詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(36)

2009-07-23 08:36:34 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 『旅人かへらず』のつづき。

四三
或る秋の午後
小平村の英語塾の廊下で
故郷のいとはしたなき女
「先生何か津田文学
に書いて下さいな」といつた
その後その女にあつた時
「先生あんなつまらないものを
下さつて ひどいわ」といはれて
がつかりした
その当時からつまらないものに
興味があつたのでやむを得なかつた
むさし野に秋が来ると
雑木林は恋人の幽霊の音がする
櫟(くぬぎ)がふしくれだつた枝をまげて
淋しい
古さびた黄金に色づき
あの大きなギザギザのある
長い葉がかさかさ音を出す

 前半と後半にわかれる。前半は女とのやりとり。女の口語のなかにある、やわらかな響き。「下さいな」の「な」、「ひどいわ」の「わ」。そこに口語であるけれど、一種の「きまり」のようなものがある。口語にも文体がある。文体には「音」がある。独立した「味」がある。
 その「音」の対極に「つまらないもの」がある。それは女の「口語」の「音」がとらえることのできない「音」の世界である。「淋しい」音である。
 「恋人の幽霊の音」と書いて、そのあと、西脇はその「音」を説明している。具体的に書いている。
 「ふしくれだつた」「まげて」。まっすぐではないもののなかにある「いのち」。「古さびた」もの。「ギザギザ」のもの。新しくはないもの、まっすぐではないもの。そのなかにつづいている「いのち」の音。--それを西脇は「淋しい」と呼ぶ。

 そして、それは、最初に書いたこととは矛盾するかもしれないが、女の口語の「な」とか「わ」という音に通じるものを持っている。「な」とか「わ」は、男のまっすぐな(?)口語から見ると、「つまらない音」であり、男のまっすぐさを逸脱した「音」である。ある意味で、曲がっている。ふしくれだっている。古さびている。「音」のなかに古いものをもっている。古い「いのち」をもっている。その「淋しさ」、その「美しさ」に西脇は共鳴している。
 だから、自然に、前半の女の口語の世界が、西脇のいう「つまらないもの」の世界と向き合う形でつながっていく。
 そして、そのふたつは向き合いながら「和音」をつくる。

 女の「淋しさ」と西脇の「淋しさ」が、共鳴して、和音となって、「美」になる。



定本西脇順三郎全詩集 (1981年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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松尾真由美『不完全協和音』(2)

2009-07-23 02:28:59 | 詩集
松尾真由美『不完全協和音』(2)(思潮社、2009年06月30日発行)

 松尾真由美の詩は覚えられない。「長い」ということのほかに、もうひとつ別の要素がある。「なおも狂れゆく塵の漂白」(なんというタイトルだろう、「狂れゆく」は「くれゆく」と読むのだろうか)の最後の部分。

こうして私はあなたの肩の横のあたりに立っている
剥奪しあい贈与しあい跛行しあい蒸散しあう尾の裏の
しめやかな森をつくって
埋もれていくのだ
ふたりで
いやひとりで
もしくは複数の
影をたばね
このように
撚った糸
炎える

 「ふたりで/いやひとりで/もしくは複数の」。この3行が象徴的だが、松尾のことばの運動は「ひとつ」ではない。複数なのである。しかも、その複数であることが「ひとり」であり、同時に「ふたり」なのだ。「主語」にとらわれない--と、言い換えることができるかもしれない。
 そこに描かれるのは「ストーリー」ではない。「場」である。「場」には複数の主語が集まってくる。それは「ひとり」のストーリーを主張し、あるときは大切な人をみつけ「ふたり」のストーリーにすることもあれば、複数のストーリーのなかにまぎれ、「ひとり」であることを放棄することもある。
 だから、同時に、いくつものことが起きる。
 「剥奪しあい贈与しあい跛行しあい蒸散しあう」--という複数のことは、実は「ひとつ」である。ある「場」で起きたこと、と言いなおすと「ひとつ」になる。
 「……しあう」ということばは、あらゆる行為が、ことばの運動が「相互作用」であることをあきらかにする。「ひとつ」のストーリーに向けた運動ではなく、ただ、そこにある「運動」。どこへも行かないことで、いま、ここから離れてしまう運動。
 「ふたりで/いやひとりで/もしくは複数の」とは、また、「だれでもない」ということでもあるかもしれない。
 「だれでもない」瞬間、その「場」が詩になる。誰からのストーリーからも独立して、その「場」(もの)そのものが詩になる。

 ストーリーから独立していくもの--それはストーリーを破壊していくものと同じである。ストーリーに属さないもの。それが詩である。

はなれゆくものの回路をあいまいに断ちつづけ

 「ただゆるやかに夜の記録は波立つ」の、この美しい1行。
 ストーリーから離れていくものを、さらに断ち切る。ストーリーを破壊していくもの、そのことばの運動、それを「戻り道」(回路、と松尾は書いているが)を、完全に断ち切り、ストーリーを破壊するものを、完全に浮遊させる。何者にも帰属させない。
 帰属不明であるから、それはけっして覚えられない。覚えるとは、何かに帰属させること。アイデンティティーを明確にすることである。松尾は、それを拒絶している。しかも、そのストーリーを破壊し、離れて行くものは、小石のように小さくはない。むしろ、長い長い「紐」(糸)のようなものなのだ。長いものはおのずと「ストーリー」を内包するものだが、そういうストーリーを、松尾は、「ふたりで/いやひとりで/もしくは複数の」の行にみられる「いや」「もしくは」などのことばで破壊する。その破壊は、「撚る」ということでもある。ほどかなければどうしようもないもの、こんがらがったものにする。
 そして、その「撚った糸」はこんがらがりながら、こんがらがることでストーリーになろうとするので(ストーリーとは、こんがらがることである)、松尾はさらにそれをほどくということを繰り返す。
 これではいったい何をしているのか、まったくわからない。まったくナンセンス--無意味である。その無意味、ナンセンスこそが、詩である。人間を、「意味」から解放するものである。

 ナンセンスは、たいがい短いものである。破壊されたものは断片である。そういうものは小さい(短い)というのが、この世の「相場」である。しかし、松尾は、それを長々しく展開する。そこに松尾の特徴がある。短くあるべきものが、長い。そして、長いために自然に、それを短くするものを求めもする。ようするに、循環する。ストーリーを破壊すべきものがストーリーをもち、破壊されることを望む。矛盾する。だから、覚えられない。
 どんなものでも記憶されるものは単純である。矛盾しない。あらゆる「定理」は短くて矛盾しない。--松尾は、そういものの対極に詩を築き上げるのである。

 と、書きながら、私は、次のような部分にも、非常に惹かれる。魅力を感じる。真似してみたい欲望にかられる。

吐瀉物のなかの灰色の小石
拾うことでつながる擦り傷の窓枠

 ふいにあらわれる孤立した淋しさ。長い長いことばの運動のなかにふいに出現する孤独。(他の人が読めば、また違った風に感じるかもしれないけれど。)その一瞬に、私はとても惹かれる。
 「ふたりで/いやひとりで/もしくは複数の」--そういう文体が松尾のなかにあるのかもしれない。一つの文体ではない。複数の文体。そして、複数であることによって一つである文体。

 松尾の詩集を読みながら考えるのは、そういうことである。きょうは、そこまで考えた。
 私の感想は「日記」なので、結論はない。ただ、考えたことを考えたまま、考えたところまで書きつづける。あした、目が覚めれば、きょう考えたことは夢のなかでひっくりかえり、まったく違うことを考えはじめるかもしれない。
 --こんなふうに、乱れて長くなるのは松尾の詩を読みすぎたせいだろうか。



燭花
松尾 真由美
思潮社

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