『旅人かへらず』のつづき。
西脇の詩でこころを動かされるのは音楽と「自然」である。西脇の書く自然、木々や草が私にはとてもなつかいし。
三九
九月の始め
街道の岩片(かけ)から
青いどんぐりのさがる
この「青いどんぐり」。まだ完成されないもの(熟成しないもの)に目を止めて、それをいつくしむ視線が私はとても好きだ。曲がった枝やなにかに対する視線も、そだっていく力に対する畏怖の念のようなものが根底にあるように私には感じられる。
「青いどんぐり」の「青い」ということばも好きである。この青はもちろんブルーではない。グリーン、みどり。みどりを「青い」と呼ぶときの、深い感覚。ことばのなかにある、深い意識--深い意識とつながっている感じが、とてもいい。
この詩は「青いどんぐり」だからこそ、以下の連が成立する。「みどりのどんぐり」だと、次の連の、人と人をつなぐ深い意識、積み上げてきた「思い」のようなものが浮いてしまう。「青い」どんぐりの「青い」につながる、深い部分の意識が、ふるびた口語のなかに生きている。
窓の淋しき
なかから人の声がする
人間の話す音の淋しき
「だんな このたびは 金比羅詣り
に出かけるてえことだが
これはつまんねーものだがせんべつだ
とってくんねー」
旅に出る人への餞別--というものが、いまもあるかどうかわからないが、私が子供の頃はそういう風習がまだ生きていた。そして、実際に、西脇が書いているような調子で語る。語りながら餞別を渡す。
それはつまらない風習かもしれない。けれど、その奥に生きているなにかがある。人と人との深いつながりがある。そういうものが「淋しい」と呼ばれる美しさである。
西脇は、ただ、そういうものを「意味」にすることは嫌いである。
それで、「意味」を拒絶して、「音」にしてしまう。「人間の話す音の淋しき」。ここでの「淋しき」は「美しい」と少しもかわらない。
この「淋しさ」と「美しさ」の関係を、西脇は、次の連で書き換える。この3連目は、「せんべつだ/とってくんねー」と言った人への、返礼である。
「もはや詩が書けない
詩のないところに詩がある
うつつの断片のみ詩となる
うつつは淋しい
淋しく感ずるが故に我あり
淋しみは存在の根本
淋しみは美の本願なり
美は永劫の象徴」
ふたりの対話は、対話として成立しない。断絶がある。その「断絶」は「淋しい」。けれど、そういう「断絶」を明るみに出す「音」が存在するというのは、とても「美しい」。
「断絶」という意識は、その奥で「連続」という意識を呼び覚ます。つながるべきものがつながらず「断絶」する。その断面に動いていることば、その音。「意味」に還元せずに、「音」のまま、放り出す。その瞬間に
詩
がくっきりと浮かびあがる。
「詩のないところに詩がある」は「意味のないところに詩がある」と同義である。「意味がない」とは「断片」のまま、連続(接続)を拒絶しているということである。連続していないから、孤独。孤独だから淋しい。そして、その不連続を意識するところに「美」がある。
「美」は不連続の存在である。
北原白秋詩集 (青春の詩集/日本篇 (14))北原 白秋,西脇 順三郎白凰社このアイテムの詳細を見る |