松尾真由美『不完全協和音』(2)(思潮社、2009年06月30日発行)
松尾真由美の詩は覚えられない。「長い」ということのほかに、もうひとつ別の要素がある。「なおも狂れゆく塵の漂白」(なんというタイトルだろう、「狂れゆく」は「くれゆく」と読むのだろうか)の最後の部分。
こうして私はあなたの肩の横のあたりに立っている
剥奪しあい贈与しあい跛行しあい蒸散しあう尾の裏の
しめやかな森をつくって
埋もれていくのだ
ふたりで
いやひとりで
もしくは複数の
影をたばね
このように
撚った糸
炎える
「ふたりで/いやひとりで/もしくは複数の」。この3行が象徴的だが、松尾のことばの運動は「ひとつ」ではない。複数なのである。しかも、その複数であることが「ひとり」であり、同時に「ふたり」なのだ。「主語」にとらわれない--と、言い換えることができるかもしれない。
そこに描かれるのは「ストーリー」ではない。「場」である。「場」には複数の主語が集まってくる。それは「ひとり」のストーリーを主張し、あるときは大切な人をみつけ「ふたり」のストーリーにすることもあれば、複数のストーリーのなかにまぎれ、「ひとり」であることを放棄することもある。
だから、同時に、いくつものことが起きる。
「剥奪しあい贈与しあい跛行しあい蒸散しあう」--という複数のことは、実は「ひとつ」である。ある「場」で起きたこと、と言いなおすと「ひとつ」になる。
「……しあう」ということばは、あらゆる行為が、ことばの運動が「相互作用」であることをあきらかにする。「ひとつ」のストーリーに向けた運動ではなく、ただ、そこにある「運動」。どこへも行かないことで、いま、ここから離れてしまう運動。
「ふたりで/いやひとりで/もしくは複数の」とは、また、「だれでもない」ということでもあるかもしれない。
「だれでもない」瞬間、その「場」が詩になる。誰からのストーリーからも独立して、その「場」(もの)そのものが詩になる。
ストーリーから独立していくもの--それはストーリーを破壊していくものと同じである。ストーリーに属さないもの。それが詩である。
はなれゆくものの回路をあいまいに断ちつづけ
「ただゆるやかに夜の記録は波立つ」の、この美しい1行。
ストーリーから離れていくものを、さらに断ち切る。ストーリーを破壊していくもの、そのことばの運動、それを「戻り道」(回路、と松尾は書いているが)を、完全に断ち切り、ストーリーを破壊するものを、完全に浮遊させる。何者にも帰属させない。
帰属不明であるから、それはけっして覚えられない。覚えるとは、何かに帰属させること。アイデンティティーを明確にすることである。松尾は、それを拒絶している。しかも、そのストーリーを破壊し、離れて行くものは、小石のように小さくはない。むしろ、長い長い「紐」(糸)のようなものなのだ。長いものはおのずと「ストーリー」を内包するものだが、そういうストーリーを、松尾は、「ふたりで/いやひとりで/もしくは複数の」の行にみられる「いや」「もしくは」などのことばで破壊する。その破壊は、「撚る」ということでもある。ほどかなければどうしようもないもの、こんがらがったものにする。
そして、その「撚った糸」はこんがらがりながら、こんがらがることでストーリーになろうとするので(ストーリーとは、こんがらがることである)、松尾はさらにそれをほどくということを繰り返す。
これではいったい何をしているのか、まったくわからない。まったくナンセンス--無意味である。その無意味、ナンセンスこそが、詩である。人間を、「意味」から解放するものである。
ナンセンスは、たいがい短いものである。破壊されたものは断片である。そういうものは小さい(短い)というのが、この世の「相場」である。しかし、松尾は、それを長々しく展開する。そこに松尾の特徴がある。短くあるべきものが、長い。そして、長いために自然に、それを短くするものを求めもする。ようするに、循環する。ストーリーを破壊すべきものがストーリーをもち、破壊されることを望む。矛盾する。だから、覚えられない。
どんなものでも記憶されるものは単純である。矛盾しない。あらゆる「定理」は短くて矛盾しない。--松尾は、そういものの対極に詩を築き上げるのである。
と、書きながら、私は、次のような部分にも、非常に惹かれる。魅力を感じる。真似してみたい欲望にかられる。
吐瀉物のなかの灰色の小石
拾うことでつながる擦り傷の窓枠
ふいにあらわれる孤立した淋しさ。長い長いことばの運動のなかにふいに出現する孤独。(他の人が読めば、また違った風に感じるかもしれないけれど。)その一瞬に、私はとても惹かれる。
「ふたりで/いやひとりで/もしくは複数の」--そういう文体が松尾のなかにあるのかもしれない。一つの文体ではない。複数の文体。そして、複数であることによって一つである文体。
松尾の詩集を読みながら考えるのは、そういうことである。きょうは、そこまで考えた。
私の感想は「日記」なので、結論はない。ただ、考えたことを考えたまま、考えたところまで書きつづける。あした、目が覚めれば、きょう考えたことは夢のなかでひっくりかえり、まったく違うことを考えはじめるかもしれない。
--こんなふうに、乱れて長くなるのは松尾の詩を読みすぎたせいだろうか。