配するというより、臨終を待っているという感じなのである。
 鶴瓶はその雰囲気を察知する。
 偽医者だから治療をためらうというより、治療することを親族が「望んでいる」かどうかを推し量っている。(親族が回復よりも死亡を望んでいることは、死んだ瞬間、ひとりがすぐに葬儀屋の手配を指示するところに端的に表れている。)これはもちろん医師倫理に反する行為かもしれない。それは承知で、やはり鶴瓶は悩む。偽医者であるから、「人情」の方が先に出てしまう。老人が生き続けることが、老人にとって、そして老人の家族にとってほんとうにいいことかどうかわからない。家族は、こころのなかで、老人が死んでしまって、介護などめんどうから解放されることをどこかで願っている。
 何をしていいいかわからないとき、どうするか。ひとが喜ぶことをする――このキャラクターが、鶴瓶っぽい。あの、眼鏡の奥からひとの表情を窺っているような鶴瓶の顔にぴったりである。ひとの顔色を窺っておいて、何を望んでいるかわかった瞬間、ぱっと笑顔に切り替え、相手を喜ばせることをする。適役である。この映画の成功のひとつは主役に鶴瓶を抜擢したことである。
 ひとの喜ぶことをしたい、ひとを喜ばせたい。この欲望で偽医者鶴瓶は動く。
 八千草薫の胃がんを知ったときの対応に、それが強烈に表れる。八千草薫には医者の娘がいる。大病院で働いている。しかし娘に心配をかけたくないし、負担もかけたくない。そんな思いを知って、鶴瓶は八千草薫といっしょになって、娘をだますことにする。(はっきりとは覚えていないが、鶴瓶は「いっしょに嘘をつこう」というようなことを八千草薫にいう。
 胃がんなのだけれど「胃潰瘍」ということにする。娘の医者に追及されたときにそなえて、胃潰瘍である香川照之の胃の写真さえ用意する。香川照之は薬販売員なのだが、薬を買うことを条件に、香川照之の胃の写真を撮らせてもらうのである。
 どうも、みんな(村人を含め)、鶴瓶とかかわった人間は、鶴瓶が偽医者であるらしいことは知っているような感じである。インターンにやってくる若い医者、瑛太以外は。特に、看護婦の余貴美子は完全に偽医者であることを見抜いていて、鶴瓶にかわっててきぱきと診断を下す。救急患者にどう対処すればいいか鶴瓶に指示さえ出す。
 医者のいない過疎の村。その不安には耐えられない。だから、鶴瓶が偽医者であったとしても、彼を受け入れる。医者がいると安心する。医者が「大丈夫だよ」といってくれると安心する。その「安心」とひきかえに「うそ」を受け入れる。医者が必要なのは、患者に不安があるからである。不安こそが、医療がとりのぞかなければならない最大の「病気」なのだ。
 だからこそ、鶴瓶は、相手の話をよく聞く。昼間、八千草薫の診察をしたのに、わざわざ夜に出向いていく。看護婦も、若いインターンもいないところで、ふたりだけになって、八千草薫の本心を聞き出すためである。そこで、子どものように八千草薫に甘え、夕御飯を食べさせてもらい、子どもが何も知らない親に教えるようにナイター(テレビ)の見方を教える。親密な関係をつくり、相手の思いを聞き出す。そして、それにそって、八千草薫がのぞむ治療をする。八千草薫は死ぬことを恐れてはいない。ただ娘に心配をかけること、苦労をかけてしまうことだけを心配している。そういうことを、聞き出す。
 とてもいいシーンである。つくった料理の半分も食べない八千草薫の、その皿を、じーっとみつめる鶴瓶の顔、それからナイターの見方を教えるときの鶴瓶の顔の、その目の輝きの違いなど、とてもいい。

 鶴瓶は、八千草薫の娘をだましきれないと悟って、突然、村を逃げ出す。そして、鶴瓶が偽医者であったことが知れ渡る。村人は「ひどい男だ」と口にはするけれど、心底憎んでいるわけではない。八千草薫の娘さえ、鶴瓶を告発しようとする気持ちがだんだん薄れていく。
 鶴瓶のしたことは医療としては間違っているのだけれど、完全に間違っているとはいえない部分があることに気がつくからだ。
 それに関連するとてもおもしろいシーンがある。刑事が香川照之を訊問する。鶴瓶は偽医者である。それをほんとうに知らなかったのか。知っていたのではないか。知っていて、なぜ、それを受け入れたのか。また、なぜ鶴瓶は偽医者をやったのか。「愛からか」。
 このとき、香川照之は突然椅子から転がり落ち、倒れる。すると刑事がびっくりして香川に近づき大丈夫か、たずねる。それをみて、香川が「いま、刑事がとっさに手をさしのべたのは、愛か」とたずねる。「愛」というような偽善ではなく、人間は、そんなことを定義などせず、とっさに何かをしてしまうものである。そこに、すべてがある。
 村人の話を聞き、その不安を軽くするために、鶴瓶はとっさに何かをやってしまう。村人が望んでいることをとっさにしてしまう。そのとっさのなかにあるものは、「うそ」「ほんとう」では区別がつかないものである。

 西川美和は、『揺れる』でも、何がほんとうかわからない兄弟の間のできごとを描いていた。ひとりの女をめぐっての、とっさの行動。愛しているからか、憎んでいるからか。そんなことは、わからない。わからないものがあるから、人間は、生きている。

 ラストシーンも、とてもいい。鶴瓶は病院の配膳係になっている。そして、八千草薫の入院している病院で働いている。当然、そこには八千草薫の娘も働いている。そんなことろで働くことは、「偽医者」で追われている人間にとっては危険である。なぜ、そんなことろで働くか。鶴瓶は、八千草薫がどんな具合か見たかったのだ。元気かなあ、と心配だったのだ。だから、見にきたのだ。八千草薫は、配膳係が鶴瓶であると知って、びっくりする。そして、怒りだすかわりに、思わず「にっこり」笑ってしまう。このときの「思わず」は、「とっさ」と同じである。真理とか正義とかは関係なく、人間には「とっさ」に動く何かがある。そして、それはとても大切な何かなのだ。
 「あら、鶴瓶、つかまらずにいたのね。見舞いにきてくれたのね。うれしいわ。」せりふはないけれど、そういうことばが聞こえてくる。とてもいいラストシーンだ。

 2009年の邦画のベスト1はまちがいなく、この作品。人間の把握力がすばらしいし、村の美しい自然もいい。八千草薫と娘がふたつの部屋にいるのを、窓越しに撮っているシーン(窓枠のなかに、それぞれふたりがいる)も、とても美しい。




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誰も書かなかった西脇順三郎(20)

2009-07-06 05:05:20 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『旅人かへらず』。そのつづき。


りんだうの咲く家の
窓から首を出して
まゆをひそめた女房の
何事か思ひに沈む
欅(けやき)の葉の散つてくる小路の
奥に住める
ひとの淋しき

 2行目の「首」から3行目の「まゆ」への視線の移動は、西脇独特の闊達な動きである。「顔」を出して、「まゆをひそめる」だと、視線が移動せず、集中する。西脇にとっては、「集中」よりも「移動」が重要なのである。 
 りんどう→家→窓→首→まゆという動きも、集中というよりは移動である。集中するに白、最初から狙いを定めてそこへ向けて動くのではなく、まわりをあちこち動き回りながら(つまり、脇道へ逸脱しながら)、最終的にある一点にたどりつく。
 目的地(?)にたどりつくことに詩があるのではなく、目的地があるにもかかわらず、どこかへはみだしてゆくところにこそ、詩がある。逸脱する運動が詩なのである。

 3行目の「女房」(にょうぼう)という音が、また美しい。「女」(おんな)であったら、この詩の魅力は半減する。「にょうぼう」というゆったりとしたふくらみのある音が、「りんどう」から「まぬ」までの移動の運動に、ゆっくりとブレーキをかける。ことばの速度を遅くする。「おんな」という短い音では、ことばが加速してしまう。
 「にょうぼう」というゆっくりした音で、転調が起きる。
 「女」と違って「女房」は、家庭・家族というものを連想させる。男と女の時間とは違った余分なもの(?)を「女房」は抱え込んでいる。
 世の中には、「女」に属する「永遠」(真実)もあるが、「女房」に属する「永遠」もある。「女」ということばでは、そのふたつの永遠、永遠がふたつあるということがわからない。「女房」だからこそ、おんなの時間にふたつの永遠があることを指し示すことができる。
 「ひとの淋しき」というとき、その「ひと」は「女房」から見た「ひと」である。余分なもの(?)のなかに取り残された「永遠」。
 いま、私が書いたのは……。
 「女房」が余分というのではない。「女房」が抱え込むいろいろなものなかに生き続けているもの、そのなかにある「永遠」という意味である。男・女の関係を乗り越えてあふれるものがある。そして、そのあふれて、まわりをうめつくすものなかに、男・女の関係では見落とされるもののなかに生き続ける「いのち」の「淋しさ」。それが「永遠」。



西脇順三郎の研究―『旅人かへらず』とその前後 (新典社選書)
芋生 裕信
新典社

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村上春樹『1Q84』

2009-07-06 00:14:47 | その他(音楽、小説etc)
村上春樹『1Q84』(新潮社、2009年05月30日発行)

 とてつもなく気持ちの悪い小説である。簡単すぎるのである。読んでいる実感がない。まとまった時間がとれなかったので、とぎれとぎれに読んだのだが、どんな話だっけ? どこまで読んだのだっけ? この人だれだっけ? というような混乱がいっさい起きない。小説って、こんな簡単なことばで書かれたもののこと?
 なぜ、こんなに簡単なのか。
 作品のなかに「他人」が登場しないからである。主役は、「青豆」と「天吾」と2 人いる。ひとりは女性。ひとりは男性。ひとりはジムのインストラクターであり、必殺仕事人のような殺し屋。ひとりは予備校の数学の教師であり、小説家志望。2 人はまったく別人なのに、私には「違い」がわからない。青豆はこんな風に考えるが、天吾はこんな風に考え、2 人の考えは一致しない。その一致しない部分をめぐって、2人がそれぞれにことばを深めていく、いままでのことばではたどりつけなかった何かを発見する――ということがない。
 ふたりは直接出会わない。そして出会わないことをいいことに(?)、厳密な意味で「同じ問題」と向き合わない。ふたりのことばが違う、そしてその違いに気づいて自分のことばを鍛え直すということが回避されている。相手(他人)のことばが自分のことばと違うときづくということは、相手の(そして自分の)思想に気付くということであり、ことばを鍛えなおすとは、それぞれの思想を点検し直す、深める(見落としていた部分を補強する、」修正する)ということなのだが、ふたりにはそういう機会(出会い)がない。主人公がふたりなのに「一人称」の小説である。
 これはふたりが出会う何人かのひととの関係においても同じである。青豆も天吾も何人かのひとと出会うが、その出会いをとおして、「このひとは何を考えている? どうしてそんなふうに考えられる? もしかしたら、自分のことばが間違っている?」とは考えない。すぐに「和解」する。相手のことを理解し、受け入れる。「共通語」で語り始める。
 何人もの登場人物がいるのに、その出会いは様々なのに、そこには「共通語」しかない。これが「気持ち悪さ」の原因である。
 「共通語」をとおりこして、「一人称のことば」で全編が、あらゆる描写が書かれている。
 青豆も天吾も誰かと出会うが、ふたりとも、自分のことばをきたえなおすということは一切ないのである。
 クライマックス(?)ともいうべき青豆とカルト教団の対面でも、ふたりは互いを理解し合う。殺される人間と殺す人間が「世界観」で和解する。こんな気持ち悪いことがあっていいのだろうか。

 「この登場人物大悪人だけれど、とても魅力的、一番好きなのはこの悪人かなあ」「こいつ何を考えているのかわからない。けれど、読んでいる瞬間はそうなんだよなあと思ってしまう」というような、わけのわからない感想に悩まされることがない。
 小説の魅力とは、そこに書かれている人物をとおして、自分のなかのわけのわからないものと向き合い、小説家のことばをとおして自分が変わっていくのを感じる喜び(悲しみ、というのもある)なのだが、そういうことは、この作品では起きない。少なくとも私にはそういうことはいっさい起きなかった。
 こんな不気味で気持ちの悪い小説は初めて読んだ。



 村上春樹が読売新聞のインタビューで、いやなあ発言をしている。(2009年06月16日朝刊一面、および06月16日―18日文化面)

 インターネットで「意見」があふれ返っている時代だからこそ、「物語」は余計に力を持たなくてはならない。

 あ、そうなのだ。村上春樹は「物語」を書いているのだ。「物語」を逸脱していくものが「詩」であり「小説」だと思うが、村上春樹は逸脱することばを嫌っている。すべてを「物語」で定義したいのかもしれない。
 これはいやだなあ。村上春樹の「物語」で定義されたくない。

 世界中がカオス化する中で、シンプルな原理主義は確実に力を増している。こんな複雑な状況にあって、自分の頭で物を考えるのはエネルギーが要るから、たいていの人は出来合いの即席言語を借りて自分で考えた気になり、単純化されたぶん、どうしても原理主義に結びつきやすくなる。

 だが、「1Q84」のなかに出てくる「空気さなぎ」「リトル・ピープル」「ふたつの月」はどうなんだろう。「出来合いの即席言語」ではないのか。天吾は(あるいは青豆)、どんなことばで「空気さなぎ」「リトル・ピープル」「ふたつの月」を定義しなおし、その存在があらわすもの意味を深めていっているか。簡単に「空気さなぎ」「リトル・ピープル」「ふたつの月」を受け入れている。主人公の示しているこういう簡単な納得(和解)こそ、原理主義を支えるものではないのか。主人公に原理主義を支える行動をとらせておいて、原理主義を否定しても、説得力を持たない。
 「物語」という「原理主義」を押し付けられているような、とても嫌な気分である。


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