詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(35)

2009-07-22 07:51:33 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

四二
のぼりとから調布の方へ
多摩川をのぼる
十年の間学問をすてた
都の附近のむさしの野や
さがみの国を
欅の樹をみながら歩いた
冬も楽しみであつた
あの樹木のまがりや
枝ぶりの美しさにみとれて

 最後の2行に西脇の頻繁に用いることばが出てくる。「まがり」。これは「曲がり」。そしてそれと同時に「枝ぶりの美しさ」について書いている。この「美しさ」は私には「淋しい」に非常に近いものに感じる。ほんとうに「淋しい」ものは「まがり」である。そして、その「まがり」があるから、枝ぶりが「美しい」のである。そたに「淋しさ」が反映しているのである。

 この詩には、地名がたくさん出てくる。最初の「のぼりと」が象徴的だが、西脇は、地名を「音」として受け止めている。「意味」ではなく、「音」。「音」が西脇を「意味」から切り離す。そして、そのとき詩が生まれる。



斜塔の迷信―詩論集
西脇 順三郎
恒文社

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松尾真由美『不完全協和音』

2009-07-22 02:40:26 | 詩集
松尾真由美『不完全協和音』(思潮社、2009年06月30日発行)

 松尾真由美『不完全協和音』は2冊組の詩集である。『儚(はかな)いもののあでやかな輝度(きど)をもとめて』と『秘(ひ)めやかな共振(きょうしん)、もしくは招(まね)かれたあとの光度(こうど)が水底(みなそこ)より深(ふか)める』。長いタイトルなので、一度では覚えきれない。--この、長いので覚えられない、というのは、意外と重要な要素かもしれない。松尾の詩の要素かもしれない、と、ふと思った。
 だから、そのことから書く。
 『儚い……』の「余剰に憩うひとときの投身にて」という作品。その書き出し。

そうして
聴こえない耳の
あてどない蝶のひらめき
ひらひらと浮き上がり
躰の奥から滲みだす息にまじわる
みずみずしい地の生理をおぎなうため
禁じられた球根をにぎってみて
ここよりずっと遠いところへ
冷たいぬくもりを乞うたあとの風景が歪んでいく

 引用しながら、どこまでが一つの文なのかわからなくなる。聴こえない耳のなかに蝶がいる。蝶のために耳が聴こえない。聴こえないかわりに、その蝶が見える。耳のなかに。あ、松尾の視力は(視覚)は耳のなかにある。耳のなかに視覚が混在している。視覚が混在しているから、聴覚が聴覚として独立して働かない--それが聴こえないということの理由なのだ。
 このイメージは美しい。そして、それが耳の奥から、耳の聴こえないという闇の奥から浮き上がるとき、その浮上には「息」が関係している。肉体の奥から、必然的に滲み出す「息」、その「息」の動きにあわせて蝶は浮き上がるのだろう。
 そのときの蝶と「息」の「まじわり」。これは、どうしたって、セックスである。耳が聞こえない。けれど、視覚は、相手の「息」を「音」ではなく、肉体の起伏で知る。その起伏、そのときのリズムにあわせて蝶がふわふわと浮く。「息」の風に誘われて、蝶が誘い出されてくるのか、蝶のひらめきがあたらしい息の起伏をひきだすのか。
 そのセックスのなかで、蝶は、よりみずみずしい喜びのために、生理的欲望を補うために、禁じられたことをする。球根をにぎる。禁じられた球根なのか、禁じられていることがにぎることなのか、その区別のつかないまま。球根からのびる茎、その先に花があるとして、それはだれのもの? 球根のもの? それとも蝶のもの? 花は、たとえば百合のように内部に深い闇をかかえ、「耳」のようになっているかもしれない。そうすると、蝶は、舌をその内部にのばすだけではなく、その内部へ還っていくかもしれない。耳のなかに、蝶。そして、聴こえないという現実。
 私は、どこへ来たのか、わからない。わかるのは、

ここよりずっと遠いところ

 「そうして/聴こえない耳の」ということばではじまった運動は、その最初の「ここ」より「ずっと遠いところ」まで来てしまっている。
 こういうことが起きるのは、松尾のことばが、一度では覚えられない長さの呼吸を生きているからである。一度で覚えられないから、少し進んでは、またもどる。戻っては、また進む。そのなかに重複するものが出てきて、その重複が、たがいにもとの形を歪めあう。
 想像力を、ものを歪める力と定義したのはバシュラールだが、この歪める力というのは、またものを持続する力でもある。持続するから歪みが生まれる。持続しないと、歪みにならずに、一瞬の輝きとなって砕け散り、なにも残らない。
 そうして、たがいに歪めあう運動のなかに、たとえば私は、いまセックスの瞬間を想像したのだが、この想像自体も、松尾のことばの運動を歪めているかもしれない。松尾は、ほんとうはまったく別のことを書いているかもしれない。
 わからないのだが、わからないまま、その覚えきれないことばの動きをただ追いかける。行ったり来たりしながら追いかける。そのたびに、ことばにならないものが増えてくる。松尾のことばが増えれば増えるほど、読んでいる私の内部では、ことばにならないものが増えてくる。
 私が引用した松尾の詩は9行だけなのに、私は、そのことばをはるかに上回る数のことばを書いている。そして、上回る数のことばを書けば書くほど、

ここよりずっと遠いところ(へ)

が、くっきりと見えてくる。「ここ」ではなく、「ここより遠いところ」へ向けて、ことばが動いていくのだということが見えてくる。蝶の形をとったり、耳の形をとったり、球根の形をとったりしながら……。
 どこまで動いていくのか。それはわからない。繰り出されることばを覚えきれない--その過去がそんなふうにしてだんだん怪しくなっていくのと同じようにして、未来もだんだん怪しくなっていく。すべてが怪しくなっていくにもかかわらず、その瞬間瞬間の1行ずつは明確で、それが明確であるために、なぜそんなにまで不必要に(?)明確になることで、過去や未来を攪乱するのかよけいにわからなくなり……。

 詩のつづきを少し引用する。

もてあました喘ぎのような一瞬の脈にからまり
濃密な風または酷薄な凪にかたまり

 「または」って何? 「濃密な風」と「酷薄な凪」は正反対のものではないのか。なぜ、それが「または」でつながるのか。同列に並ぶのか。すべてが、同等なのである。「ここ」も「ここよりずっと遠いところ」も同等なのである。同等であるけれど、違いがある。違いがわかる。--この矛盾。矛盾のために、ことばの運動が覚えられない。ひとつのところをめざしているわけではなく、つねに「ここ」と「ここより遠く」という二つの「場」をめざしているからである。
 こういう運動は、わからない。つまり、おぼえることはできない。つねに引き裂かれ、つねに互いを呼び合っている。その矛盾のなかで、それまで固まっていた自分自身の(読者自身の)ことばをときほぐす--そのきっかけが詩なのだ。

 覚えなくてもいいのが、詩なのである。

 逆なのだ。何が書いてあったのか、忘れてしまうのが詩なのだ。ことばが、それまで何としっかり結びついていたのかを忘れてしまって、新しい何かとかってに結びついて動く--その瞬間が詩なのだ。新しい何かと結びつくためには、それまでのことばを忘れなくてはならない。
 覚えてしまっては、だめなのだ。
 「儚いものの、なんだっけ」とか、「あでやかな、なんとかかんとか」「輝度、だったっけ?」とぽつんぽつんと思い出し、そのことばを勝手に動かして、松尾が見なかったものを見てしまう--それが詩である。

 私は「誤読」を気にしない。松尾が何を書こうとしていたかなど、気にしない。聴こえない耳、蝶、球根、息のまじわりから私はセックスを思い描いた。それが松尾の描きたかったものかどうかなど、気にしないのだ。松尾の意図がどうであれ、ひとつひとつとりあげればセックスとは関係ないことばから、私は、セックスを感じた。セックスの響きを感じた。そして、私は、松尾の書いた1行を覚えることはできない、暗唱することはできないけれど、「あ、あのセックスの詩」という具合に、この作品を記憶する。
 それが、詩。
 思い出せなくてもいい。ほんとうにもう一度読みたければ詩集を開く。そのために詩集がある。覚えてしまうなら詩集はいらない。



不完全協和音―consonanza imperfetto
松尾 真由美
思潮社

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