『旅人かへらず』のつづき。
三三
櫟(くぬぎ)のまがり立つ
うす雲の走る日
野辺を歩くみつごとに
女の足袋の淋しさ
この詩にも濁音の美しさ、「くぬぎ」「うすくも」という音の響きあいの美しさがある。「櫟のまがり立つ」の「の」、「うす雲の」の「の」、「女の足袋の」の「の」の繰り返しの音楽がある。
また、もうひとつ、非常に特徴的なことがある。
野辺を歩くみつごとに
の「みつごと」。これは「密事」であろう。ふつうは「みつじ」というと思う。けれど西脇は「みつごと」という。西脇は漢字を「常識」にしたがって読まない。「音」を重視して読み替える。「音楽」にしてしまう。
「みつじ」では「くぬぎ」「まがり」「うす雲(ぐも)」と響きあわない。「みつごと」と読んでこそ、その「ご」が「ぎ」「が」「ぐ」というが行の濁音と響きあうのだ。
この詩は、「音」だけでなく、イメージとしても西脇の嗜好をよくあらわしている。
西脇には、「まがり(る)」というまっすぐではないものへの嗜好もある。西脇にとっては「まがる」は「淋しさ」の根拠のひとつである。たぶん、「まがる」というのは矯正されていないもの、自然なものという意識が西脇にはあるのだと思う。
その一方、「女の足袋」にも「淋しさ」を西脇は感じている。なぜ、女の足袋が淋しいのか。「みつごと」(「むつごと」にも通じる)のときも、女は足袋を履くという「暮らし」を(習慣を)守っている。その習慣は、たぶん、女にとっては「いのち」なのだ。身だしなみを整えるというのは、女の「いのち」のありかたである。そういう根源的な「いのち」のありかたが「淋しい」と呼ばれるものである。
「まがる」というのも、木やその他のものの「いのち」の根源的なあり方である。だから「淋しい」。
三四
思ひはふるへる
秋の野
都に居る人々に
思ひは走る
うどの花が咲いてゐた
都の人々はこの花を知らず
「都の人々」が知らないもの、そういう「いのち」のあり方、それもまた「淋しい」。人の手のはいっていない「自然」。そこには「いのち」が根源的な形で存在する。だから「淋しい」。
その視点から見ると、「女の足袋」は少し変わっているかもしれない。「足袋」は文化である。人の手によってつくられたものである。
けれど。
たぶん、西脇は、「女の足袋」を人の手によってつくられた文化とは見ない。「女」の本性が滲み出た「自然」だと感じる。だから「淋しい」。
どんなときにはあらわれてしまう「いのち」の「本能」の美しさが「淋しさ」なのだと思う。
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