詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(31)

2009-07-18 07:43:10 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

三三
櫟(くぬぎ)のまがり立つ
うす雲の走る日
野辺を歩くみつごとに
女の足袋の淋しさ

 この詩にも濁音の美しさ、「くぬぎ」「うすくも」という音の響きあいの美しさがある。「櫟のまがり立つ」の「の」、「うす雲の」の「の」、「女の足袋の」の「の」の繰り返しの音楽がある。
 また、もうひとつ、非常に特徴的なことがある。

野辺を歩くみつごとに

 の「みつごと」。これは「密事」であろう。ふつうは「みつじ」というと思う。けれど西脇は「みつごと」という。西脇は漢字を「常識」にしたがって読まない。「音」を重視して読み替える。「音楽」にしてしまう。
 「みつじ」では「くぬぎ」「まがり」「うす雲(ぐも)」と響きあわない。「みつごと」と読んでこそ、その「ご」が「ぎ」「が」「ぐ」というが行の濁音と響きあうのだ。

 この詩は、「音」だけでなく、イメージとしても西脇の嗜好をよくあらわしている。
 西脇には、「まがり(る)」というまっすぐではないものへの嗜好もある。西脇にとっては「まがる」は「淋しさ」の根拠のひとつである。たぶん、「まがる」というのは矯正されていないもの、自然なものという意識が西脇にはあるのだと思う。
 その一方、「女の足袋」にも「淋しさ」を西脇は感じている。なぜ、女の足袋が淋しいのか。「みつごと」(「むつごと」にも通じる)のときも、女は足袋を履くという「暮らし」を(習慣を)守っている。その習慣は、たぶん、女にとっては「いのち」なのだ。身だしなみを整えるというのは、女の「いのち」のありかたである。そういう根源的な「いのち」のありかたが「淋しい」と呼ばれるものである。
 「まがる」というのも、木やその他のものの「いのち」の根源的なあり方である。だから「淋しい」。

三四
思ひはふるへる
秋の野
都に居る人々に
思ひは走る
うどの花が咲いてゐた
都の人々はこの花を知らず

 「都の人々」が知らないもの、そういう「いのち」のあり方、それもまた「淋しい」。人の手のはいっていない「自然」。そこには「いのち」が根源的な形で存在する。だから「淋しい」。
 その視点から見ると、「女の足袋」は少し変わっているかもしれない。「足袋」は文化である。人の手によってつくられたものである。
 けれど。
 たぶん、西脇は、「女の足袋」を人の手によってつくられた文化とは見ない。「女」の本性が滲み出た「自然」だと感じる。だから「淋しい」。
 どんなときにはあらわれてしまう「いのち」の「本能」の美しさが「淋しさ」なのだと思う。


評伝 西脇順三郎
新倉 俊一
慶應義塾大学出版会

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林嗣夫「方法」

2009-07-18 01:09:13 | 詩(雑誌・同人誌)
林嗣夫「方法」(「兆」142 、2009年05月01日発行)

 ひとはなぜことばを追い求めるのだろう。林嗣夫は「ことば」を「修辞」と呼んでいる。「方法」という作品。

修辞に疲れたときは
ちょっと立ち上がって
一つ深呼吸をして
お手洗いにでも行ってみるといい
そして手を拭いて
春の空の
とりとめのない雲を眺めてみることだ

修辞にいらだつときは
こっそりその場を抜け出して
抜け出して
しかし 別に行くところもない
行くところもないということを
軽く
口ずさんでみてはどうか

 この2連目が、私はとても好きである。「こっそりその場を抜け出して/抜け出して」「別に行くところもない/行くところもないということを」という繰り返しがいい。言い直そうとして、うまく言い直せない。そのために繰り返しになってしまうのだが、その繰り返しのなかでも、追い求めているものがある。林は何を追い求めているのか。
 3連目。

なぜそんなに
修辞にこだわるだろう
世界は十分にここにあり
しかも変幻自在だというのに
あえて
わたしという欠如を
追いつづけようというのか

 「わたしとという欠如」。「ことば」のなかには「わたしが欠如」している。いま、こうやって語っていることばは、「わたし」のすべてを伝えない。伝えたいことが、いま、ここにあることばではつたわらない。
 こういうことを、ふつうは「ことばの欠如」という。
 「わたしには、わたしのいいたいことをいうことばがない。ことばが欠如している」と。
 しかし、それを林は「ことばの欠如」とは呼ばずに、「わたしの欠如」という。

 ことばはありあまるほどある。欠如しているのは「わたし」である。だからこそ、同じことばを繰り返してみるのである。同じことばを繰り返し、「わたし」がそのことばにまで追い付いてくるのを待ってみるのである。修辞を、ことばを、「わたし」が探しているのではない。「わたし」は修辞を、ことばを追い求めているが、その追い求めるというのは、探すというのではなく、いま、ここにあることばに追い付くことを「わたし」に課すということなのだ。

 私の書いていることは、林の書いていることと逆--矛盾しているように見えるかもしれない。けれど、私から見ると、林のことばはそんなふうに見えるのだ。
 ことばを繰り出して、そのことばを追いかける。それは新しいことばが、そのことばの先にあらわれるのを引き出すため--というよりは、ここでは、ことばに「わたし」が追い付き、そうすることで、「わたし」そのものが変化する、ということなのだ。
 世界はかわる。けれど、「わたし」はかわらない。つまり、「かわるわたし」が「欠如」しているのだ。

 「わたし」がかわれないなら、どうすべきなのか。

修辞で行き詰まったときは
畑にでも出て
土の上に立つのもいいではないか
茎立ちとなった高菜の花を
ぴりっとくる浅漬けにしてみよう
横の小山では ウグイスが
ホーホケホケ

風がやわらかく包もうとしているものを
そのまま
わたしだと言ってみる方法もある

 「わたし」がかわれないとき、「わたし」を捨てる。そして、「わたし」ではないものを「わたし」だと言ってみる。それは、「わたし」を捨て、ある何かに「なってみる」ということと同じだと思う。
 たとえば「わたし」を捨て、「ホーホケホケ」と鳴いているウグイスになってみる。このなってみる、ということは、実は2連目の繰り返しにつながる。
 修辞が、ことばが、みつからない。そのとき、何でもいいからことばを口にしてみる。「抜け出して」とことばにしてみる。そして、つぎに、そのことば「抜け出して」そのものになってみる。「行くところもない」と口にして「行くところもない」ということばそのものになってみる。
 「抜け出して」とか「行くところもない」というような、修辞的ではないことば、かっこよくないことば(?)になってみる。

 うまくいえないが、ここにはなんだか人間の淋しい本質がある。淋しい美しさがある。なんでもないことばになって、そのとき、やっと「わたし」が「わたし」に追い付いてくる。「わたし」は「欠如」しているかもしれないけれど、その「欠如」(それは、修辞的ではないの「ない=欠如」、かっこよくないの「ない=欠如」かもしれないが……)そのものになるという不思議な充足のようなものがある。算数でマイナスとマイナスをかけるとプラスになるような、なにか、不思議な変化がある。

 林は、いま、そういうものと向き合っていると思う。




風―林嗣夫自選詩集
林 嗣夫
ミッドナイトプレス

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