詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(33)

2009-07-20 07:28:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

 西脇の詩でこころを動かされるのは音楽と「自然」である。西脇の書く自然、木々や草が私にはとてもなつかいし。

三九
九月の始め
街道の岩片(かけ)から
青いどんぐりのさがる

 この「青いどんぐり」。まだ完成されないもの(熟成しないもの)に目を止めて、それをいつくしむ視線が私はとても好きだ。曲がった枝やなにかに対する視線も、そだっていく力に対する畏怖の念のようなものが根底にあるように私には感じられる。
 「青いどんぐり」の「青い」ということばも好きである。この青はもちろんブルーではない。グリーン、みどり。みどりを「青い」と呼ぶときの、深い感覚。ことばのなかにある、深い意識--深い意識とつながっている感じが、とてもいい。
 この詩は「青いどんぐり」だからこそ、以下の連が成立する。「みどりのどんぐり」だと、次の連の、人と人をつなぐ深い意識、積み上げてきた「思い」のようなものが浮いてしまう。「青い」どんぐりの「青い」につながる、深い部分の意識が、ふるびた口語のなかに生きている。

窓の淋しき
なかから人の声がする
人間の話す音の淋しき
「だんな このたびは 金比羅詣り
に出かけるてえことだが
これはつまんねーものだがせんべつだ
とってくんねー」

 旅に出る人への餞別--というものが、いまもあるかどうかわからないが、私が子供の頃はそういう風習がまだ生きていた。そして、実際に、西脇が書いているような調子で語る。語りながら餞別を渡す。
 それはつまらない風習かもしれない。けれど、その奥に生きているなにかがある。人と人との深いつながりがある。そういうものが「淋しい」と呼ばれる美しさである。
 西脇は、ただ、そういうものを「意味」にすることは嫌いである。
 それで、「意味」を拒絶して、「音」にしてしまう。「人間の話す音の淋しき」。ここでの「淋しき」は「美しい」と少しもかわらない。

 この「淋しさ」と「美しさ」の関係を、西脇は、次の連で書き換える。この3連目は、「せんべつだ/とってくんねー」と言った人への、返礼である。

「もはや詩が書けない
詩のないところに詩がある
うつつの断片のみ詩となる
うつつは淋しい
淋しく感ずるが故に我あり
淋しみは存在の根本
淋しみは美の本願なり
美は永劫の象徴」

 ふたりの対話は、対話として成立しない。断絶がある。その「断絶」は「淋しい」。けれど、そういう「断絶」を明るみに出す「音」が存在するというのは、とても「美しい」。
 「断絶」という意識は、その奥で「連続」という意識を呼び覚ます。つながるべきものがつながらず「断絶」する。その断面に動いていることば、その音。「意味」に還元せずに、「音」のまま、放り出す。その瞬間に

 詩

 がくっきりと浮かびあがる。
 「詩のないところに詩がある」は「意味のないところに詩がある」と同義である。「意味がない」とは「断片」のまま、連続(接続)を拒絶しているということである。連続していないから、孤独。孤独だから淋しい。そして、その不連続を意識するところに「美」がある。

 「美」は不連続の存在である。




北原白秋詩集 (青春の詩集/日本篇 (14))
北原 白秋,西脇 順三郎
白凰社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩佐なを「黙礼」

2009-07-20 02:24:32 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「黙礼」(「孔雀船」74、2009年07月15日発行)

 詩を読んでいるとき、私は「意味」を考えていない。私は、私の知らないところからふいにあらわれてくることばを待っている。驚きの一瞬を待っている。
 岩佐なを「黙礼」は、とても「ひくい」ことばではじまる。思わず身を正さずにはいられない「(質の)高い」ことばではなく、あまり注意を傾けなくても、なんとなく読んでしまえることばからはじまる。

一月にその街を歩いた
街と呼べるのかヒトがいなかった
運河が道路より
ほんのちょっと(これくらい)下に流れていて

 そして、その「ひくい」ことばを(これくらい)というふいの挿入によってさらに「ひくい」ものにする。ことばを読んでいるというより、なにか、ある日のできごとをぼんやりと聞かされている感じになる。(これくらい)にともなう肉体の動きもふと目に浮かび(私は岩佐には会ったことがないけれど……)、ことばではなく、その肉体の方へ少し引きずり込まれたような気持ちになる。
 これは、おもしろい、と私は思う。
 「意味」ではなく、「意味」になるまえの、ことばのうごめきがある。話し方、ことばの動かし方、しかもそこに肉体が絡んできて、それから先は、はっきり言って、私は「ことば」を読んでいない。
 岩佐の口調、ことばのリズム、そのうさんくさい(?)ものを楽しんでいる。(うさんくさい、は、私にとってはほめことば、です。)
 岩佐のことばは、なにか「意味」を裏切っている。いま、ここにある「意味」、流通している「意味」を裏切って、そういうことばでは伝えられないものを「口調」のなかにあふれさせている。
 意味を裏切る、意味をこばむ、そして意味以外のものを伝えようとすることばは「うさんくさい」。私をどこへ連れて行くかわからない。この、一種の不安な感じ、えっ、どこへ連れて行かれるの? というわからなさが、たぶん詩なのである。
 どこへ行くかわかっているとき、そこには詩はあらわれない。

一月にその街を歩いた
街と呼べるのかヒトがいなかった
運河が道路より
ほんのちょっと(これくらい)下に流れていて
流れなくて淀んでいるだけ
だったかもしれずただ
まっぱだかのキューピーさんが浮いていた
(しっかりして下さいっ)

 変でしょ? だれもいない街。運河。そこにキューピーが浮いている。ヒトに呼びかけるように「しっかりして下さいっ」とほんとうに言ったの? それとも、ここで、こんなふうに驚かすと、読者(聴き手)が、ぐいっとさらに接近してくると思って、そう書いただけ? 
 ようするに、トリック? (話術、という言い方もあるけれど。)
 なんでもいい、と私は思う。
 ここには、ほんとうに「意味」はない。ただ、人を(読者を)ひきずりまわすことばの動きがあるだけである。読者をひきずりまわす、というのは、岩佐自身をもひきずりまわすということでもあるのだが、まあ、いっしょになって、どこか知らないことばの動きを追っていみているだけなのだ。ことばは、どこまで動いていくことができるか。それを、こんなふうにして動かして、楽しんでいる。
 そして、だんだん、描写がリアルになってくる。リアルな感じがあふれてくる。岩佐が「一月にその街を歩いた」というのがほんとうかどうかは問題ではなく、つまり、岩佐の体験・経験とは無関係に「街」そのものがリアルに見えてくる。
 というより、やっぱり、岩佐の体温になじんだ「街」、その「街」を歩く岩佐の肉体がリアルになってくるということかな?
 「街」と岩佐の「肉体」の区別がなくなる--ということかもしれない。
 ここまで、書くと、ほら、うさんくささが何かがわかるでしょ? うさんくさいというのは、あることがらが、ある人の体温にあたためられて、それ自体の匂いではなく、岩佐の体温を発しているということ。「街」の匂いを嗅いだつもりが、岩佐の匂いを嗅いでいる。人間の匂いって、臭いでしょ?(ごめんなさいね、岩佐さん。)

 で、匂いが、どんどん強烈になってきます。うさんくさいを通り越して、あ、臭い--という感じ。
 詩のつづき。

夏に雨嵐がくると道路まで
水路になり水が引いたあとは
消毒薬臭の街に変わるに違いない

 おーい、どうして「夏嵐」なんだよ。「一月にその街を歩いた」のじゃなかったのかい。なんて、ちゃちゃを入れるまもなく、どんどん臭さは暴走していく。増幅して行く。もう、臭いということも忘れてしまう。そして、嗅覚がなじんでしまうと、嗅覚に刺戟された視覚が、またまた変なものを見つけ出してくる。

いぢいぢと生きる虫メらは
水か消毒薬で殺られるだろう
そのかたわらを赤目の鼠が
忍びの者ふうな速足で走るだろう
鼠たちは白茶けた細い紐を咥え
これはヒトが心ぼそくなった折に
心からひりだす細くちぢれた紐

 あ、いいなあ、なんだかわからないけれど、「街」と「肉体」と「心」が融合して(こんがらがって?)、とっても変。
 「ヒトが心ぼそくなった折に/心からひりだす細くちぢれた紐」なんて、あるかどうかわからない。言い換えると、これは、ことばでしかありえない何かである。
 これが詩。

 びっくりするなあ。何がなんだか、わからないけれど、この「紐」の部分が強烈だ。もう、あとは、どうでもいい。岩佐さん、またまた、ごめんなさい。でも、この「紐」があるから、この作品は詩になっている。紐に「意味」をつけくわえたいひとはかってにつけくわえればいい。私は「意味」をつけくわえず、どんな説明もなしに、この紐がいい、紐にびっくりした、紐にうれしくなった、と書く。

 このあとも、さらに変になる。

これはヒトが心ぼそくなった折に
心からひりだす細くちぢれた紐
そうしたものを口で引きずって
地下まで報せに走る秘密のオネズがいる
街を来年の一月に歩いた
さらいねんも

 「来年の一月」は未来。その未来に「歩いた」という過去形はあわない。学校文法なら、間違っている。この間違っている、ということ、「意味」を超越するということが、詩なのである。だから、これはこれでいいのだ。
 間違うことで、いっそううさんくさくなっていくのである。詩になっていくのである。



岩佐なを 銅版画蔵書票集―エクスリブリスの詩情 1981‐2005
岩佐 なを
美術出版社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする